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拾った錠剤が違法だったら
第37話
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エンジン音が聞こえなくなるまで僕は動かずにいた。動けなかった、驚いて。慧さんが悠氏への嫉妬を露わにするなんて思いも寄らなかったから。そういう事はジョーク混じりでニヤリと笑いつつ確かめるのがせいぜいだと勝手に思い込んでいた。
あんなにストレートに、あんなに悠氏に似た声を押し出して、憎んで余りある悠氏に僕が身体を自由にさせたんじゃないかと訊いた。訊いてしまった慧さんは即、僕の表情で何もなかったと悟った筈で。
そしてこれも驚いたけれど、いたたまれずに逃げたのだ。
のろのろと僕は動き出す。取り敢えずはリビング内に散ったガラスの破片掃除だ。
見ればロウテーブルには半分以上減ったウィスキーの瓶と、飲みかけのロックグラスが置いてある。飲んだままソファで寝ていたみたいだけど、アルコールは抜けてるのかな。連休中の夜中に飲酒運転なんて『捕まえて下さい』と喚いているようなものだと思うけれど。
慧さんがアルコール分解酵素を二種類とも持ち合わせたタイプだからって、ウィスキー瓶は夕食時に封切ったばかりなのだ。
そこで思い至る。もしかして昨日と一昨日の夜も悠氏が出現して僕と喋っていたのを慧さんは知っていたのかも。悠氏から慧さんに戻ったタイミングによっては不自然に感じておかしくない。
なのに僕は黙っていたから、慧さんに疑いを持たせてしまった。
慧さんは、悠氏なら男性としての機能を失っていない可能性がある、そう考えているのか?
……だから僕に『寝たか』と訊いた。訊かせてしまった?
自分には出来ないことをさせたのかと――。
「あ、つっ……!」
考えながらガラス集めなんてするもんじゃない。落としそうになった大ぶりの破片を思わず掴んでしまった。救急箱を持ってこようとしたけれど、掴み方が悪くてあっという間にガラスの小山が赤く染まってゆく。動けばリビングを血だらけにしてしまうのは必至だ。
だからって放置して自然に血が止まるのを待っていたら、ちょっとした事件現場が出来上がりそうである。仕方ない、着ている薄手のTシャツを犠牲にし、傷ついた右手を包み抱えるようにして向かいの部屋から救急箱を持ってきた。
けれど新品同様の救急箱とはいえ、家庭用の置き薬なども入った通常の物である。少し考えてゴミ箱を引き寄せると、その上で消毒液をかけて、ありったけのガーゼを開封した。重ねる毎にガーゼもベタベタに血が染み込んだけど、他に方法を思いつかない。最後に包帯もグルグル巻き。それも間もなく赤い飛沫を滴らせた。
「拙い、かも。あ、止血点」
切ったのは親指と人差し指の間だけど圧迫止血は無駄。手首を締め上げるのにそこいらを見回す。貧血が治りきっていないのかボーッとしてきて、やっと慧さんの携帯の充電器のコードに目を留めた。この際、壊れたら買い直して貰うしかない。
白いコードを手首に巻き付け、救急箱にあったピンセットをコードに差し込み捩じり上げる。一回転させてTシャツの胸に押し付け、大惨事に溜息をついた。ガラス拾いに水拭きも要る。貧血の身にして左手一本には重労働だけど、これを慧さんに見せるのは宜しくない気がする……何だか深く考えられないけど。
とにかく僕は血の固まりかけたガラスを何とかゴミ箱に放り込み、フローリングも乾いているのを確かめてからオートクリーナーを執拗なまでに往復させた。今度は足を怪我なんて勘弁である。
でも慧さんが殴り割ったガラスは大方が外に吹っ飛んでいたので助かった。
……と思ったら大間違い。オートクリーナーの水拭きヴァージョンを作動させたけれど、血の跡は消えるどころか水気で広がるばかりで、まるで死体でも引きずったかの如き様相を呈したのだ。
片手で苦労して絞ったタオルで擦っても汚れは頑固だった。
結局はオキシドールなる消毒薬、いわゆる過酸化水素水をティッシュに染み込ませ、丹念に拭って血を分解するという方法で何とか惨劇の跡は消えた。
代わりに部屋の中には消毒液と血の匂いが濃厚にこもっている。エアコンを強めにし、風向をなるべくガラスの割れた窓の方にしてみたけれど、酔いそうな血の匂いは変わらない。僕の鼻に染み付いただけかも知れないけれど。
でもこれ、畳の部屋だったらもっと苦労していたに違いない。僕は残りの人生、可能な限りフローリングに住もう。いつか、また誰かを『ガツン』として野菜にするときのために。
時計を見ると朝方も5時前で、どれだけ掃除に手間取っていたんだと自嘲し、次には帰ってこない慧さんを……と、思ったらランクルの音。それだけじゃない、車は複数台だ。
まさか、本当に飲酒運転で捕まった!?
「慧さん、もしかして免停とか?」
エレベーターまで上がってきたのを察知し、玄関で待ち伏せしてドアを開けるなり開口一番訊く。だって慧さんと一緒にいたのは、どう見ても制服を着た運転代行業者の二人組だったから。代行の若い男性二人は僕の姿に声も失っている。
当たり前だ、Tシャツも血が乾いてこわばったまま着替えていないんだから。本当に事件現場に居合わせてしまったと思い込んだのだろう。二人共、手だけは自然と動いてポケットから携帯を出そうとしている。
だが110番通報される前に慧さんの声が場の空気を動かした。
「それより透、そいつはどうした!?」
もう血が垂れなくなっていたが、僕の右手は真っ赤な包帯でグルグル巻き。Tシャツも刺されたかのよう、おまけに手首に巻いて締め上げた止血点のコードは一度も緩めていなかった。一定時間ごとに緩めなきゃ壊死してしまうのを、うっかりというより半分、頭がボーッとして忘れていたのだ。もう指は感覚が無い。
けど僕は僕より慧さんだった。
「慧さん……慧さんは?」
「俺は酒気帯びだがギリ0.15ml未満で釈放だ。代行は頼んだがな。それより透、怪我見せろ」
「あのう、それより先に代行の人に料金を支払った方が……」
無造作な慧さんは上がると財布を持ってきて料金と、口止め料のつもりなのかチップを支払った。
そこからが結構な修羅場の始まりとは僕も思ってはいなかった。
まず止血点のピンセットの締め付けを解いたら、赤い包帯グルグル巻きが重みで手袋状にスッポ抜けた。おまけにどうしようもなく血が溢れてきて、僕は血に弱くはないけれど、物理的に本格的な貧血になったらしく気が遠くなった。
それらが玄関で行われてしまい『掃除に苦労するぞ』と思いながら。
直後、慧さんは携帯で7119番に電話して僕の状態を伝えたのち、救急車より外科の当番医が捉まって一応の安堵はしたらしい。
まともに向き合って「寝た」「寝てない」の続きをするのと、どっちがマシだったのかな。
明日は学校だっていうのに。
あんなにストレートに、あんなに悠氏に似た声を押し出して、憎んで余りある悠氏に僕が身体を自由にさせたんじゃないかと訊いた。訊いてしまった慧さんは即、僕の表情で何もなかったと悟った筈で。
そしてこれも驚いたけれど、いたたまれずに逃げたのだ。
のろのろと僕は動き出す。取り敢えずはリビング内に散ったガラスの破片掃除だ。
見ればロウテーブルには半分以上減ったウィスキーの瓶と、飲みかけのロックグラスが置いてある。飲んだままソファで寝ていたみたいだけど、アルコールは抜けてるのかな。連休中の夜中に飲酒運転なんて『捕まえて下さい』と喚いているようなものだと思うけれど。
慧さんがアルコール分解酵素を二種類とも持ち合わせたタイプだからって、ウィスキー瓶は夕食時に封切ったばかりなのだ。
そこで思い至る。もしかして昨日と一昨日の夜も悠氏が出現して僕と喋っていたのを慧さんは知っていたのかも。悠氏から慧さんに戻ったタイミングによっては不自然に感じておかしくない。
なのに僕は黙っていたから、慧さんに疑いを持たせてしまった。
慧さんは、悠氏なら男性としての機能を失っていない可能性がある、そう考えているのか?
……だから僕に『寝たか』と訊いた。訊かせてしまった?
自分には出来ないことをさせたのかと――。
「あ、つっ……!」
考えながらガラス集めなんてするもんじゃない。落としそうになった大ぶりの破片を思わず掴んでしまった。救急箱を持ってこようとしたけれど、掴み方が悪くてあっという間にガラスの小山が赤く染まってゆく。動けばリビングを血だらけにしてしまうのは必至だ。
だからって放置して自然に血が止まるのを待っていたら、ちょっとした事件現場が出来上がりそうである。仕方ない、着ている薄手のTシャツを犠牲にし、傷ついた右手を包み抱えるようにして向かいの部屋から救急箱を持ってきた。
けれど新品同様の救急箱とはいえ、家庭用の置き薬なども入った通常の物である。少し考えてゴミ箱を引き寄せると、その上で消毒液をかけて、ありったけのガーゼを開封した。重ねる毎にガーゼもベタベタに血が染み込んだけど、他に方法を思いつかない。最後に包帯もグルグル巻き。それも間もなく赤い飛沫を滴らせた。
「拙い、かも。あ、止血点」
切ったのは親指と人差し指の間だけど圧迫止血は無駄。手首を締め上げるのにそこいらを見回す。貧血が治りきっていないのかボーッとしてきて、やっと慧さんの携帯の充電器のコードに目を留めた。この際、壊れたら買い直して貰うしかない。
白いコードを手首に巻き付け、救急箱にあったピンセットをコードに差し込み捩じり上げる。一回転させてTシャツの胸に押し付け、大惨事に溜息をついた。ガラス拾いに水拭きも要る。貧血の身にして左手一本には重労働だけど、これを慧さんに見せるのは宜しくない気がする……何だか深く考えられないけど。
とにかく僕は血の固まりかけたガラスを何とかゴミ箱に放り込み、フローリングも乾いているのを確かめてからオートクリーナーを執拗なまでに往復させた。今度は足を怪我なんて勘弁である。
でも慧さんが殴り割ったガラスは大方が外に吹っ飛んでいたので助かった。
……と思ったら大間違い。オートクリーナーの水拭きヴァージョンを作動させたけれど、血の跡は消えるどころか水気で広がるばかりで、まるで死体でも引きずったかの如き様相を呈したのだ。
片手で苦労して絞ったタオルで擦っても汚れは頑固だった。
結局はオキシドールなる消毒薬、いわゆる過酸化水素水をティッシュに染み込ませ、丹念に拭って血を分解するという方法で何とか惨劇の跡は消えた。
代わりに部屋の中には消毒液と血の匂いが濃厚にこもっている。エアコンを強めにし、風向をなるべくガラスの割れた窓の方にしてみたけれど、酔いそうな血の匂いは変わらない。僕の鼻に染み付いただけかも知れないけれど。
でもこれ、畳の部屋だったらもっと苦労していたに違いない。僕は残りの人生、可能な限りフローリングに住もう。いつか、また誰かを『ガツン』として野菜にするときのために。
時計を見ると朝方も5時前で、どれだけ掃除に手間取っていたんだと自嘲し、次には帰ってこない慧さんを……と、思ったらランクルの音。それだけじゃない、車は複数台だ。
まさか、本当に飲酒運転で捕まった!?
「慧さん、もしかして免停とか?」
エレベーターまで上がってきたのを察知し、玄関で待ち伏せしてドアを開けるなり開口一番訊く。だって慧さんと一緒にいたのは、どう見ても制服を着た運転代行業者の二人組だったから。代行の若い男性二人は僕の姿に声も失っている。
当たり前だ、Tシャツも血が乾いてこわばったまま着替えていないんだから。本当に事件現場に居合わせてしまったと思い込んだのだろう。二人共、手だけは自然と動いてポケットから携帯を出そうとしている。
だが110番通報される前に慧さんの声が場の空気を動かした。
「それより透、そいつはどうした!?」
もう血が垂れなくなっていたが、僕の右手は真っ赤な包帯でグルグル巻き。Tシャツも刺されたかのよう、おまけに手首に巻いて締め上げた止血点のコードは一度も緩めていなかった。一定時間ごとに緩めなきゃ壊死してしまうのを、うっかりというより半分、頭がボーッとして忘れていたのだ。もう指は感覚が無い。
けど僕は僕より慧さんだった。
「慧さん……慧さんは?」
「俺は酒気帯びだがギリ0.15ml未満で釈放だ。代行は頼んだがな。それより透、怪我見せろ」
「あのう、それより先に代行の人に料金を支払った方が……」
無造作な慧さんは上がると財布を持ってきて料金と、口止め料のつもりなのかチップを支払った。
そこからが結構な修羅場の始まりとは僕も思ってはいなかった。
まず止血点のピンセットの締め付けを解いたら、赤い包帯グルグル巻きが重みで手袋状にスッポ抜けた。おまけにどうしようもなく血が溢れてきて、僕は血に弱くはないけれど、物理的に本格的な貧血になったらしく気が遠くなった。
それらが玄関で行われてしまい『掃除に苦労するぞ』と思いながら。
直後、慧さんは携帯で7119番に電話して僕の状態を伝えたのち、救急車より外科の当番医が捉まって一応の安堵はしたらしい。
まともに向き合って「寝た」「寝てない」の続きをするのと、どっちがマシだったのかな。
明日は学校だっていうのに。
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