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 これは許されない事だと、冷静な自分が警報を鳴らし続けている。
 ユルティア神殿の誰か、或いはアヴァリス王にでも知られたら最後、聖騎士の称号は剥奪され、魔族と姦淫した罪で処刑されるだろう。
 それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。

「……見すぎなんですけどぉ?」
「っ、すまない」
「んふふ、俺は美しいから仕方ないねえ」
「……自分で言うのはどうかと思うが」

 窓から差し込む月明かりに照らされた白い背中には、ルシウスがつけた花弁があちらこちらに散っていた。
 冷静になって振り返ると、貪るように抱いてしまったように思う。甘い声で鳴いていたから快感を感じてないことはないだろうが、それにしたってやり過ぎだ。

「ルシウスは夜が明ける前に帰った方が良いんじゃないの?」

 簡素な造りのベッドが軋む。ベッドの縁に腰掛けたアスモデウスが、床に散らばった己の服を持ち上げ腕を通す。目に毒なほどの白い肌が隠されたのは、ありがたくもあり、惜しくもあった。

「……そうだな。おまえはどうなんだ」
「俺? 魔族は好きなときに寝て好きなときに活動する生き物だし、俺がニンゲンとセックスして朝帰りすること自体、今に始まったことでもないから大丈夫じゃないかなぁ」

 そうか、と応じた声は自身で考えている以上に低く、ルシウスははっと息を飲んだ。
 アスモデウスという男が、性に対して積極的な性格をしていることは、これまでの遭遇で理解している。清廉であれ貞淑であれ、と求められてきたルシウスにとって、アスモデウスの奔放さは信じられないものだ。
 まあ、信じられないというのなら、そのアスモデウスと一夜を共にしてしまったこと以上に勝るものもないが。
 性に対して奔放なアスモデウスが、自分以外の誰かと肌を重ねていることくらい分かっていた。否、分かった気になっていたと言うべきか。
 改めて、アスモデウスの口からその事実を知ることになり、煮え滾る激情が腹の底で蠢き出した。これが嫉妬だと、ルシウスとて理解している。

「アスモデウス」
「なぁに」
「……いや、なんでもない」
「ふふ。なにそれ~」

 この行為が禁忌であることくらい、誰に言われずとも理解している。それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
 アスモデウスの気質を考えれば、気持ちが良いなら、と応じた可能性もあるが、その線は限りなく薄い、とルシウスは思っている。そう願いたいだけかもしれないが。
 しかし、問うことはできなかった。アスモデウスも何も問わない。互いに訊きたいことはいくらでもあったし、言いたいこともいくらでもあった。
 決定的な言葉を告げる覚悟はなかった。

「人魚姫って聞いたことある? 勇者様の世界の物語なんだけど」

 いや、とルシウスは首を横に振る。アスモデウスの以前の発言から、彼が数代前の勇者と交流があったことは推察できた。
 おそらく、アスモデウスが度々口にする“友達”とは、その人物を指しているのだろう。白い紙に黒いインクがぽたりと落ちるかの如く、ルシウスの胸に広がるどろりとした黒い情。
 気付いているのかいないのか、アスモデウスは言葉を重ねる。

「ニンゲンの王子様に恋をしたお姫様が、声と足を引き換えにして、それまでのすべてを引き換えにしたのに、結局王子様は別の女の子を選んじゃうの。でも、お姫様は見付けてもらえなくても、選んでもらえなくても、王子様を恨まなかった。最後は、自ら泡となって消えたお話」
「……悲恋か」
「そうだねぇ。俺、王子殺せば良くない? って思うくらい悲しくなったし腹も立ったんだけど」

 でも、今なら少しだけ分かるような気がする、と。アスモデウスが、悪戯が成功したような顔で笑った。
 どういう意味だと問うよりも早く、ルシウスの頬に口付けが落ちる。掠めるようなキスだった。

「またね、聖騎士様。次は殺し合おうね」

 手を伸ばすも指先ひとつ分届かず、アスモデウスは朝と夜の狭間に消えてしまった。
 目に見えない境界線を敷かれたような気分だ。彼は、一夜の夢で終わらせるつもりなのだろう。
 ただの一度であれば互いが口を噤んでしまえば知られることはない。
 快楽に正直なアスモデウスが、ただの一度きりと定めた理由は何故か。他でもないルシウスの為だ。
 皮肉とも言うべきか、おかげで腹を括ることができた。次に会ったら、あの男を掻き抱いて、言ってやろう。おまえの所為だ、と。逃がしてやるものか、と。
 ────そんなことを、愚かにも夢見ていた。



「誰の許しでここに立ち入ったの。どの面下げて、その墓標の前に立ってるの」

 肌の上を刃が滑るような恐怖にも似た不快感と、喉を掴まれているような息苦しさ。
 つい数分前まで聞こえていた木の葉の囁きも、鳥の囀りも、黒領とは思えない穏やかな空間は、呆気なく消え失せた。ただ一人、アスモデウスの登場によって。

「ア、アスモデウス!?」

 彼の雰囲気に圧倒されるトモヤたちを背に庇い、ルシウスはアスモデウスの様子をうかがう。
 人間を嘲笑いながらも、人間を積極的に傷付けることはない。どちらかと言えば温厚で、同時にひどく理性的な男、というのが幾度かの対峙を経て得たアスモデウスの印象だ。
 だが、ルシウスの眼前に立っているアスモデウスは、これまでの印象とは大きくかけ離れている。怒りのあまりに表情は抜け落ちて、爛々と輝く薄紅の瞳はぞっとするほどに恐ろしい。

「よりにもよって、アヴァリスの血筋とユルティアの信奉者がに来るなんて、とんだ悪夢だよ」
「ッ、待て。どういうことだ」

 彼がこんなにも激怒する理由が分からない。おそらく、ルシウスたちがこの地に足を踏み入れたことが原因なのだろう。
 勇者の力をもってしても、黒領に漂う瘴気はルシウスたちの心身を少しずつ少しずつ蝕んだ。瘴気の薄い場所を探して歩き、ようやっと見付けた場所がここだった。
 木々を掻き分けた先に、ぽっかり開いた空き地。不思議なことに、この辺りは瘴気の影響がまったくなかった。辺りを見渡して、一番先に目に飛び込んできたのは見上げるほどの大木だ。そして、その根元に淡い光を称える、ガラスのような石。
 真っ先に近付いたのはトモヤだった。柔らかな光を放つそれを覗き込み、はっと息を飲んだ。

「これ、日本語……僕の世界の言葉です!」

 石に彫られた言葉は、トモヤの世界で使われていた言語だと言う。何故、勇者の世界の言葉がこの石に刻まれているのか。
 しかし、その疑問もアスモデウスの出現により彼方へと消える。普段のアスモデウスならばいざ知らず、怒りを露わにする彼が答えてくれるとはとても思えない。

「あ、アスモデウス! あなたはこれが墓標だと言った! つまり、これはあなたたちが殺した、勇者の墓、なんですか!?」
「たとえそうだとしても、たとえ違ったとしても、君にだけは教えてあげたくないな、可愛らしい勇者様」
「っ、みんな、みんなみんな、元の世界に帰りたがっていた筈なのに、よくも……!」
「……何も知らないくせに、知った風な口を利くものだねぇ」

 ああ、と嘆息したアスモデウスの頭上に、牙にも似た鋭利な何かが出現する。詠唱を用いることなく、瞬時にあれだけの質量を生成する魔術を、ルシウスは知らない。さすがは魔族と言うべきか。
 だが、射出されるよりも前に、牙はパンッと甲高い音を立てて弾け飛んだ。
 アスモデウスの薄紅の瞳がゆるりもトモヤを捉えた。トモヤは両の手のひらを掲げている。勇者の力で、アスモデウスの魔術を解いたのだ。

「へえ。そのくらいはできるようになったんだ? ────まあ、想定済みだけど」

 ルシウスが動けたのは、半ば無意識だった。トモヤの身体を強く押した瞬間、ルシウスの視界にぱっと赤い花が散る。加護を付与されている鎧を物ともせず、見えない何かがルシウスの肌を切り裂いた。
 否や、ルシウスだけではない。トモヤも、フォルトたちも肌を、衣服を、真っ赤に染めていく。

「……君たち勇者は、目に見えるものに意識を取られがちで、目に見えない何かには疎かになるよねぇ」
「最初の魔術は囮か……!」

 人間ならば詠唱を必要とする術を、予備動作なく発動させるアスモデウスの魔術が、桁違いであることは理解していた。アヴァリス王城で、交易都市アルス・マグナで、サラキア城塞都市で、アスモデウスの魔術を見てきたのだ。
 この事態は、ルシウスの傲りによってもたらされた。アスモデウスが勇者たちを、ルシウスを本気で害することはないと、無意識に思い込んでいた結果だ。

「……フォルト殿下、トモヤ殿と共に離脱してください。ここは俺が引き受けます」
「な!」

 いつになく重い聖剣を構え、アスモデウスへと斬りかかった。だが、切っ先は見えない壁に阻まれ、ぎちぎちと耳障りな音を奏でる。
 背後から、トモヤの悲鳴にも似た声が聞こえたが、応じるだけの余裕はない。気を抜けない理由は強敵を前にしていることもあるが、それ以上にアスモデウスへの激情が胸を占めて止まないからだ。

「……聖騎士様のことは、ちょっと気に入っていたんだよ。出来れば、殺さずに済めば良いのにって。だから、この結果は少し残念だな」

 焦がれるような眼差しも、縋るような指先も、今でも色鮮やかに覚えているのに、眼前のアスモデウスはまるで別人だ。彼の目が、声が、語っている。おまえは路傍の石も同然なのだ、と。

「連中には逃げられちゃったし。まあ、あの程度がいくら逃げようと結果は変わんないけど」

 どうやら、彼等は上手く逃げてくれたらしい。トモヤという少年は、この世界の勝手な都合に巻き込まれただけの犠牲者だ。心優しい彼を、付き合わせる訳にはいかなかった。

「“思いは溶けて消えて、泡みたいに”《Seejungfrau》」

 パリンッと何かが割れたような音が、どこからか響いた。瞬間、四肢から力が抜けた。否や、手足が常よりもずっと重くなったのだ。

「っ、何を、した……!」
「俺が発動する魔術以外の、ありとあらゆる術式を一時的に無効化する術。女神の加護を失くしたから剣も鎧も君を助けないし守らない」
「……デタラメな魔術だな」

 だが、とルシウスは剣を握り締めた。一時的とは言え、女神の加護は失われた。加護もなく、アスモデウスを相手に勝てる見込みは薄い。
 それでも、たとえ見込みはなくとも、剣を取らない理由にはならないのだ。

「ハアッ!」
「あっは。加護もなしで、よくもまあそんだけ動くねえ、聖騎士様?」

 アスモデウスと戦いたい訳ではない。告げたい言葉があって、聞きたい言葉がある。あの薄紅の瞳にもう一度映る為の方法が、彼の意識を奪い去る他の手段が見付からないから、ルシウスは剣を振るうしかなかった。

「初めて会ったときも、こうやって向かい合って戦ったっけ」

 覚えてる? とアスモデウスが嗤う。
 覚えているとも。人間とは比べ物にならない強大かつ緻密な術式を涼しい顔で操る様に、ルシウスは畏怖と憤怒を抱いた。

「────俺は、君みたいな人間の誇りを、自信を、価値観を、全部粉々に砕いて、跪かせてやるのが好きなんだ」
「……やれるものなら、やってみるが良い。先に、おまえを跪かせて、その首を落としてやる」

 あのときと同じ言葉。だが、ルシウスの胸中に蠢く感情はあのときとは異なっている。
 怒りはあれど、それ以上に悲しくて、苦しかった。こうなる前に、こうなる以外に、なかったのだろうか、と。

「ほら、どうしたの? せっかくなんだから、もっと楽しく殺し合おうよ」
「……お前は、今、楽しいのか」
「楽しいよ、とても」

 不可視の刃が、ルシウスの皮膚を切り刻んでいく。勘で一つ弾いたところで二つ三つと襲いくる刃により、美しい鎧は砕け、血が噴き出す。
 何が殺し合いだ。一方的な蹂躙ではないか。だが、やはり怒りよりも恐怖よりも、胸中を占めるのはアスモデウスへの想いだ。

「アスモ、デウス……!」

 分かり合えるような気がした。通じ合えるような気がした。それはすべてまやかしなのか。彼の言葉はすべて偽りなのか。

「飽きちゃったなぁ。もう殺しちゃおっか」




「さようなら、聖騎士様」
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