51 / 93
51.僕の名前
しおりを挟む
※※※明日生視点です。
5時にセットした携帯のアラームが鳴った。
さすがに眠い。
でも『あのひと』に会えるのなら、徹夜でもしたって構わない。
諒さんと覚さんはいつも5時に起きてピアノを弾くって言ってたから、運が良ければ朝食前にまた会える。
防音室に入ると、大音量のピアノの音が聞こえた。
グランドピアノで『あのひと』が弾いてて、小さい方のピアノでもう一人が同時に弾いてる。
ソファに掛けずに、邪魔になりそうにないところに立って眺めた。
ドキドキしすぎて自分がちゃんと立っているのか不安だけど、座ると距離が遠くなる。
聴こえてくるのは多分、クサヴァ・エンゲルの曲だ。
現代音楽をやっているところは初めて見る。
10分足らずで曲が終わって、『あのひと』が僕を見た。
心臓が跳ねる。
なんて綺麗な瞳なんだろう。
もう十分見慣れてきたはずなのに、そう思った。
『あのひと』は胸のポケットから懐中時計を取り出して、時間を見た。
なんて洗練された素早い仕草。
「おはよう、明日生」
微笑んで僕の名前を呼んでくれた瞬間までは、たしかに『あのひと』だった。
初めて『あのひと』が僕の名前を呼んでくれた。
嬉しすぎて、自分の頭の中が制御不能になってしまっているのがわかった。
「……おはようございます」
「早いんじゃない? よく眠れなかった?」
もう『あのひと』じゃなくなってる。
「いえ、ちゃんと眠れました」
何とか笑って答えると、防音室の扉が開いて、甲斐さんが入ってきた。
「おはようございます。あれ、明日生くん? 早いですね」
「おはようございます」
「「おはよう、甲斐」」
「どちらがまこちゃんですか?」
小さいピアノを弾いていた黒いカーディガンを着た方が手を挙げた。
また『あのひと』は覚さんの方だったのか。
ここのところ、覚さんの方に『あのひと』がよく出てきてる。
怪我をしたことで何か心境の変化があったんだろうか。
「そういえば、覚さん怪我どうですか?」
「ん? もうすっかりいいよ。痕が少し残ってるけどね、痛くも痒くもないんだ」
見せてもらうと、肌の色が白いだけに余計赤い痕が痛々しい。
もう冬休みに入っている。
休みの間は『あのひと』に会えないんだろうか。
僕は帰省とかしなくてもいいから、二人の予定が空いているのならずっとここに通ったって構わない。
でも、予定を訊くのは朝食の時にでもできる。
今は時間があるのだから、少しでも『あのひと』に会いたかった。
「僕、今の曲もう一度聴きたいです」
「ああ、うん。じゃあ弾くね」
甲斐さんが、二重奏ですか、と感心した様子で呟いた。
「「冬休みの予定?」」
二人は顔を合わせて、指を折りはじめた。
「26、27日に『若桜覚』の仕事があって、28、29、30、31日はフランスに演奏旅行に行くんだ」
「1月1、2日は若桜家に親戚が集まるからここに帰ってきて、3日からまた俺の仕事が始まるんだけど」
夜穂先輩が派手に笑った。
「空いてる日がねえじゃん!」
「夜穂ちゃんだって、ずっとバイトなんだろ?」
「俺バイト年末までだもん。正月暇だもん」
夜穂先輩は帰省もしないしきっと暇になったらまた嘆くに違いないのに、偉そうにしてる。
「演奏旅行ってなんですか?」
僕が訊ねると、覚さんがオレンジジュースのグラスをおいて説明してくれた。
「コンサートの始めにオマケで父さんの曲を披露するだけなんだけど。パリとかだよね」
「前座ですか」
「ゼンザって言うんだ? 父さんの伝手で、何年か前からそういうのもやってるんだ」
甲斐さんが気付いたように質問した。
「それがさっきの曲ですか?」
「「うん」」
僕は特別な意味もなく呟いた。
「いいなあ、パリか……」
パリならファッションで有名なところだ。
言葉もわからないし、行ったことがない。
「「一緒に行く?」」
「え?」
見ると、二人は楽しそうに微笑んで僕を見てた。
「田舎に行った時とか、リハーサルの間とか退屈かもしれないけどね」
「行きたいなら、一緒に行く分には構わないと思うよ」
甲斐さんが冷静に言う。
「今から飛行機やホテル取れるんですか?」
「「あ……そうか」」
「ホテルなら俺たちと一緒の部屋で大丈夫だと思うけど」
「飛行機が取れなかったら駄目だよね」
一緒の部屋…………。
『あのひと』と?
寝るときは『あのひと』はまず出てこないとは思うけど、二人の姿は『あのひと』と全く一緒だ。
自覚する前でさえ二人と一緒に寝た時はなかなか寝付けなかったのに、無理にもほどがある。
「やめときます……」
「……そう?」
覚さんはみんなに冬休みの予定を訊いた。
夜穂先輩と良実先輩は寮に残り、甲斐さんは年末年始にかけて帰省し、貴也先輩は冬休みが始まるのと同時にもう帰省してる。
もう決まったパターンになっている。
「明日生は?」
僕は今回はどうしようかな。
色々悩んでるし、実家にかえって遊びに出掛けてすっきりしてこようか。
どうせ、自由が丘にいたって諒さんや覚さんも甲斐さんもいないんだし。
「甲斐さんと一緒に横浜に帰ろうかな」
「ああ……幼馴染なら出身地も一緒なんだよね」
「気を付けて帰ってね。また新年に会おうね」
諒さんと覚さんが言って慌てた。
「あああ、待ってください。明日と明後日はお二人は空いてるんですよね?」
「ああ、うん。ずっとピアノ弾いてるつもりだけど」
「どうせなら、まだ泊まっていく?」
「え……いいんですか?」
「うんうん、遠慮せずにどうぞ」
「日本にいる間はいてくれていいよ」
僕はお言葉に甘えて四日泊まるのを伸ばすことにした。
さすがに夜穂先輩は帰ると言い出した。
甲斐さんと良実先輩も何かに遠慮してるらしく、帰るらしい。
四日間また『あのひと』を堪能させてもらって、よいお年をと言って別れた。
5時にセットした携帯のアラームが鳴った。
さすがに眠い。
でも『あのひと』に会えるのなら、徹夜でもしたって構わない。
諒さんと覚さんはいつも5時に起きてピアノを弾くって言ってたから、運が良ければ朝食前にまた会える。
防音室に入ると、大音量のピアノの音が聞こえた。
グランドピアノで『あのひと』が弾いてて、小さい方のピアノでもう一人が同時に弾いてる。
ソファに掛けずに、邪魔になりそうにないところに立って眺めた。
ドキドキしすぎて自分がちゃんと立っているのか不安だけど、座ると距離が遠くなる。
聴こえてくるのは多分、クサヴァ・エンゲルの曲だ。
現代音楽をやっているところは初めて見る。
10分足らずで曲が終わって、『あのひと』が僕を見た。
心臓が跳ねる。
なんて綺麗な瞳なんだろう。
もう十分見慣れてきたはずなのに、そう思った。
『あのひと』は胸のポケットから懐中時計を取り出して、時間を見た。
なんて洗練された素早い仕草。
「おはよう、明日生」
微笑んで僕の名前を呼んでくれた瞬間までは、たしかに『あのひと』だった。
初めて『あのひと』が僕の名前を呼んでくれた。
嬉しすぎて、自分の頭の中が制御不能になってしまっているのがわかった。
「……おはようございます」
「早いんじゃない? よく眠れなかった?」
もう『あのひと』じゃなくなってる。
「いえ、ちゃんと眠れました」
何とか笑って答えると、防音室の扉が開いて、甲斐さんが入ってきた。
「おはようございます。あれ、明日生くん? 早いですね」
「おはようございます」
「「おはよう、甲斐」」
「どちらがまこちゃんですか?」
小さいピアノを弾いていた黒いカーディガンを着た方が手を挙げた。
また『あのひと』は覚さんの方だったのか。
ここのところ、覚さんの方に『あのひと』がよく出てきてる。
怪我をしたことで何か心境の変化があったんだろうか。
「そういえば、覚さん怪我どうですか?」
「ん? もうすっかりいいよ。痕が少し残ってるけどね、痛くも痒くもないんだ」
見せてもらうと、肌の色が白いだけに余計赤い痕が痛々しい。
もう冬休みに入っている。
休みの間は『あのひと』に会えないんだろうか。
僕は帰省とかしなくてもいいから、二人の予定が空いているのならずっとここに通ったって構わない。
でも、予定を訊くのは朝食の時にでもできる。
今は時間があるのだから、少しでも『あのひと』に会いたかった。
「僕、今の曲もう一度聴きたいです」
「ああ、うん。じゃあ弾くね」
甲斐さんが、二重奏ですか、と感心した様子で呟いた。
「「冬休みの予定?」」
二人は顔を合わせて、指を折りはじめた。
「26、27日に『若桜覚』の仕事があって、28、29、30、31日はフランスに演奏旅行に行くんだ」
「1月1、2日は若桜家に親戚が集まるからここに帰ってきて、3日からまた俺の仕事が始まるんだけど」
夜穂先輩が派手に笑った。
「空いてる日がねえじゃん!」
「夜穂ちゃんだって、ずっとバイトなんだろ?」
「俺バイト年末までだもん。正月暇だもん」
夜穂先輩は帰省もしないしきっと暇になったらまた嘆くに違いないのに、偉そうにしてる。
「演奏旅行ってなんですか?」
僕が訊ねると、覚さんがオレンジジュースのグラスをおいて説明してくれた。
「コンサートの始めにオマケで父さんの曲を披露するだけなんだけど。パリとかだよね」
「前座ですか」
「ゼンザって言うんだ? 父さんの伝手で、何年か前からそういうのもやってるんだ」
甲斐さんが気付いたように質問した。
「それがさっきの曲ですか?」
「「うん」」
僕は特別な意味もなく呟いた。
「いいなあ、パリか……」
パリならファッションで有名なところだ。
言葉もわからないし、行ったことがない。
「「一緒に行く?」」
「え?」
見ると、二人は楽しそうに微笑んで僕を見てた。
「田舎に行った時とか、リハーサルの間とか退屈かもしれないけどね」
「行きたいなら、一緒に行く分には構わないと思うよ」
甲斐さんが冷静に言う。
「今から飛行機やホテル取れるんですか?」
「「あ……そうか」」
「ホテルなら俺たちと一緒の部屋で大丈夫だと思うけど」
「飛行機が取れなかったら駄目だよね」
一緒の部屋…………。
『あのひと』と?
寝るときは『あのひと』はまず出てこないとは思うけど、二人の姿は『あのひと』と全く一緒だ。
自覚する前でさえ二人と一緒に寝た時はなかなか寝付けなかったのに、無理にもほどがある。
「やめときます……」
「……そう?」
覚さんはみんなに冬休みの予定を訊いた。
夜穂先輩と良実先輩は寮に残り、甲斐さんは年末年始にかけて帰省し、貴也先輩は冬休みが始まるのと同時にもう帰省してる。
もう決まったパターンになっている。
「明日生は?」
僕は今回はどうしようかな。
色々悩んでるし、実家にかえって遊びに出掛けてすっきりしてこようか。
どうせ、自由が丘にいたって諒さんや覚さんも甲斐さんもいないんだし。
「甲斐さんと一緒に横浜に帰ろうかな」
「ああ……幼馴染なら出身地も一緒なんだよね」
「気を付けて帰ってね。また新年に会おうね」
諒さんと覚さんが言って慌てた。
「あああ、待ってください。明日と明後日はお二人は空いてるんですよね?」
「ああ、うん。ずっとピアノ弾いてるつもりだけど」
「どうせなら、まだ泊まっていく?」
「え……いいんですか?」
「うんうん、遠慮せずにどうぞ」
「日本にいる間はいてくれていいよ」
僕はお言葉に甘えて四日泊まるのを伸ばすことにした。
さすがに夜穂先輩は帰ると言い出した。
甲斐さんと良実先輩も何かに遠慮してるらしく、帰るらしい。
四日間また『あのひと』を堪能させてもらって、よいお年をと言って別れた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
最低ルーミー
皐月なおみ
BL
「言っとくけど、お前に拒否権はないからな?」
広大な敷地に囲まれた私立相澤学園男子寮
ある出来事がトラウマとなってマスクなしには外を歩けなくなった阿佐美蒼(あさみそう)は、突然、学園の王子さまと名高い筧仁(かけいじん)とルームメイトになってしまう。
学園中の憧れで常に注目されている彼と同室だというだけでも最悪なのに、ひょんなことから、彼の裏の顔を知ってしまい…?
「よぉ、取引しようぜ」
静かな高校生活を送りたいだけなのに、二面性のある彼に捕まって、蒼の世界はめちゃくちゃになっていく。
最低だと思っていたけれど、どうやらそれだけでもないようで…。
「俺、けっこう優しくしてやってるつもりだけど」
誰も知らない彼の本当の優しさに惹かれる気持ちを抑えきれなくなっていき…
「俺にとって大事なのは、男が女かじゃねぇ。蒼か蒼以外の人間かだ」
孤独なマスクの一年生と、笑顔の仮面をかぶる学園の王子様(実はオレ様)が、男子寮を舞台に繰り広げる
!!青春BL!!
colorful〜rainbow stories〜
宮来らいと
恋愛
とある事情で6つの高校が合併した「六郭星学園」に入学した真瀬姉弟。
そんな姉弟たちと出会うクラスメイトたちに立ちはだかる壁を乗り越えていくゲーム風に読む、オムニバス物語です。
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
はじまりはいつもラブオール
フジノシキ
キャラ文芸
ごく平凡な卓球少女だった鈴原柚乃は、ある日カットマンという珍しい守備的な戦術の美しさに魅せられる。
高校で運命的な再会を果たした柚乃は、仲間と共に休部状態だった卓球部を復活させる。
ライバルとの出会いや高校での試合を通じ、柚乃はあの日魅せられた卓球を目指していく。
主人公たちの高校部活動青春ものです。
日常パートは人物たちの掛け合いを中心に、
卓球パートは卓球初心者の方にわかりやすく、経験者の方には戦術などを楽しんでいただけるようにしています。
pixivにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる