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「……なるほど、斯様な結果となったか」

 玉座に腰掛けた《魔の王》が興味深そうに、そして見定めるかのように目を細めた。
 事実、アスモデウスと元人間ルシウス・ブランジェにまつわる出来事は、魔族と人間の在り方をひっくり返したも同然だ。関心を引くのも当然と言える。

「お、怒ってないの? 俺、ニンゲンを魔族にしちゃった訳だけどぉ……」
「おまえの才に感心こそすれど、腹を立てる理由はない。他の同胞が何を思うかは知らないが、アスモデウス卿ならば黙らせることも容易かろう」

 魔族は、徹底した実力主義だ。不満があるならば言葉ではなく力を示し、勝利した側には従う生き物である。
 既に、アスモデウスが人間を魔族に変化させたと聞いたダンタリオンなど、「いくら貴殿とて許されぬぞ!」真っ先に挑んできた。無論、情け容赦なく黙らせたが。

「ダンタリオン卿は、アスモデウス卿の主義主張とは相容れぬが、当人はおまえをさほど嫌ってはいない。まったく、奥ゆかしい男だ」
「嫌われてはいないけど、愚かだと思われてる自覚はありまーす」

 王の言葉の通り、ダンタリオンの主義主張とアスモデウスの主義主張は真っ向から対立しているが、互いを忌み嫌っている訳ではない。
 何故なら、アスモデウスの主張も、ダンタリオンの主張も、根底にあるのは《魔の王》への忠誠だからだ。
 今回、ダンタリオンが真っ先に異を唱えたのは、主戦派筆頭が戦いを挑んだ上で引き下がった────つまり、これ以上の問答は無意味である、と示す為であった。
 無論、本当に不愉快だったという理由もあるだろうが。

「借りができちゃったなぁ……」
「アスモデウスへの不満は呑み込むが、ベリトへの不満をぶつけることはまた別の話だ、と言っていたが」
「前言撤回!」

 アスモデウスは、全身から血の気が失せていくのを感じた。
 ルシウスは人間の頃から規格外の実力があり、魔族に変化したことで、魔族としての潜在能力も並外れている。だが、今はまだ力の使い方を理解しきっていない。
 他の同胞はアスモデウスの手前、ベリトに戦いを挑むのを今のところ控えているようだが、あの苛烈かつ過激なダンタリオンが戦いを挑んだらどうなるか。

「本当に、あの男を気に入っているのだな」
「……世界を引き換えにしても良いくらいには」
「それだけの情を抱ける相手に巡り逢えたことは、少し羨ましくもある」

 どこか遠くを見つめるような《魔の王》の眼差しに写るのは、彼の勇者の姿であることは想像に難くない。
 儚くも眩しい在り方は、さながら流星のごとく。人間をただの風景としか思っていなかった魔族の価値観を粉々に砕いていった。
 勇者との出会いがなければ、アスモデウスがルシウスを欲することもなかっただろう。
 この出会いが何をもたらすのか、良いことなのかどうかは分からない。それでも、アスモデウスに後悔はなかった。

「……とはいえ、禁忌を犯したおまえに何の罰も与えないのは、同胞に示しがつかない」
「はい、陛下」

 人間にとって魔族が世界の敵であるように、魔族にとっても人間は相容れぬ存在である。
 能力や見た目の違い以上に、在り方が違うのだ。魔族はより世界に近く、火や水、空や大地がかたちを得た存在とも言える。
 魔族と人間の間には決して越えられない境界があり、それを越えることは許されない。

「魔力を制限する呪いをかける。期間は私が許すまでだ」
「御意に、陛下」

 アスモデウスの手の甲に、蜘蛛を彷彿とさせる黒い紋様が浮かび上がった。
 つい溜息を溢しそうになった唇を引き締め、アスモデウスは謁見の間を後にする。
 簡単に解析しただけだが、解こうと思えば解ける呪いだ。この程度で罰などと、相変わらず《魔の王》は甘い。

「────アスモデウス」

 柱の影から滑るように姿を見せた男に、アスモデウスは相貌を崩した。
 かつて聖騎士であったルシウス────ベリトが気遣わしげに柳眉を下げている。

「おまったせぇ。ごめんね、ベリト」
「いや、それは構わないが……何を言われた? 何か罰は与えられたのか?」
「大した罰じゃないから安心しなよぉ。お父様、ほんっと俺に甘いんだから」

 仔細を報告せよ、と《魔の王》に命じられたのは今朝の事。ベリトと初めて顔を合わせた《魔の王》はアスモデウスを慮ってか茶番に乗ってくれたけれど、ベリトが魔族の身を受け入れた今となっては、罰しない訳にもいかず、アスモデウスを召集したのだ。
 《魔の王》の判断は正しい。粛々と罰を受ける覚悟を決めたアスモデウスに、ベリトは「俺も共に」と縋るように言った。「共に罪人である」とも。
 だが、王が召集したのはアスモデウスただ一人であった。招かれていないベリトに、《魔の王》の前に立つ資格はない。
 ならばせめて近くで待ちたいと、ベリトは謁見の間に繋がる長い廊下の片隅に留まっていたのだ。

「そっちこそ、誰かに絡まれなかった?」
「いや……ああ、その、なんというか」

 言いよどむベリトの姿に、アスモデウスはさてはと口の端を引き攣らせた。
 《謁見の間》にも程近いこの廊下で戦いを挑む無作法者はいないと思っていたが、難癖をつけてくる愚か者はいたのかもしれない。

「……先ほど、シトリーと名乗る魔族に声を掛けられたのだが」
「シトリー? それはまた予想外な名前……」

 どちらかと言えば穏健派──殺すよりも弄ぶことを好むためだが──に属するシトリーが、元人間であるベリトに噛み付くとは。
 何を言われたのかと問えば、ベリトは目を右へ左へと泳がせ、言う。

「《魔の王》とおまえは、どんな関係なんだ?」
「………………は?」
「シトリーに、おまえと《魔の王》は特別で、俺が調子に乗って良い相手ではない、と」
「あーーーーー」

 めんどくさいことをしてくれたものだ、とアスモデウスは天を仰いだ。わざと誤解を招く物言いをしてくれたらしい。そんなにも、人間を同胞に変えたことが許せないのだろうか。

「……いやまあ、いつかは説明しないといけないんだけどぉ」

 ちょうど良いと言えば、ちょうど良いのかもしれない。さすがに、この場で詳らかにする訳にもいかないが。
 訝しげに眉を寄せるベリトと共に一先ず私室へと戻り、アスモデウスは自らの立場について明かすのだった。

「政略の一種なんだよね、全部」
「政略?」
「ぶっちゃけ、王こそが本当の穏健派なんだよ。ニンゲンと争うつもりなんて、本当はもうこれっぽっちもないの」

 律、という名の勇者と出会ったことで、《魔の王》は人間に関心を抱いた。友と同じ生き物を傷付けたくはない、と思うようになったのだ。

「けど、他の同胞の怒りや無念はもちろん、ニンゲンを見下してしまう誇り高さも、真っ向から否定はしたくないんだって」

 《魔の王》は人間に友愛の情を抱いたが、同胞には親愛の情を抱いている。
 故に、長きに渡り積み重なった人間への悪感情をただちに捨て去れ、とは命じられなかった。

「だから、お父様に次いでリツと仲良くしていた俺が、穏健派筆頭として活動すると同時に擬似的な親子ごっこを始めることにしたワケ。ニンゲンの友愛を、俺への寵愛でカモフラージュにしてね」

 主戦派筆頭のダンタリオンや、《魔の王》を第一とするアシュタロスがアスモデウスを立てている理由も、アスモデウスが《魔の王》の望みに誰よりも寄り添って動いているからだ。
 つまり、アスモデウスと《魔の王》の間に勘繰られるような関係はない。

「心配しなくても、俺はベリト一筋だよ?」
「どうだかな。おまえは快楽に従順なのだろう」
「そこは否定しないけどねぇ」

 軽口で誤魔化した本音に、ベリトは肩を竦めるのみ。実際、これまでは快楽を求めて誰彼構わず肌を重ねてきた自覚があるので、彼の反応を責める資格はない。ないのだが、不満がない訳でもない。アスモデウスはソファーに腰掛けるベリトの膝の上に跨がり、端正な顔を両の手のひらでそっと包み込んだ。

「心配しなくても、俺はルシウスのモノになったんだからさぁ」
「俺が望む限り、他所に尻尾を振ることはないと?」
「ルシウスがいるのに余所見をするほど、浮気者じゃないよ~?」

 どうだか、と言わんばかりの批難がましい眦にそっと唇を落とす。
 この激情をルシウス以外の誰かで抑えられるのであれば、禁忌を犯してまで彼を手に入れようとしなかった。たとえ禁忌を犯すことになろうとも彼を欲したのだと、信じてくれても良いだろうに、とアスモデウスは微苦笑する。まあ、信じられない要因が自分の振るまいにあるのだから、致し方ないのだが。

「まあ、お父様の件は分かってくれた?」
「ああ。人と和平を結べる可能性がある、と知れたのは素直に喜ばしい」
「ダンタリオン卿の意志を変えるのは、中々に難儀だと思うけどねぇ……」
「そんなにか?」
「ダンタリオン卿も、リツのことは嫌いじゃなかったからなぁ。だからこそ、リツを都合の良い駒としか見ていなかったこの世界のニンゲンが嫌いなんだよ」

 気持ちは分からなくもない、とアスモデウスは溜息をつく。
 遠い昔、異界より招かれた勇者は、自分勝手な言い分ばかり並び立てるアヴァリス王と神官長に腹を立てて、人間ではなく魔族に与することを選んだ奇妙な男だった。
 血の気が多く、多少の罪を犯すことを何とも思わない強かさと賢しさを有していた。アシュタロスは「王に対して軽々しい言動が目に余る」と、よく叱っていたものだ。
 けれど、リツという男には不義や理不尽に腹を立てる良心があった。優しさがあった。
 彼の在り方は、彼の最期は、多くの同胞に少なからず影響を残した。
 《魔の王》は人間に友愛の情を抱き。
 アスモデウスもまた人間に関心と友愛を抱き。
 ダンタリオンは人間により一層の嫌悪を示した。

「おまえは……」
「なぁに?」
「……いや、なんでもない」

 言い淀むベリトの様子が気にかかりながらも、アスモデウスは追及しなかった。


 ────強引にでも聞き出しておくべきだったのだ、と気付いたのは随分後になってからだった。

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