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第1話(プロローグ)
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職場の警察署を出ると男は空を見上げた。相変わらずどんよりと暗い。仕方ない、雨季も真っ最中である。今は降っていないが時間の問題かと思われた。
人波溢れる歩道に足を踏み出す。左方向に歩き始めた。大通り沿いのここはビル一階にベーカリーやテーラーにファブリックの店など、様々なテナントが入って人々の目を愉しませている。そのテナントショップの一軒を男は覗いた。
少々気恥ずかしい思いをしながら一歩踏み入ったのは花屋だった。
気恥ずかしいだけでなく、初めて入った店に物珍しい思いもあって眺めてみると、店内では生花と造花が同じくらいの比率で売り物になっていた。生花は結構な値段だったが、ここで造花は様にならないだろうと考え、生花のコーナーを丹念に見て歩く。
花など購入したこともない男は構わず放っておいてくれる年配の女性店員に却って感謝しながらピンクの薔薇に目を付けた。そう強くないが柔らかな甘い香りがする。大きなバケツに数十本も浸けてあって、じっと眺めて一番綺麗な一本を選んだ。
花束など抱える根性はない。薔薇一本とポケットの中の小箱で充分だろう。
リボンの掛かった小箱を手触りで確かめながら花屋を出ると、長身を伸び上がらせてタクシーを探す。バスでも良かったが現時点で既に二十分の遅刻という有様だ。
署の方に少し戻った辺りで空車のタクシーを捕まえる。まだ前の客の体温が残っている後部座席に滑り込むと「ウィンザーホテルまで」と告げた。ドライバーは頷いて発車させる。この街でウィンザーホテルを間違うタクシードライバーはいない。
窓外を眺めると重く垂れ込めた黒い雲に対抗するかの如く、大通りを走る車は色鮮やかだ。歩道を行く人々が携えた傘も街を彩っている。極端なОDA拠出国囲い込み政策のお蔭でこの国は潤いもしたが、反作用を糊塗するように人々はビビッドな色合いを好む。
政治活動が禁止されている警察官だからという訳でもなく、それは男にとってどうでもいいことだった。生まれた時からこれなのだ、きっと死ぬまでこのままだろう。
ただ、もし自分にも息子か娘ができたら、一度くらいは余所の国も見に行って欲しいとは思う。いや、その前に自分もハネムーンくらい行くべきか? そうなのか?
それも近いうちに話し合わないと旅行先によっては、すぐには許可も下りない。
また男は腕時計で時刻を確かめた。待ち合わせはホテルのコーヒーラウンジだ。いつもの喫茶店でもないのにこんなに待たせてしまい、おまけに連絡のひとつも入れていないのを思い出して毎度の遅刻以上に気が咎めていた。
だが何も遊んでいたのではない。午後遅くになって管内のコンビニに強盗が入ってしまい、捜査一課の自分も当然ながら出張るハメになったのだ。
勇敢すぎるコンビニのアルバイト学生のお蔭でマル被二名は現行犯逮捕だったため、何とか定時を十五分ほど過ぎたくらいで同僚たちにあとを任せて出てこられたのである。
しかしそれも言い訳だ。彼女はさぞかし居心地の悪い思いをしていることだろう。
けれどウィンザーホテルなどというドレスコードまである場所を選んだのには意味がある。彼女と付き合い始めたのは三年前だった。偶然の出会いで一目惚れした男から、いきなりラフに言った。『一緒に暮らさないか?』と。
あまりにラフな男を試したのか、そのとき彼女はこう返したのだ。
『そうね、三年後のわたしの誕生日までお付き合いが続いたら、結婚してもいいわ』
一緒に暮らしたいほど好きな女と交際して三年。その大事な日が今日なのだ。
思い出して男はスーツのジャケットを脱ぐとポケットからタイを取り出し、ドレスシャツの襟元に巻きつけて結ぼうと試みる。タクシー強盗防止でドライバー席の後部に張ってあるアクリル板をミラー代わりに、滅多に締めないタイは三度目で何とか形になった。
その間にタクシーは高層ビルがびっしりと建ち並ぶ官庁街に入って抜け、オフィスビルが林立するエリアに入っていた。その向こうがショッピング街でウィンザーホテルもそこにある。
周囲が人工色で溢れていたのが落ち着き、だんだん街灯やショーウィンドウのスポットライトの白い電球色に置き換わってゆく。
元々暗かった空が暮れ夜が濃くなってくると、今度は店舗やオフィスの看板のライトアップが華やかになってきた。電子看板も眩くなり、タクシーも周りの車列に倣ってヘッドライトを灯す。ライトや電子看板はこの辺りが一番華やかだ。
ここから高級ホテルのエリアに入ると次は色も細工も繊細な、それでいて温かみのある明かりに変化する。
こういった細かいことで街を捉えている男はこの街が好きなのだ。余所からしたら呆れるような有様となり果てた、こんな街でも。そうでなければ街の平和を命を張ってまで護ろうとは思わない。
様々な明かりを眺めて溜息。まだ連絡すべきかどうか迷っている自分が可笑しい。
結局、約束に遅れること三十五分でウィンザーホテルに着いた。料金を支払うと外からドアマンがドアを開けてくれる。世界各国にチェーン展開する最高級ホテルのエントランスには派手な飾りのついた制服を着込んだ警備員も複数立っていた。
そんなホテルのロビーは巨大且つ精緻な細工のシャンデリアに照らされ、虹色の光を浴びながら人々が思い思いに過ごしている。男性客はタキシードか仕立てのいいスーツに身を固め、ご婦人方のイブニングドレスをより引き立たせていた。
女性たちが翻す鮮やかな裳裾を目にした男は、安物スーツの自分より彼女のことが心配になる。
宿泊客以外でも使えるエレベーターに乗ると制服女性に「最上階だ」と告げた。
やっと到着した最上階でエレベーターを降りると目前がコーヒーラウンジだ。店内は結構な数の客がいて、広いラウンジを見渡すと黒服のギャルソンがやってくる。
「お客様、お一人様でしょうか?」
「いや、待ち合わせなんだが……ああ、あそこだ。コーヒーを頼む」
ソファに埋もれそうな細い後ろ姿に歩み寄った。長い黒髪を今日は編んでまとめている。お蔭でほっそりとした首筋の白さが目立った。
「エメリナ、遅れて悪かった」
そう声を掛けロウテーブルを挟んだ向かい側のソファに腰を下ろすと、エメリナは少し怒った顔を作って見せた。白い頬を僅かに膨らませ……そうして微笑んだ。
柔らかなピンクのワンピースに男も微笑み、ずっと手にしていた薔薇を差し出す。エメリナは受け取って顔を明るくした。
「覚えてたの、今日?」
「忘れる訳がないだろう」
運ばれてきたばかりで熱いコーヒーを男は半分ほど一息に飲む。深呼吸をひとつ。
何度も夢の中でリハーサルした科白を口にした。
「エメリナ、約束だ。結婚してくれ」
ポケットから小箱を出してテーブルに置くと、エメリナの方へと押しやる。エメリナは白い頬を紅潮させて小箱を手に取った。リボンを解く手が僅かに震えていた。
取り出した指輪を男は細い指に嵌めてやる。エメリナが手をシャンデリアに翳して見せた。男の精一杯であるダイアモンドはそれほど大きな石ではなかったが、エメリナは煌めくそれを堪らなく嬉しそうに眺めながら声を詰まらせた。
「素敵……高かったでしょう?」
「気にするな……と、言いたいところだが、薄給刑事についてきてくれるのか?」
「そんな、勿論よ」
瞳を潤ませたエメリナと微笑み合った。涙を零すまいと目を瞠っているのが愛しい。そこで思い出した男は新婚旅行について早速エメリナに相談しようとした。
――その時だった。
「カルナデス商事のカイル=ラムゼイ社長だな!」
突然の怒号にラウンジの人々は辺りを見回した。男とエメリナは見回すまでもない、声を発したのは隣のソファ席の傍に立った黒スーツの若い男だったからだ。
怒号を放った黒スーツ男はロウテーブルを囲む商社マン風の中年男四人組を睥睨している。見返す商社マン四人は戸惑いの色が隠せない。どうやら互いに知り合いという訳ではないらしかった。
だが独り頷いた黒スーツは次の瞬間、懐から銃を引き抜きざま発砲していた。
轟音と共に商社マンの一人が胸に銃弾を浴び、ソファの上で躰を跳ねさせる。苦鳴を洩らす間もなく次弾が頭を割った。血と脳漿が白い革張りソファを染め上げる。
惨劇を目にして残る三人の商社マンが逃げ出した。しかし恐怖に腰が抜けていて悲鳴を上げることすらできず、こちらに這ってくるのがやっとである。
そんな彼らに対しても黒スーツの男は容赦なく銃口を向けた。十発近く乱射する。
咄嗟にロウテーブル越しにエメリナの上に覆い被さった男は、見上げた黒スーツ男の銃がホールドオープンしているのに気付いた。全弾発射して空になるとセミ・オートマチック・ピストルは上部のスライドが後退しきった状態になるのだ。
だが残弾のない銃を手にして黒スーツ男はさも可笑しそうに笑っている。エメリナの上から身を起こした男は黒スーツの若い男に飛びついて引き倒した。
ベルトのホルダーから手錠を出し、黒スーツ男の両手首を腰の後ろで縛める。
「十八時二十四分、殺人の現行犯で逮捕する」
全ては十秒足らずの出来事だった。一瞬の静けさのあとラウンジは騒然となる。
自分の発した声で我に返った男は署を通して救急要請しようと携帯を出し、自分の左腕を見て初めて被弾したのを知った。溢れる血で肘から先が血塗れだ。
未だ痛みも感じないまま周囲に目をやる。商社マン四人のうち二人が頭を割られて絶命していた。残る二人は被弾したようだが命は取り留めた。床で身を縮めている。
そしてエメリナは――。
「おい、エメリナ……エメリナ!」
まさかと思った。
エメリナの解けた黒髪から滴っているのは男自身の血だ、そう思い込もうとしてピンクのワンピースを抱き起こし、激しく揺さぶる。
だが辺りに落ちているのは四十五ACP弾という大口径弾の空薬莢だ。至近距離で男の腕を貫通した弾丸はエメリナの右側頭部にまでめり込み、頭蓋内を破壊したのだった。
「エメリナ! エメリナ!!」
男は再び我を失い、自分の声を他人のものの如く聞いていた。
窓外では雨が降り出し、遠く工場の煙突が吐く煤煙と炎が滲んで見えた。
人波溢れる歩道に足を踏み出す。左方向に歩き始めた。大通り沿いのここはビル一階にベーカリーやテーラーにファブリックの店など、様々なテナントが入って人々の目を愉しませている。そのテナントショップの一軒を男は覗いた。
少々気恥ずかしい思いをしながら一歩踏み入ったのは花屋だった。
気恥ずかしいだけでなく、初めて入った店に物珍しい思いもあって眺めてみると、店内では生花と造花が同じくらいの比率で売り物になっていた。生花は結構な値段だったが、ここで造花は様にならないだろうと考え、生花のコーナーを丹念に見て歩く。
花など購入したこともない男は構わず放っておいてくれる年配の女性店員に却って感謝しながらピンクの薔薇に目を付けた。そう強くないが柔らかな甘い香りがする。大きなバケツに数十本も浸けてあって、じっと眺めて一番綺麗な一本を選んだ。
花束など抱える根性はない。薔薇一本とポケットの中の小箱で充分だろう。
リボンの掛かった小箱を手触りで確かめながら花屋を出ると、長身を伸び上がらせてタクシーを探す。バスでも良かったが現時点で既に二十分の遅刻という有様だ。
署の方に少し戻った辺りで空車のタクシーを捕まえる。まだ前の客の体温が残っている後部座席に滑り込むと「ウィンザーホテルまで」と告げた。ドライバーは頷いて発車させる。この街でウィンザーホテルを間違うタクシードライバーはいない。
窓外を眺めると重く垂れ込めた黒い雲に対抗するかの如く、大通りを走る車は色鮮やかだ。歩道を行く人々が携えた傘も街を彩っている。極端なОDA拠出国囲い込み政策のお蔭でこの国は潤いもしたが、反作用を糊塗するように人々はビビッドな色合いを好む。
政治活動が禁止されている警察官だからという訳でもなく、それは男にとってどうでもいいことだった。生まれた時からこれなのだ、きっと死ぬまでこのままだろう。
ただ、もし自分にも息子か娘ができたら、一度くらいは余所の国も見に行って欲しいとは思う。いや、その前に自分もハネムーンくらい行くべきか? そうなのか?
それも近いうちに話し合わないと旅行先によっては、すぐには許可も下りない。
また男は腕時計で時刻を確かめた。待ち合わせはホテルのコーヒーラウンジだ。いつもの喫茶店でもないのにこんなに待たせてしまい、おまけに連絡のひとつも入れていないのを思い出して毎度の遅刻以上に気が咎めていた。
だが何も遊んでいたのではない。午後遅くになって管内のコンビニに強盗が入ってしまい、捜査一課の自分も当然ながら出張るハメになったのだ。
勇敢すぎるコンビニのアルバイト学生のお蔭でマル被二名は現行犯逮捕だったため、何とか定時を十五分ほど過ぎたくらいで同僚たちにあとを任せて出てこられたのである。
しかしそれも言い訳だ。彼女はさぞかし居心地の悪い思いをしていることだろう。
けれどウィンザーホテルなどというドレスコードまである場所を選んだのには意味がある。彼女と付き合い始めたのは三年前だった。偶然の出会いで一目惚れした男から、いきなりラフに言った。『一緒に暮らさないか?』と。
あまりにラフな男を試したのか、そのとき彼女はこう返したのだ。
『そうね、三年後のわたしの誕生日までお付き合いが続いたら、結婚してもいいわ』
一緒に暮らしたいほど好きな女と交際して三年。その大事な日が今日なのだ。
思い出して男はスーツのジャケットを脱ぐとポケットからタイを取り出し、ドレスシャツの襟元に巻きつけて結ぼうと試みる。タクシー強盗防止でドライバー席の後部に張ってあるアクリル板をミラー代わりに、滅多に締めないタイは三度目で何とか形になった。
その間にタクシーは高層ビルがびっしりと建ち並ぶ官庁街に入って抜け、オフィスビルが林立するエリアに入っていた。その向こうがショッピング街でウィンザーホテルもそこにある。
周囲が人工色で溢れていたのが落ち着き、だんだん街灯やショーウィンドウのスポットライトの白い電球色に置き換わってゆく。
元々暗かった空が暮れ夜が濃くなってくると、今度は店舗やオフィスの看板のライトアップが華やかになってきた。電子看板も眩くなり、タクシーも周りの車列に倣ってヘッドライトを灯す。ライトや電子看板はこの辺りが一番華やかだ。
ここから高級ホテルのエリアに入ると次は色も細工も繊細な、それでいて温かみのある明かりに変化する。
こういった細かいことで街を捉えている男はこの街が好きなのだ。余所からしたら呆れるような有様となり果てた、こんな街でも。そうでなければ街の平和を命を張ってまで護ろうとは思わない。
様々な明かりを眺めて溜息。まだ連絡すべきかどうか迷っている自分が可笑しい。
結局、約束に遅れること三十五分でウィンザーホテルに着いた。料金を支払うと外からドアマンがドアを開けてくれる。世界各国にチェーン展開する最高級ホテルのエントランスには派手な飾りのついた制服を着込んだ警備員も複数立っていた。
そんなホテルのロビーは巨大且つ精緻な細工のシャンデリアに照らされ、虹色の光を浴びながら人々が思い思いに過ごしている。男性客はタキシードか仕立てのいいスーツに身を固め、ご婦人方のイブニングドレスをより引き立たせていた。
女性たちが翻す鮮やかな裳裾を目にした男は、安物スーツの自分より彼女のことが心配になる。
宿泊客以外でも使えるエレベーターに乗ると制服女性に「最上階だ」と告げた。
やっと到着した最上階でエレベーターを降りると目前がコーヒーラウンジだ。店内は結構な数の客がいて、広いラウンジを見渡すと黒服のギャルソンがやってくる。
「お客様、お一人様でしょうか?」
「いや、待ち合わせなんだが……ああ、あそこだ。コーヒーを頼む」
ソファに埋もれそうな細い後ろ姿に歩み寄った。長い黒髪を今日は編んでまとめている。お蔭でほっそりとした首筋の白さが目立った。
「エメリナ、遅れて悪かった」
そう声を掛けロウテーブルを挟んだ向かい側のソファに腰を下ろすと、エメリナは少し怒った顔を作って見せた。白い頬を僅かに膨らませ……そうして微笑んだ。
柔らかなピンクのワンピースに男も微笑み、ずっと手にしていた薔薇を差し出す。エメリナは受け取って顔を明るくした。
「覚えてたの、今日?」
「忘れる訳がないだろう」
運ばれてきたばかりで熱いコーヒーを男は半分ほど一息に飲む。深呼吸をひとつ。
何度も夢の中でリハーサルした科白を口にした。
「エメリナ、約束だ。結婚してくれ」
ポケットから小箱を出してテーブルに置くと、エメリナの方へと押しやる。エメリナは白い頬を紅潮させて小箱を手に取った。リボンを解く手が僅かに震えていた。
取り出した指輪を男は細い指に嵌めてやる。エメリナが手をシャンデリアに翳して見せた。男の精一杯であるダイアモンドはそれほど大きな石ではなかったが、エメリナは煌めくそれを堪らなく嬉しそうに眺めながら声を詰まらせた。
「素敵……高かったでしょう?」
「気にするな……と、言いたいところだが、薄給刑事についてきてくれるのか?」
「そんな、勿論よ」
瞳を潤ませたエメリナと微笑み合った。涙を零すまいと目を瞠っているのが愛しい。そこで思い出した男は新婚旅行について早速エメリナに相談しようとした。
――その時だった。
「カルナデス商事のカイル=ラムゼイ社長だな!」
突然の怒号にラウンジの人々は辺りを見回した。男とエメリナは見回すまでもない、声を発したのは隣のソファ席の傍に立った黒スーツの若い男だったからだ。
怒号を放った黒スーツ男はロウテーブルを囲む商社マン風の中年男四人組を睥睨している。見返す商社マン四人は戸惑いの色が隠せない。どうやら互いに知り合いという訳ではないらしかった。
だが独り頷いた黒スーツは次の瞬間、懐から銃を引き抜きざま発砲していた。
轟音と共に商社マンの一人が胸に銃弾を浴び、ソファの上で躰を跳ねさせる。苦鳴を洩らす間もなく次弾が頭を割った。血と脳漿が白い革張りソファを染め上げる。
惨劇を目にして残る三人の商社マンが逃げ出した。しかし恐怖に腰が抜けていて悲鳴を上げることすらできず、こちらに這ってくるのがやっとである。
そんな彼らに対しても黒スーツの男は容赦なく銃口を向けた。十発近く乱射する。
咄嗟にロウテーブル越しにエメリナの上に覆い被さった男は、見上げた黒スーツ男の銃がホールドオープンしているのに気付いた。全弾発射して空になるとセミ・オートマチック・ピストルは上部のスライドが後退しきった状態になるのだ。
だが残弾のない銃を手にして黒スーツ男はさも可笑しそうに笑っている。エメリナの上から身を起こした男は黒スーツの若い男に飛びついて引き倒した。
ベルトのホルダーから手錠を出し、黒スーツ男の両手首を腰の後ろで縛める。
「十八時二十四分、殺人の現行犯で逮捕する」
全ては十秒足らずの出来事だった。一瞬の静けさのあとラウンジは騒然となる。
自分の発した声で我に返った男は署を通して救急要請しようと携帯を出し、自分の左腕を見て初めて被弾したのを知った。溢れる血で肘から先が血塗れだ。
未だ痛みも感じないまま周囲に目をやる。商社マン四人のうち二人が頭を割られて絶命していた。残る二人は被弾したようだが命は取り留めた。床で身を縮めている。
そしてエメリナは――。
「おい、エメリナ……エメリナ!」
まさかと思った。
エメリナの解けた黒髪から滴っているのは男自身の血だ、そう思い込もうとしてピンクのワンピースを抱き起こし、激しく揺さぶる。
だが辺りに落ちているのは四十五ACP弾という大口径弾の空薬莢だ。至近距離で男の腕を貫通した弾丸はエメリナの右側頭部にまでめり込み、頭蓋内を破壊したのだった。
「エメリナ! エメリナ!!」
男は再び我を失い、自分の声を他人のものの如く聞いていた。
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