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第17話

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 頭を上げたエセルは無表情でグラスを見つめたのち、手渡されたそれをまた減らし出す。しかし中年の若頭は真顔のまま、声だけに笑いを含んでエセルを煽った。

「俺の酒はそんなに不味いのか? もっとグイッといけ、グイッと」

 煽るというよりも脅しである。仕方なくエセルは一気にグラスを空けた。
 けれど一度に二センチとはいえストレートのウィスキーである。さすがに五杯目を空にしてエセルは顔色を変えた。赤くなったならともかく白い肌を更に真っ白にしている。急性アルコール中毒一歩手前だ。
 見ていた和音の方が限界となり、エセルの腕を掴んで傍の椅子に座らせると、突き出されたグラスのウィスキーを奪って飲み干した。

「相棒を苛めるのはやめてくれ。酒の相手なら俺がする」
「夏木で食い詰めた雇われガード如きが、酒の相手になる訳ないだろうが!」

 笑い出した若頭がエセルの腕を引き、強引に立たせる。大柄な若頭はそのままエセルをすくい上げて横抱きにすると、笑いながら上階に繋がる階段の方へ向かった。

「ちょっと待てよ! そいつをどうするつもりだ?」
「組長の声掛かりだ、言葉通りに相当の『寝業師』らしいからな」
「待て、そんなに飲ませて……死んじまうぞ! エセル、エセル!」

 急性アル中になりかけた躰を弄ばれては命に関わる。慌てて追った。だが若頭に横抱きにされたエセル自身が和音に向かって首を横に振る。アメジストの瞳で真っ直ぐに見て訴えた。

「いいから、新城。僕は大丈夫」
「何処が大丈夫……んな顔色して、ふざけんな!」
「新城! もう黙ってて!」

 若頭の襟首を掴もうとした和音をエセルの鋭い声が留める。ここで若頭を殴りでもすれば何がどうなるか分からない。相手は論理が通じない上に簡単に人を殺す輩だ。組長命令に逆らったとして和音だけでも海に放り込まれるかも知れなかった。

 それを危惧し特命を念頭に置いてエセルは和音を止めたのだと承知している。しかしガード初日にして酔わせた上で嬲りものにするなど和音の予想を超えたえげつなさだった。

「エセル……だめだ、エセル!」

 声を限りに叫んだが、エセルは和音に頷いてみせると、若頭に横抱きにされたまま上階に消える。それでもなお追おうとした和音の肩に何かが触れた。怒りを宿した切れ長の目で振り返ると石原代貸が宥めるように和音の肩を軽く叩いている。

「そう心配なさらずに。あれだけ『使える』ユージンさんを殺したりはしませんよ」
「殺される、そこから数えて何番目に酷いことをされると思ってんだよ?」
「でもまあ、男の方ですし……ほら、こちらで飲みませんか?」

 代貸の言葉でウィスキーだの缶ビールだのが出され、スナック菓子のつまみと一緒にテーブルに並べられた。ガードの皆が酔わない程度の軽い酒宴が始まる。
 あれだけ騒いだのだ。和音とエセルの仲を皆が悟っていて、座らされた和音の紙コップに石原代貸やガード仲間が次々とウィスキーやビールを注いだ。

 ざわめきの中で酔えないと知りつつ和音は注がれるままに飲む。だがそのざわめきに上階から甘く高い声が洩れてきて混じりだすと、一瞬皆が静かになった。しかし次には和音に気を使ったものか、先程までより大声で石原代貸が喋り始める。皆も代貸に倣った。

「ほらほら、新城さんはもっと飲んで!」

 機械的に紙コップを口に運ぶだけで、和音の思考は当然ながらエセルのことだけに占められている。高貴なまでに美しい白い肌が、長くさらさらの明るい金髪が、和音だけの狭いあの聖域が犯され汚されているのだ。それもたった数メートルしか離れていない場所で。

 もはや嫉妬などという単純なものではなく、様々な想いが一度に噴き出して、それこそ過剰なストレスで本当に胃袋に穴が空くんじゃねぇかと思い、頭の芯までが痛んでくる。
 おまけに組長だけではない、若頭や浜口貸元も上階にいるのだ。あれだけ飲まされた挙げ句に三人もの相手をしたら華奢な躰はただでは済まないだろうと思われた。

 やがてクルーザーはマリーナに着いたが、夜の海に停泊したまま三十分ほども和音たちガードは待たされる。その間、ずっと甘い声が一階にまで響いていた。
 そうして上階の四人はやっと降りてきたが、弾かれたように立ち上がった和音が見たのは、またも若頭に横抱きにされて目を瞑ったエセルだった。

「エセル……おい、エセル!」

 駆け寄った和音はガード、本来は両手を塞ぐことはできない。だが温情の如く若頭はエセルの身を和音に渡す。和音は若頭や組長に浜口貸元の頭をぶち抜いてやりたい思いを抑えて、何よりも大事なエセルを両腕で抱きかかえた。

「エセル、頼む、エセル……大丈夫か!」
「ん……新城、僕は、平気……だから――」

 呟いただけで目も開けないエセルは白さを越え透けるような肌色をしている。平気な筈はなかった。そんな二人を笑って眺めていた組長がさっさと歩き出す。ガードが取り囲んで一団が向かったのはヨットハウスのレストランだった。

 席の予約をしていたようで殆ど貸し切り状態である。真ん中のテーブルに着いた組長以下四人の幹部たちを囲んで、今夜はガードも同席の夕食会らしい。
 だが胃が固まってしまったような和音はエセルを抱いたまま、席には着かずにティーラウンジのソファに腰を下ろした。ウェイターにオレンジジュースだけ頼む。

 抱いたエセルはいつもながらの軽さだったが、今は更に軽く感じて切なくなり細い腰になるべく負担を掛けないよう気遣いながらも、華奢な身をきつく抱き締めた。
 するとようやくエセルは鈍くアメジストの瞳を覗かせる。

「あっ、く……新城?」
「ああ。エセル、何処か痛い処でもあるのか?」
「疲れちゃったのと、ほんのちょっとだけ、腰と粘膜やられちゃったみたい」
「そうか……ほら、水分と糖分だけでも摂れよな」

 ストローを口に近づけてやるとオレンジジュースをグラス半分飲み干したので和音は少しだけ安堵した。気丈にもエセルは微笑んだのち、ごく小さな声で話し出す。

「けどね、ヤラれただけのことはあったかも」
「どういうことだよ、それ?」
「明後日の夜、密入国便の船が沖までくるよ」
「えっ、マジかよ、そいつは!」

「しっ、声が大きい。沖で向こうの船からこっちの船に密入国者を移すんだってサ。こっちの船は何処かの離島に密入国者を一旦収容するらしいんだけど、その島までは探れなかったよ」

 至極残念そうにエセルは言ったが大収穫、だが和音は探り出したエセルに驚嘆しながらも手段が手段で素直に喜べずにいた。ジュースをやっとひとくち飲んで祈るように言う。

「なあ、お前が躰を張るのはここまでにしようぜ」
「どうして? チャンスがあれば生かして有益な情報に繋げなきゃ」

「もう充分だろ。あとは県警に浜口会と長瀬組を張らせればいい」
「大々的に張って悟られたら全ておじゃんだよ? だから僕らが潜入したんだもん」

 言われてみればその通りなのだが和音は酷い頭痛に耐えながら、もう携帯で春野本部長にメールを打ち始めていた。ここまでで得た情報を短くまとめると、そらで覚えていた本部長のメールアドレスに送信してからメールそのものをデリートする。

「これで県警が動けば、俺たちは速攻で離脱するからな」
「だからってそれをどうやって知るのサ? 本部長も不用意に返事は寄越さないよ」

 それも確かだったが、いちいち正論で返されて和音はもう苛つくことすらできず、溜息をつくしかなかった。そのうちに食事を早めに終わらせたガードが何人かやってきて煙草を吸い始めて密談も不可能となる。
 彼らの視線を前にしたエセルは滑らかに見える挙動で身を起こし、和音から離れて隣のソファに腰掛けた。顔つきは見事なまでの無表情である。

 何も出来なかった和音はその白い顔を見て、果たしてこの特命に自分が必要なのだろうかとまで考え始めた。バディは対等、なのに身を削るのはエセルばかりである。
 そんな思考を巡らせているせいか頭痛は酷くなるばかりで、幹部たちが食事を終えて待ち受けていた黒塗りに乗り込んだときには眩暈までしていた。
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