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第二束 君影草と迷子
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目の下に隈を作った女性。
紀伊戯 紡《きいぎ つむ》。
彼女は生きることが辛そうに夜の、宵の街を歩いていた。
涙のあとが消えていない。
1時間前まで泣いていたのだろう。
そう思わせる風貌だった。
彼女の目の前におしゃれな店がある。
気づいたら、そこにあった店。
入るか悩んだ。
この顔で入れるのか。それが紡の心配ごと。
ただ、そんな心配は不必要だった。
紡は意を決して店に入る。
「いらっしゃいませ。迷子のお客様。
当店は500円と素敵なお悩みを持っている方しか、入店できません。お客様は何にお困りですか?
星月夜の中、子供のように寄り道するのはいかがでしょう?」
店の中からそんな言葉が紡にかけられる。
紡は意味が分からず、頭に?が浮かんでいた。
「素敵なお悩み」?「寄り道」?
紡は少しして腹を立て始めた。
おねえさんが言った「素敵なお悩み」という言葉が許せない。
紡にとってこの悩みは深刻だったから。
「ないです。そんな悩み。素敵な悩みなんて、誰も持ってないですよ。それとも、あなたは人の悩みを馬鹿にしてるんですか?」
そう紡は言い放つ。
お姉さん、宵は笑う。
「馬鹿にしてる訳じゃないよ。ただ、悩めるって贅沢なことじゃん?だからそう言ってるだけ」
悩むことができない人だっているのだから。
そう言う宵に紡は恥ずかしくなった。
宵の言ってる意味はわからない。
ただ、自分が今したことが八つ当たりだったことに気付いたから。
「すいません。八つ当たりしました。失礼を承知で聞きたいのですが、悩むことのできない人ってどう言うことですか?」
紡は疑問に思ったことを聞いた。
宵はそれに「店の中で話そう」と言い、紡を中に招き入れる。
店の中に、人はいなかった。
それもそうだ。宵の時間なのだから。
店に入ると、お姉さんから勧められてカウンター席に座る。
一見、花屋に見えたがカフェなのか…
そう思っていると、お姉さんは話し始めた。
「ご挨拶が遅れました。私はこの店、「星朧」の店主。桜崎 宵と申します。お客様は勘違いされたようですが、この店は花屋です。ただ、星月夜の時間だけこのように店を開けています。
さて、先ほど質問なさった『悩むことのできない人』についてですが、実際にこの世にはたくさんいらっしゃいます。『悩むことのできない人』そう言う方の特徴は、そうですね…解決することのできない『悩み』を持っていらっしゃる方です。
解決できる『悩み』は楽です。いつかはその『悩み』から解放される。ただ、解決できないものは一生付き纏います。だからこそ、私は解決できる『悩み」を素敵だと言います。
だって、今すぐにだって解決できるんですよ?それって素敵ではありませんか?」
そうお姉さんは言う。
紡には理解できなかった。
解決できない「悩み」を持った試しがないからである。
お姉さんは「それはそうと」と話題を適当に変えた。
紡は話についていくのに集中する。
そんな紡に掛けられた言葉は想像の範囲外だった。
「お茶、いかがですか?そうですね…迷子のお客様にはアッサムティーがよろしいかもしれません」
お姉さんは大きな棚から“Assam“と書かれた瓶を取り出す。
慣れた手つきでお姉さんはお茶を入れ始めた。
丸い形をした可愛らしいポットにお湯を入れる。
ガラス製で、中のお湯がよく見えた。
ポットとカップに透明なお湯が注がれる。
お姉さんは説明を始めた。
「今回、お客様にお出しするお茶は“アッサムctc”というお茶です。こちらのお茶はアッサムの中でもミルクティによく使われます。そうですね、分かりやすく言うとチャイに使われることが多いです」
説明が進められていく中、トポトポとお茶がカップに注がれていく。
琥珀色をした透明の液体を注ぐお姉さんの姿は美しかった。
好きなことを楽しそうにやっている人。
そんな人は誰からみても美しく見える。
紡はそんなお姉さんの姿が羨ましく思えた。
(私もこんなふうに慣れたらいいのに)
そう思うほどに…
お姉さんはお茶を入れ終わったようで、紡の前にコトっとカップを置く。
「お待たせしました。“アッサムctc”です。ミルクなしで飲むと重く、ミルクを入れると軽くなります。お客様の心もミルクのように軽くしませんか?」
お姉さんはそう言い、紡の前に座る。
紡はミルクを入れずに、コクリと飲む。
その姿は迷子になった子供のよう。
紡の目には涙が浮かんでいた。
お姉さん。宵は紡に聞く。
「紡さんはどうしたの?悩み、思い出した?」
第三者が聞くと意味が分からない言葉。
ただ、その言葉の意味を紡は分かっていた。
紡は首を縦に振る。
宵はさらに質問をした。
「じゃあ、迷子からの抜け道は見つかった?」
その質問に紡は首を横に振る。
紡は迷子の自分については気付けた。
ただ、進むべき道がわからない。
前に人がいなくなってしまったから。
紡は話し始めた。
アッサムティを一口、口に含んだ後。
「小説って、創作って難しいんです。上手くいかない、その事実が大好きだったことを嫌いにしていく。嫌いになりたくないのに嫌いになってしまう自分が許せなくて…」
紡は苦しそうに言う。
ピンっと張った糸がプツリと切れたように、「自分が嫌い」だと、そう言った。
お姉さんは紡の話を遮って、急に話し始める。
「紡さん、それです。あなたが迷子になってしまった理由。
作品を作る。それはとても難しいことです。辛くもあります。上手くいかない。そんな小さな悩みから、どんどん沈んでいきます。何も見えない。真っ暗な道に…その道は光がありません。だからこそ、迷子になりやすい。ただ、人は対処をします。真夜中、お客さまは何を頼りに歩きますか?」
お姉さんの質問に紡は小さく答えた。
「街灯…いや、月ですかね。とりあえず、光を頼りに歩きます」
その回答はお姉さんが欲しかったもの。
そのものだった。
「さすが、創作者ですね。お客さま。そうです。人は小さな光を頼りに進みます。今、お客さまが迷子になっているのは光がないから。光はなんだっていいんです。懐中電灯、月、街灯…この世にはたくさん光があります。その中でも、お客さまの用途に合っているものを探す。それがお客さまが迷子からの抜け道を見つける方法です」
紡にとってこの言葉の意味は難しいものだ。
自分の用途に合っている光。
多くのものを照らしたいのであれば、街灯。
さらに多くのものを照らしたければ、月ほどの大きなものでないといけない。
自分の手元を照らすだけならば、懐中電灯で十分だ。
紡にとっての光。無くしてしまった光を探さなくてはいけない。
紡はその光が何なのか、それが分からなかった。
ふと目の前にあるティカップに目が向く。
そこで紡は思い出した。
アッサムティ。
紅茶をよく飲む母が紡に昔、飲ませてくれたお茶。
紡はあまりお茶が好きではなかった。
お茶よりもジュース。
そんな子供の中の子供だった紡。
だからこそ、母に渡されるお茶が嫌で仕方がなかった。
苦いものや渋いもの、ついにはなんとも言えない味のお茶まで出される。
(まずい)
そう思いながら渋々飲んでいたお茶。
母はいつからかお茶を紡にお茶を出さなくなった。
当時の紡からしてみれば、それは嬉しくてたまらない。
もうまずいものを飲まなくて良くなったのだから。
ただ、母の顔は暗かった。悲しそうな…
幼い紡にはその顔が何を物語っていたのか、分からなかった。
それからお茶を飲んだのは、一度っきり。
その時のお茶も確か、アッサムティだったはず…
どんな味だったかも、なぜそれを飲んだのかももう覚えてない。
ただ、すごく記憶に残っていた。
昔、飲んだお茶の名前なんて覚えてないのに…
そこで紡は思い出す。
母が入れてくれたお茶に紡は顔を顰めた。
そんな紡に母はミルクを出してくれ、そして話し始めたのだ。
「紡。このお茶はね、そのまま飲むと少し渋いの。ただ、ミルクひとつ入れるだけでまろやかになるのよ。嫌なところだけ、包んでくれるの。たかがミルクひとつ。されどミルクひとつなのよ。忘れてはダメ。逃げることは悪いことだけではない。時に大切なの。逃げたい時はとことん逃げなさい。お母さんは怒らないから」
その時、紡は中途半端な反応をして終わった。
確か、そのお茶も少し飲んで終わった気がする。
そう思い、紡はアッサムティを飲み干す。
お姉さんはおかわりを入れてくれた。
紡はお姉さんに聞く。
「ミルク。入れてもいいですか?」
その時の紡の声は、迷いながらも道を探す冒険家のようで、お姉さんは「どうぞ」しか言えなかった。
無駄な説明はいらない。そう理解したから。
琥珀色のアッサムティに真っ白なミルクが混ざる。
色が濁る。均等に混ざった頃、紡は一口口に含む。
紡は驚いた。
昔飲んだアッサムティよりまろやかに、優しく感じられたから。
「美味しい」
そう紡は素直に言う。
苦手だとか嫌い、まずい。
そんな無駄なフィルターを無意識にかけていたのだろう。
だからこそ、視界が透明になった瞬間変わる。
空にある雲は退かせない。
ただ、心にある雲は頑張れば退かせる。
紡の心には気付かないうちに、雲がかかっていた。
その雲をお茶で流す。
紡にとってその行為ひとつで楽になれた。
「人間誰しも逃げていい。逃げちゃいけないなんて誰も言ってないのだから。ただ、逃げすぎるのも良くない。逃げた後の後始末も、大切なこと。それを怠るから怒られるのである。これは私の言葉ね」
そう宵が楽しそうに言う。
紡にとって足りないのは逃げなのかもしれない。
そう紡は気づく。
紡は迷子からの抜け道をやっと見つけることができた。
そして決意し、紡はお姉さんに言う。
「ここって、花屋さんですよね?お姉さんに花束を作って欲しいんですけど、できますか?」
お姉さんは嬉しそうに頷く。
その言葉を待ち受けていたかのように…
「承知いたしました。とびきりのものをお作りいたします」
そして宵は動き出す。優しく花に触れていく。
所作の一つひとつが美しい。
そう紡は思った。
宵は花の準備が終わったのか、紡が座っているカウンターの前に花を置く。
そして花束を作りながら説明を始めた。
「今回のテーマは『未来』と『成功』です。お客さまの進む『未来』が良いものであるように。そんな願いを込めてお作りします。
まず、今回の主役である青いバラを中央に。青いバラは夢が叶うという花言葉を持っています。その横に、「あなたを許す」という意味を持ったネモフィラを。内側から「成功」の黄色いポピー。「見つめる未来」のストック。「門出」のスイートピー。そして最後に「変わらぬ心」のスターチスで囲んで」
お姉さんが作る花束の花は今までないくらいにイキイキとしている。
そして、幸せそうだ。
そう紡は思った。
『未来』に『成功』。
それは紡にとって程遠いものだった。
上手くいかない時期があることはわかっている。
ただ、その時期が長ければ長いほど人は疲弊していく。
心も体も疲弊し切っていた紡にとって『未来』は見えないもの。『成功』は望むべきではないもの。
そう思っていた。
ただ、紡は望んでもいいのだと。見てもいいのだとお姉さんに気付かされた。
お姉さんは笑顔で言う。
「迷子“だった“お客さま。
当店は五百円とお悩みを持っていらっしゃる素敵なお客さましか入店できません。お客さまの素敵なお悩みは解決致しましたでしょうか?
星月夜の中、子供のように寄り道した感想を教えていただけると助かります。寄り道のお味はいかがだったでしょうか?」
紡は嬉しそうに笑う。
もう自分は迷子じゃない。誰だって常に迷子だ。
でも、紡は迷子から抜け出せた。
その事実を実感する。
「昔の味を思い出しました。母との記憶も。宝物のようにしまっておいたとっておきのスイーツのようで…幸せな味でしたかね?」
紡はお姉さんにそう言った。子供のように無邪気に。
お姉さんは紡をお見送りする。
もう時間だ。寄り道は寄り道。
長い間、寄り道しては心配をかけてしまう。
だからこそ、帰らないといけない。
自分の帰る場所に。
「それではお客さま。気をつけてお帰りください。くれぐれも寄り道をしすぎないように」
そう言い、お姉さんは紡に花束を渡す。
『成功』する『未来』を大事そうに抱えながら紡は帰る。
お姉さんはその背中を見ながら、中に入る。
そのお姉さんの姿は過去に縋るようだった。
この店は「星朧」。
お客さまの長く苦しい迷子を、正しい道に戻す。
迷子の中でも寄り道をする。
未来がある限り、失敗という名の『寄り道』を。
「星朧」本日の寄り道、完了。または開始。
紀伊戯 紡《きいぎ つむ》。
彼女は生きることが辛そうに夜の、宵の街を歩いていた。
涙のあとが消えていない。
1時間前まで泣いていたのだろう。
そう思わせる風貌だった。
彼女の目の前におしゃれな店がある。
気づいたら、そこにあった店。
入るか悩んだ。
この顔で入れるのか。それが紡の心配ごと。
ただ、そんな心配は不必要だった。
紡は意を決して店に入る。
「いらっしゃいませ。迷子のお客様。
当店は500円と素敵なお悩みを持っている方しか、入店できません。お客様は何にお困りですか?
星月夜の中、子供のように寄り道するのはいかがでしょう?」
店の中からそんな言葉が紡にかけられる。
紡は意味が分からず、頭に?が浮かんでいた。
「素敵なお悩み」?「寄り道」?
紡は少しして腹を立て始めた。
おねえさんが言った「素敵なお悩み」という言葉が許せない。
紡にとってこの悩みは深刻だったから。
「ないです。そんな悩み。素敵な悩みなんて、誰も持ってないですよ。それとも、あなたは人の悩みを馬鹿にしてるんですか?」
そう紡は言い放つ。
お姉さん、宵は笑う。
「馬鹿にしてる訳じゃないよ。ただ、悩めるって贅沢なことじゃん?だからそう言ってるだけ」
悩むことができない人だっているのだから。
そう言う宵に紡は恥ずかしくなった。
宵の言ってる意味はわからない。
ただ、自分が今したことが八つ当たりだったことに気付いたから。
「すいません。八つ当たりしました。失礼を承知で聞きたいのですが、悩むことのできない人ってどう言うことですか?」
紡は疑問に思ったことを聞いた。
宵はそれに「店の中で話そう」と言い、紡を中に招き入れる。
店の中に、人はいなかった。
それもそうだ。宵の時間なのだから。
店に入ると、お姉さんから勧められてカウンター席に座る。
一見、花屋に見えたがカフェなのか…
そう思っていると、お姉さんは話し始めた。
「ご挨拶が遅れました。私はこの店、「星朧」の店主。桜崎 宵と申します。お客様は勘違いされたようですが、この店は花屋です。ただ、星月夜の時間だけこのように店を開けています。
さて、先ほど質問なさった『悩むことのできない人』についてですが、実際にこの世にはたくさんいらっしゃいます。『悩むことのできない人』そう言う方の特徴は、そうですね…解決することのできない『悩み』を持っていらっしゃる方です。
解決できる『悩み』は楽です。いつかはその『悩み』から解放される。ただ、解決できないものは一生付き纏います。だからこそ、私は解決できる『悩み」を素敵だと言います。
だって、今すぐにだって解決できるんですよ?それって素敵ではありませんか?」
そうお姉さんは言う。
紡には理解できなかった。
解決できない「悩み」を持った試しがないからである。
お姉さんは「それはそうと」と話題を適当に変えた。
紡は話についていくのに集中する。
そんな紡に掛けられた言葉は想像の範囲外だった。
「お茶、いかがですか?そうですね…迷子のお客様にはアッサムティーがよろしいかもしれません」
お姉さんは大きな棚から“Assam“と書かれた瓶を取り出す。
慣れた手つきでお姉さんはお茶を入れ始めた。
丸い形をした可愛らしいポットにお湯を入れる。
ガラス製で、中のお湯がよく見えた。
ポットとカップに透明なお湯が注がれる。
お姉さんは説明を始めた。
「今回、お客様にお出しするお茶は“アッサムctc”というお茶です。こちらのお茶はアッサムの中でもミルクティによく使われます。そうですね、分かりやすく言うとチャイに使われることが多いです」
説明が進められていく中、トポトポとお茶がカップに注がれていく。
琥珀色をした透明の液体を注ぐお姉さんの姿は美しかった。
好きなことを楽しそうにやっている人。
そんな人は誰からみても美しく見える。
紡はそんなお姉さんの姿が羨ましく思えた。
(私もこんなふうに慣れたらいいのに)
そう思うほどに…
お姉さんはお茶を入れ終わったようで、紡の前にコトっとカップを置く。
「お待たせしました。“アッサムctc”です。ミルクなしで飲むと重く、ミルクを入れると軽くなります。お客様の心もミルクのように軽くしませんか?」
お姉さんはそう言い、紡の前に座る。
紡はミルクを入れずに、コクリと飲む。
その姿は迷子になった子供のよう。
紡の目には涙が浮かんでいた。
お姉さん。宵は紡に聞く。
「紡さんはどうしたの?悩み、思い出した?」
第三者が聞くと意味が分からない言葉。
ただ、その言葉の意味を紡は分かっていた。
紡は首を縦に振る。
宵はさらに質問をした。
「じゃあ、迷子からの抜け道は見つかった?」
その質問に紡は首を横に振る。
紡は迷子の自分については気付けた。
ただ、進むべき道がわからない。
前に人がいなくなってしまったから。
紡は話し始めた。
アッサムティを一口、口に含んだ後。
「小説って、創作って難しいんです。上手くいかない、その事実が大好きだったことを嫌いにしていく。嫌いになりたくないのに嫌いになってしまう自分が許せなくて…」
紡は苦しそうに言う。
ピンっと張った糸がプツリと切れたように、「自分が嫌い」だと、そう言った。
お姉さんは紡の話を遮って、急に話し始める。
「紡さん、それです。あなたが迷子になってしまった理由。
作品を作る。それはとても難しいことです。辛くもあります。上手くいかない。そんな小さな悩みから、どんどん沈んでいきます。何も見えない。真っ暗な道に…その道は光がありません。だからこそ、迷子になりやすい。ただ、人は対処をします。真夜中、お客さまは何を頼りに歩きますか?」
お姉さんの質問に紡は小さく答えた。
「街灯…いや、月ですかね。とりあえず、光を頼りに歩きます」
その回答はお姉さんが欲しかったもの。
そのものだった。
「さすが、創作者ですね。お客さま。そうです。人は小さな光を頼りに進みます。今、お客さまが迷子になっているのは光がないから。光はなんだっていいんです。懐中電灯、月、街灯…この世にはたくさん光があります。その中でも、お客さまの用途に合っているものを探す。それがお客さまが迷子からの抜け道を見つける方法です」
紡にとってこの言葉の意味は難しいものだ。
自分の用途に合っている光。
多くのものを照らしたいのであれば、街灯。
さらに多くのものを照らしたければ、月ほどの大きなものでないといけない。
自分の手元を照らすだけならば、懐中電灯で十分だ。
紡にとっての光。無くしてしまった光を探さなくてはいけない。
紡はその光が何なのか、それが分からなかった。
ふと目の前にあるティカップに目が向く。
そこで紡は思い出した。
アッサムティ。
紅茶をよく飲む母が紡に昔、飲ませてくれたお茶。
紡はあまりお茶が好きではなかった。
お茶よりもジュース。
そんな子供の中の子供だった紡。
だからこそ、母に渡されるお茶が嫌で仕方がなかった。
苦いものや渋いもの、ついにはなんとも言えない味のお茶まで出される。
(まずい)
そう思いながら渋々飲んでいたお茶。
母はいつからかお茶を紡にお茶を出さなくなった。
当時の紡からしてみれば、それは嬉しくてたまらない。
もうまずいものを飲まなくて良くなったのだから。
ただ、母の顔は暗かった。悲しそうな…
幼い紡にはその顔が何を物語っていたのか、分からなかった。
それからお茶を飲んだのは、一度っきり。
その時のお茶も確か、アッサムティだったはず…
どんな味だったかも、なぜそれを飲んだのかももう覚えてない。
ただ、すごく記憶に残っていた。
昔、飲んだお茶の名前なんて覚えてないのに…
そこで紡は思い出す。
母が入れてくれたお茶に紡は顔を顰めた。
そんな紡に母はミルクを出してくれ、そして話し始めたのだ。
「紡。このお茶はね、そのまま飲むと少し渋いの。ただ、ミルクひとつ入れるだけでまろやかになるのよ。嫌なところだけ、包んでくれるの。たかがミルクひとつ。されどミルクひとつなのよ。忘れてはダメ。逃げることは悪いことだけではない。時に大切なの。逃げたい時はとことん逃げなさい。お母さんは怒らないから」
その時、紡は中途半端な反応をして終わった。
確か、そのお茶も少し飲んで終わった気がする。
そう思い、紡はアッサムティを飲み干す。
お姉さんはおかわりを入れてくれた。
紡はお姉さんに聞く。
「ミルク。入れてもいいですか?」
その時の紡の声は、迷いながらも道を探す冒険家のようで、お姉さんは「どうぞ」しか言えなかった。
無駄な説明はいらない。そう理解したから。
琥珀色のアッサムティに真っ白なミルクが混ざる。
色が濁る。均等に混ざった頃、紡は一口口に含む。
紡は驚いた。
昔飲んだアッサムティよりまろやかに、優しく感じられたから。
「美味しい」
そう紡は素直に言う。
苦手だとか嫌い、まずい。
そんな無駄なフィルターを無意識にかけていたのだろう。
だからこそ、視界が透明になった瞬間変わる。
空にある雲は退かせない。
ただ、心にある雲は頑張れば退かせる。
紡の心には気付かないうちに、雲がかかっていた。
その雲をお茶で流す。
紡にとってその行為ひとつで楽になれた。
「人間誰しも逃げていい。逃げちゃいけないなんて誰も言ってないのだから。ただ、逃げすぎるのも良くない。逃げた後の後始末も、大切なこと。それを怠るから怒られるのである。これは私の言葉ね」
そう宵が楽しそうに言う。
紡にとって足りないのは逃げなのかもしれない。
そう紡は気づく。
紡は迷子からの抜け道をやっと見つけることができた。
そして決意し、紡はお姉さんに言う。
「ここって、花屋さんですよね?お姉さんに花束を作って欲しいんですけど、できますか?」
お姉さんは嬉しそうに頷く。
その言葉を待ち受けていたかのように…
「承知いたしました。とびきりのものをお作りいたします」
そして宵は動き出す。優しく花に触れていく。
所作の一つひとつが美しい。
そう紡は思った。
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そして花束を作りながら説明を始めた。
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まず、今回の主役である青いバラを中央に。青いバラは夢が叶うという花言葉を持っています。その横に、「あなたを許す」という意味を持ったネモフィラを。内側から「成功」の黄色いポピー。「見つめる未来」のストック。「門出」のスイートピー。そして最後に「変わらぬ心」のスターチスで囲んで」
お姉さんが作る花束の花は今までないくらいにイキイキとしている。
そして、幸せそうだ。
そう紡は思った。
『未来』に『成功』。
それは紡にとって程遠いものだった。
上手くいかない時期があることはわかっている。
ただ、その時期が長ければ長いほど人は疲弊していく。
心も体も疲弊し切っていた紡にとって『未来』は見えないもの。『成功』は望むべきではないもの。
そう思っていた。
ただ、紡は望んでもいいのだと。見てもいいのだとお姉さんに気付かされた。
お姉さんは笑顔で言う。
「迷子“だった“お客さま。
当店は五百円とお悩みを持っていらっしゃる素敵なお客さましか入店できません。お客さまの素敵なお悩みは解決致しましたでしょうか?
星月夜の中、子供のように寄り道した感想を教えていただけると助かります。寄り道のお味はいかがだったでしょうか?」
紡は嬉しそうに笑う。
もう自分は迷子じゃない。誰だって常に迷子だ。
でも、紡は迷子から抜け出せた。
その事実を実感する。
「昔の味を思い出しました。母との記憶も。宝物のようにしまっておいたとっておきのスイーツのようで…幸せな味でしたかね?」
紡はお姉さんにそう言った。子供のように無邪気に。
お姉さんは紡をお見送りする。
もう時間だ。寄り道は寄り道。
長い間、寄り道しては心配をかけてしまう。
だからこそ、帰らないといけない。
自分の帰る場所に。
「それではお客さま。気をつけてお帰りください。くれぐれも寄り道をしすぎないように」
そう言い、お姉さんは紡に花束を渡す。
『成功』する『未来』を大事そうに抱えながら紡は帰る。
お姉さんはその背中を見ながら、中に入る。
そのお姉さんの姿は過去に縋るようだった。
この店は「星朧」。
お客さまの長く苦しい迷子を、正しい道に戻す。
迷子の中でも寄り道をする。
未来がある限り、失敗という名の『寄り道』を。
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