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第40話

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 借りた部屋を片づけて元通りにし、シドとハイファは十時半過ぎにマンションを出た。よそ者として人目を惹くのを何となく避けて、通勤ラッシュが終わるまで待ったのだ。

 エントランスを出て右に針路を取りつつハイファは唇を尖らせている。

「昨日もあんなに熱出したんだから、素直にコイルに乗ればいいのに」
「歩いたって四、五キロあるかないかだろ、せいぜい一時間だ、軽い軽い」
「怪我人の病人が一時間も歩くなんて」
「五月蠅いこと言うなよな。ってか、俺にはまだ宿題があったような気がしてな」

 それはハイファも分かる、シドは考えることをまだ放擲していないのだ。

「眠る前に言ってた、家族が人かどうかってこと?」
「まあな。俺にしてみれば母さんも父さんも本物だった」
「人って言いたいんだね?」
「言いたいんじゃねぇ、若宮紫苑も若宮瑛志も人以外の何者でもないんだ」

「それはそうだよね」
「なら本物のあれは、イコール、人だろうが」
「うーん……」

 第六研究所までのルートは頭に入っていて、話しながらでも辿り着ける。そうでなくとも昨日の帰りにリモータでトレースし、順路は取り込み済みだった。

 暫く歩くと昨夜のコンビニが見えてくる。二人は駐車場に設置されたオートドリンカで保冷ボトルのコーヒーとレモンティーを買い込んだ。シドは並んだ自販機でテラ本星産の輸入煙草を幾つか買い足し、安堵の表情で再び歩き出す。

 暫しの沈黙を破ってハイファが口を開いた。

「今日のBACのことなんだけど……盲信せずに貴方も一度は考えてみて欲しいんだよね、もしかしたらこれは『中国語の部屋』かも知れないってサ」
「中国語の部屋って何だよ?」

「チューリング・テストの話はしたよね? あれの発展形で思考実験、実際に実験はしないんだけどね。まずは……中国語っていうのは分かる? 英国人は?」
「AD世紀の地方言語だろ。あとは大英帝国人か?」
「そう、それが分かれば、あとはね――」

 ハイファはAD世紀の哲学者が考えた思考実験を説明し始めた。

 英国人を小部屋に閉じ込める。彼はアルファベットしか分からない。中国語は一切理解しない人物だ。小部屋には紙切れをやり取りできるだけの穴が開いている。
 さて、この英国人に穴から紙切れが差し入れられた。そこには彼が理解し得ない文字が並んでいる。じつはそれは漢字なのだが、彼にとっては意味の分からない記号の羅列でしかない。

 そして彼の仕事はこの記号の羅列に、新たな記号を書き加えて穴から紙切れを返すことだ。どういう記号の列にどういう記号を書き加えればいいのか、それは全て小部屋の中にある一冊の本に載っている。考えることはない、検索して書き写し、紙を返すだけだ。

 英国人はひたすらこの作業を繰り返す。外から紙を受け取っては、また記号を書いて紙を返すのだ。

 だが英国人は知らない。じつは部屋の外では小部屋の穴に紙を差し入れることを『質問している』と呼び、紙が返ってくることを『回答がきた』と呼んでいるのだ。

「そうすると小部屋の外の人間は『小部屋の中には中国語を理解する人間がいる』って思うよね? でも実際はそうじゃない」
「作業の意味も知らないマニュアル通りに記号を書く英国人がいるだけなんだよな」
「その通りだよ。でも外部からはコミュニケーションがさも成り立ってるように感じちゃうんだよ、実際に筆談で会話は成立してるんだから」

「お前が言いたいのは、小部屋が俺の家族で、英国人がある種のAIってことか?」
「本来の中国語の部屋は、小部屋がコンピュータで英国人がプログラムで動くCPUってことなんだけど、うん、まさに僕が言いたいのは貴方の言ったそれだよ」

 見た目が家族そのものであっても、それを動かしているのはAIかも知れない、そいつを疑えとハイファは言っているのだ。シドはそう理解した。

「別に水を差したい訳じゃないんだよ」
「分かってるさ。アマンダたちがアンドロイド製作を正当化するための芝居を打ってるかも知れん、そういうことだろ」
「何処から貴方の過去が洩れだしたか、可能性はゼロじゃないから」
「了解、了解」

 そんな厄介な思考実験を地でいくような状況でも、二度と会えない筈だった家族に会えるというのはシドに期待を抱かせた。会えば何らかのカタルシスを得られるのではないか。突然ちぎられた連続を補う何か、ミッシングリンクのようなものが手に入るのではないかと思ったのだ。

 同時に少し怖くもあった。端末で志尾と志都には会っていない。アマンダからも志尾と志都に会うことは許可されなかったが、却って僅かにホッとしていたというのが本音だった。兄と妹に一対一で会うのが怖かったのだ。
 一人成長してしまったことを謝らなくてはならない、言い訳しなくてはならないような気がして、怖いというよりも気が重いのである。

 ともかくこうした考え自体が『家族は本物』を前提としているのであって、ハイファには悪いと思うものの既に九割方シドは信じてしまっている自覚があった。

「まあダキノカが植物コンなのは進んで食べられる人がいるんだもん、本当かもね」
「逆にいえばさ、昨日の不完全なインターフェイスでも手応えがあったんだ。今日は完全に俺を騙して欲しいって、そういうのは拙いのか?」
「いいんじゃない、それだけ客観的に現実を捉えられていれば」

 騙されたいくらいだ、電脳世界にずっぽりと取り込まれることはまずないだろうとハイファはシドを横目で見ながらやや安心する。シドが信じてしまうのも仕方ない、ハイファもまるで疑っている訳ではないのだ。

 だが本物だったらどうするというのか。MB五個をポケットに入れ『俺の家族だ』とシドが満足するというのか。

 そもそも本人たちが再生をアンドロイドへの搭載を望んでいるというのである。そしてそれは一週間後には出来上がってしまうというタイムテーブルだ。
 止め得るものは何もない、自分たちが軍に空爆依頼をする以外には。
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