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息を吸うのは

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 高校を卒業し、僕がモラトリアムの最終地点に選んだのは青森の弘前だった。駅から近くのアパートを借りて自前の食器や家具を並べ、両親や地元の友達から距離を置いて初めてのひとり暮らしを始めた。弘前に来たのはなんとなく。正直な話、あの地から離れて、新しい土地と環境で自由に息をするためだった。ちょうど志望していた学科や専攻があったこと、学力的にも問題がなかったことなどを考えて、僕は決意を固めた。

そうは言っても、本当は自分を食い潰すことがないよう誰も知らない土地に住みたかったこと。そしてまたこの地に足を運びたかったという、淡い希望に似ただけの軽薄な理由なのだけれど。それでもこうして新しい地に腰を据えることは悪くなかった。むしろ心地良く、僕がこれまで負って、傷つけてを繰り返してきたさまざまなものが和らぎ、凪いでいくようにさえ感じた。決して消えることのないものではあるが。

 大学入学と同時に野球サークルに入った。軟式野球でのびのびと、今まで存在した理不尽極まりない大人たちに縛られることなく楽しめたのはいつぶりだろう。さらにサークルということもあって、人間関係も気兼ねなく軽い距離感で仲間や友達と接することができた。講義はたいして面白くはなかったが、通うだけのモチベーションは保つことができた。何もかもが新鮮で気持ちの良い、苦悩の少ない時期はいつぶりだろう、そんなことを考えながら生活していたのもつかの間で、僕はまた、新たな苦悩を経験することになった。

 大学1年の秋、僕は新しい環境の中で、新しく恋人ができた。女性の中では身長が高く、そのスラッとした体躯にロングの黒髪がよく似合う人だった。彼女とは野球のサークル内で知り合い、やがて付き合うようになった。これまで会ってきた人々の中で彼女ほどモデルのような人に会ったことはなかった。

互いに家を行き来しては料理をふるまったり、寝たりした。そうしていくうちに部屋に置かれていく服や雑誌に歯ブラシ。僕以外の痕跡が僕のテリトリーにあることはどこか背徳感があり、増えていくたびに文句を言いながら、そっと目につく場所に置いては喜びを感じる、という日々は、鮮やかに僕の心を照らした。しかしそんな日々が幻想であり、嘘であったということに気づくまでに、時間はかからなかった。

 年が明けて大学生活初めての春休みに、事件は起こった。簡単に言ってしまえば、彼女の浮気が発覚した。

 友達の友だちという、僕からすれば赤の他人にある日、彼女のSNSを見せられた。僕では見ることのできない鍵アカに、僕以外の男の手が写っていた。見たことのないアクセサリーに、僕よりも焼けた、黒々としたゴツめの手。過去の投稿を遡ってみると、その男と夏ごろからそうしたことをしているらしく、写真を見せてくれた彼も、どうやら彼女とはそういった仲だったようで、秋ごろに突然別れを告げられたらしい。

何故別れた彼が彼女の鍵アカを閲覧できているのか不思議だったが、そんな疑問はどうでもよくなるほど、僕の中から沸々と、騙されたという怒りと自分に対する情けなさが込み上げてきた。変われている、正常でいられていると思っていた自分が、馬鹿みたいだった。

 写真を見せてくれた彼のほかにも数人そうした者がいるということもあり、団結することで彼女に一撃を入れようということになった。数人の中には僕と同じ野球サークルに所属している者もいたことで、連携をとることは容易だった。……そして野球サークルでの飲み会途中、僕と、同じサークルにいる2人の浮気被害者で彼女を別の部屋に呼び、そこで待機していた残り数人と、写真に写っていた黒くゴツい手をもつ相手――野球サークルの先輩を交えて彼女に詰め寄った。彼女は最初驚き、やがてしおらしく泣き始めた。僕たちはただ冷静に彼女の話を聞いていたが、やがて彼女は豹変し、逆ギレをして子どものようにわめき散らすようになっていった。そこでは彼女が持つ魅力は、効力を発揮しなかった。

「寂しかった」、「誰と恋愛したっていいじゃない」、「みんな私とつき合えて光栄じゃない」と。そうして自身の悪事をやがて肯定し始めたあたりでみな――コイツはイカれている――と感じたようで、一人、またひとり……と、その部屋から出ていき、僕と黒々したサークルの先輩と彼女だけが残った。しかし腕を組んで黙々と戯言を聞いていた先輩が、ついに痺れを切らしたか、勢いよく立ち上がり「このクソビッチが!」と、吐き捨て部屋を出ていった。……残された僕らは沈黙の中ただ虚空を見つめるだけだったが、そのうち彼女がポツリと呟いた。



「智樹は味方だよね……わかって、くれるよねっ?」



 泣き腫らした目は赤く、化粧も剥がれ落ちているその顔で、僕にとってすでに魅力的でないその人――その、ヒトは言ったのだ。未だ縋るように僕に言ったのだ。その一言は僕の中にあった価値観や在り方には似ていたが、望むものでは無いと確信し、未だ僕の心にあった熱は嘲笑に変わり、僕も一言だけ彼女に浴びせて、部屋を出ることにした。



「僕は君を理解したくないよ。部屋にある荷物は処分しておく。処分してほしくないものは郵送する……もう、会うことはないよ」
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