回想電車

壺の蓋政五郎

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回想電車『諦め駅』

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 妻の認知症に付き添い7年が過ぎた。認知症の初期、妻から『あたしを先に死なせてね、お父さん』と顔を合わせる度に口癖のように言っていた。夫もその方がいいと信じている。妻を一人残して死ぬことは出来ない。死んでも死にきれない。妻に携わるすべてのことが一々心配でならない。誰かが糞尿の始末をする。ちゃんときれいに拭き取ってくれるだろうか?食事、妻はアレルギーがひどい、ちゃんと管理してくれるだろうか?鯖の出汁が入っていないだろうか?週に二度の入浴、足指の股まできれいに洗ってくれるだろうか?踵の角質を指でこそげ落してくれるだろうか?何より、テレビドラマが好きな妻、だけど自分じゃチャンネルを変えられない。好きなドラマに合わせてくれだろうか?介護士が不足しているのは肌身を持って感じていた。病院にいるほとんどを車椅子に固定され、コミュニケーションルームの片端で、ぼーっとテレビの奥を見つめている。そんな妻を見て1分1秒ものんびりしていられない。その思いは焦りになり自宅で介護を決めたこの男は、高橋幸次77歳。妻は美幸78歳。既に美幸は幸次のことをほとんど忘れていた。
「おい、今日、退院するよ」
 車椅子に縛り付けられている美幸に声を掛けた。縛っていないと車椅子から落ちてしまうと言う理由である。美幸は立ち上がれる。トイレまで行けば自分で処理できる。だが院内を忙しく移動する介護士を見ていると声を掛けるのを躊躇ってしまう。だからオムツを着用するようになった。そして辛いのは否応なしに拘束の承諾書に署名をさせられることである。自分の妻を椅子に括り付けるために判を押す。
「どちらさんですか?」
 面会は毎日来ているが一時でも離れてしまうと夫の存在を忘れてしまう。これほど幸次にとってつらいことはなかった。自宅に居て四六時中一緒ならきっと忘れることはないだいだろうと確信している。
「夫ですよ。今年金婚式、結婚50年の夫です。ほら、結婚式の写真」
 幸二は美幸の記憶を戻すためにスマホに過去の写真を保存している。美幸がじっと見つめる。涙が一粒落ちた。幸次は分かってくれたことで感激する。
「高橋さん、先生がお呼びです」
 看護師から声が掛かり相談室に行った。
「旦那さん、急ですね退院ですって」
「はい、お願いします」
「ご自宅には旦那さんの他に誰か協力者はいますか?」
「いえ、私一人です」
「あのね旦那さん、あなた簡単に考えているけど大人ひとりを介護するってどれだけ大変か分かりますか。トイレ、入浴、食事、どれをとっても大変な作業ですよ。協力者がいなければ許可を出すわけにはいきませんよ」
 医師は拒んだ。病院にも色々と事情がある。急に退院されてはベッドが空いてしまう。幸次もその辺の事情は察している。しかし美幸を置いて帰れない。
「先生、介護は何とかします。急な退院はご迷惑を掛けますが、もう時間がないんです。私自身いつまで生きれるか分かりません。それまで家内とずっと一緒にいたいんです」
「あなたの思いだけで奥さんをほっぽり出すわけにはいきませんよ」
「ここにいても治りません。悪くなるだけです。血液検査の数値は健康になるでしょうが記憶は取り戻せません」
「だけど訓練しなければ退化してしまいますよ」
「そうは思いません。家内のことは私が一番よく理解しています。一緒にいることが私にだけ与えられた特効薬なんです」
「そんな馬鹿な、みなさんしっかり治癒して退院されていますよ」
「果たして本当に治っているんでしょうか?身体は健康でも、どこかが壊れていないでしょうか?病院に任せることと、家族がやるべきこと、このタイミングを逃すと偏った人間になってしまうような気がします。家内にとっては今なんです」
「その自信はどこからくるんですか?病院より自宅がいいと言う自信は?」
「愛です。ここに無くて家にあるものは愛なんです」
 古希を過ぎて恥ずかしい表現だったが、愛としか例えようがない。愛で二人は繋がっているんだと50年連れ添い感じ取った。
「愛?旦那さんさえよければいい薬を処方しますよ」
 言われた医師の方が照れてしまった。ともすると肉体関係を想像する。精度の上がった精力剤は男だけではなく性を忘れていた女にも効果がある。この医師も幸次の性欲と勘違いしてにやけてしまった。
「けっこうです」
 幸次は医師の勘違いを指摘するのも恥ずかしかった。
「いいでしょう。その代わり奥さんの体調が悪くなってもしりませんよ」
 幸次の思いに負けた医師は許可を出した。美幸は幸次の予想通り記憶が戻って来た。どんなに有名な専門医にも計り知ることの出来ない、50年連れ添った夫婦でしか通じないテレパシーがある。語尾だったり、笑うタイミングだったり、飯の食い方だったり、目で見た、鼻で嗅いだ、肌に感じた、そんな体感ではなく、細胞に染み込んだ夫婦の記憶が回復に繋がる。どんなに優れた医師でも機器でも敵わない治療法である。幸次は医学的な治療が必要なら退院は諦めていた。病院からリハビリ施設、そして介護老人保健施設。誓った女を放棄する。面会に行くたびに歯の浮くようなやさしい言葉だけ残し、自己満足して帰る虚しい日々を想像するだけで鳥肌が立った。
「あなたありがとう」
 ありがとうを口癖にしていて良かった。職場で常に『すいません』と『ありがとうございます』の繰り返しが家庭でも癖になり、それはいつしか美幸にも感染して日に何回も自然とありがとうの応酬を繰り返していた。それが介護する立場になり身に染みるとは怪我の功名だと幸次は喜んだ。
「今日は散歩に行こうか」
「ええ、でももういいの。もう終わりが近いの。まだ歩けるうちにあなたに送って欲しい」
「送るってどこに?」
「あなたの手に掛かれば天国に行けそうな気がする。もし私に何かあっても病院には連れて行かないで。あなたの胸の中で死んでしまいたい」
「何を言うんだ一緒だよ、お前を一人で逝かせやしないよ、そう誓ったんだ」
「感じるの、もう迎えがきそうだって。あなたは生きて、お願い」
 幸次は首を横に振った。
「よし、今夜は東京で美味しい物を食べよう。そして時間の限りゆっくり過ごそう」
 幸次は美幸を車椅子に乗せた。行き交う人はことのほか親切である。チラ見をされるのは仕方ない。悪気ではない。むしろ出来ることがあれば遠慮なく言って欲しいと待ち構えている。そんな空気が漂う。
「ありがとうございます」
 車椅子の進路を開けてくれたやくざ風の男に礼を言う。
「おじさん気にすんな。こんなことで一々礼をしてたら頭が上がらなくなるぞ。どこまで行くんだ?」
「八重洲南口です」
 やくざ風の男が車椅子の前に立ち進路に立ち塞がる群衆を蹴散らしてくれた。
「ありがとうございます」
 八重洲南口の改札を出ると男は消えていた。
「いい人ですね」
「人は見かけによらないね」 
 美幸が笑った。こんな笑顔は見たことがない。神様のご褒美だと幸次も美幸のお迎えを感じ取った。
「さあ帰ろう」
 食事をして八重洲をあちこち歩き回った。
「楽しかった」 
 横須賀線のホームで最終の下りを待っていた。金曜日の最終とあって超が付くほど満員だった。ドアが開いた。車椅子が入り込む隙間はない。
「もっと奥に入って」
 若い乗客が尻で押した。しかし車椅子が入るほどのスペースはない。無情にもベルが鳴りドアが閉まった。ドアガラスに押し付けられた顔はどれも醜い。悪いことをしたわけではないが後ろめたさが醜くしている。
「戻ってどこか安いホテルでも探そうか」
「いいのあなた。あなたさえよければ近くの公園で星空を見ていたい」
「ああそうしよう」
 ホームのベンチで時間潰しをしていた。出ろと言われるまでいいだろう。しかし警備員が素通りした。『出て行け』と声を掛けるのが申し訳ないのか、関りになるのが面倒臭いのかもしれない。二人は警備員の後ろ姿を見て失笑した。
「仕方ないわよあなた」
「そうだね」
 幸次は立ち上がり車椅子を押した。すると一輌の列車が入って来た。二人はじっと見ていた。古びた車両で昔懐かしい。
「回送電車だって」
「いえあなた回想電車ですよ」
「あっ本当だ」
 幸次は列車が停車した新橋寄りに向かった。
「ご乗車になりますか?」
「乗ることが出来るんですか?」
「はい、客車ですから」
「どこまで行くんですか?」
「三途駅から折り返して東京に戻ります」
「どれくらいかかりますか?」
「トラブルがなければ往復3時間半です。始発前に戻ります」
「料金は?」
「ご乗車はそのままどうぞ、ですが上りをご利用でしたら別途運賃が掛かります」
「どうする?」
 幸次は美幸に振った。
「乗りましょうあなた。何か感じるものがある」
 幸次は車椅子を列車と垂直に向けた。車掌が手を貸してくれる。
「ありがとうございます」
「座席にお座りになりますか」
 車掌が美幸に訊いた。
「お願いします」
 美幸を座席に座らせた。
「ああ気持ちいい、普通のことがすごく気持ちいい」
 美幸は座席に座り伸びをした。
「出発進行」
 運転士の透き通る声が聞こえた。
「おおっ」
 列車が走り出してすぐに進行方向左側の擁壁が開いた。
「あなたっ」
 美幸は驚いて車椅子から手を放した。車椅子が後方に移動する。幸次が追い掛けたが車椅子の方が早い。もう車掌室の壁に当たると目を瞑った瞬間、車掌が飛び出して車椅子を止めた。そのまま幸次の前まで移動した。
「すいません、驚いて離してしまいました」
「問題ありません」
 車掌はにこやかに言った。
「やさしい車掌さんね」
「ああ、野辺地さんて名札があった。よしどこか風光明媚な観光地はないか聞いてみよう」
 車窓は地下水の滝からススキの原っぱに変わった。
「迷い、迷い~」
 迷い駅に停車した。血走った男が二人が座る窓を叩いた。
「あっ、あなた」
 美幸が驚いた。男は何かを訴えている。幸次が上下スライド式の窓を少し開けた。
「何でしょうか?」
「俺の名前は斎藤浩二、東京に帰るなら八重洲地下のカレー屋に行ってくれ。橘と言う男がいるはずだ。毎日午後三時にビッグチキンカレー大盛を注文している」
「でも私達はその時間には」
「頼む」
 列車が動き出した。鈴木は列車と並走しホームの端から落ちた。
「ああっ、あなた、あの人大丈夫かしら」
「無茶するからだ」
 列車は延々とススキの原っぱを進む。
「ほらあなた、鬼ごっこしている」 
 躓き駅を過ぎ線路沿いの砂利道で達磨が公安に追いかけられている。二人は親子仲睦まじい鬼ごっこと勘違いしている。
「ああ、あの子、転んだわ、捕まっちゃう」
 美幸がはしゃぐ。
「ああ、もう駄目だ、ほら捕まった」
 二人は鬼ごっこを見て楽しんでいた。公安は達磨を掴んだ手を差し上げた。北の満月に達磨の姿態が晒された。
「ああっ」
 美幸が声を上げた。公安は周囲を見回して達磨の頭からかぶり付いた。二人は車窓から目を離し、座り直して足元を直視した。
「今何があったの?」
「分からない。考えてみればこんな夜中に鬼ごっこなんておかしい。そもそもこの電車だって何線だか分からない」
「あなた、これは私のお迎え電車かもしれない」
 そんな馬鹿なと言いたいとこだが否定出来ない。幸次は立ち上がる。
「化かし、化かし~」
 化かし駅に停車した。
「あの、野辺地車掌さん、この電車は何線ですか?」
「ダイヤにはありません、回想電車です」
「私達は東京に戻れるんでしょうか?」
 野辺地車掌が笑った。
「お客様次第です」
「終点で折り返すと聞きましたがそのまま乗っていてもいいんでしょうか?」
「それは出来ません。一度改札を出ていただいて切符を購入してください」
「終点で降りて待っていればいいんですね?」
 野辺地車掌は即答を避けた。
「三途ってどんなとこですか?」
 答えない野辺地車掌に詰め寄った。
「お二人にお勧め出来る駅ではありません」
 それだけ言って車掌室に戻った。
「諦め、諦め~」
 諦め駅に到着した。野辺地車掌が幸次を見つめている。
「あなた、車掌さんはここで降りなさいって合図を送ってくれているんじゃない」
「そうかもしれない」
 美幸を車椅子に乗せた。列車からホームに渡る時に野辺地車掌が手を貸した。
「お待ちしております」
 野辺地車掌が幸次に囁いた。幸次には意味がよく分からなかった。二人は改札を出た。
「あなた満月がきれい」
 美幸が北の満月を見て言った。
「ああきれいだ」
 幸次は南の満月を見ていた。駅を出るとロータリーがある。店らしきものはない。
「あなたあそこに灯が見えますよ。青いからコンビニじゃないかしら」
「そうかもしれない。行ってみよう。熱いコーヒーでも啜ろう」
 ロータリーを出るとすぐに砂利道である。青い灯りはススキの原っぱの小道の先にである。
「車椅子はここに置いて行こう」
「私は歩けませんよ」
「私がおんぶしてあげるよ」
 中腰になった幸次の首に手を掛けた。軽い、尻の肉も落ちて掌に骨を感じる。こんなに痩せているとは思わなかった。風呂は訪問介護に頼んでいるので裸を見たことがなかった。幸次は責任を感じた。
「二回目」
「何が?」
 幸次はとぼけた。よく覚えている。美幸と交際するきっかけになったおんぶである。
「あなたにおんぶしてもらうの」
「前にあったっけ」
「私が飲み会で酔っ払って歩けないのをおんぶしてタクシーまで乗せてくれた」
 背に当たる乳房の張りに興奮した。手を添える尻の肉が温かかった。そのことに触れることが可哀そうだと忘れてしまったことにした。
「あたし痩せたでしょ。がりがり」
「そんなことはないさ、お前はお前だ、何も変わらない」
 幸次の項に涙が落ちた。
「あれ、コンビニじゃないな」
 美幸をベンチに座らせた。曇りガラスの中を覗いた。
「営業中ですよ」
 ドアが開いて声を掛けられた。首が肩に喰い込んだ異様な風体の男にびっくりした。
「お一人ですか?」
「いえ、家内と二人ですが」
「さあどうぞ」
 チェック柄の赤いベストから飛び出した腕は肘である。
「私はここのマスターです。あなた方は諦め駅には初めてでしょ。驚くのは無理もない。さあどうぞ、上りの列車待ちでしょ、これから冷える時間ですから中でくつろいでください。奥様も」
 マスターが入店を誘った。幸次が美幸の前に屈んだ。マスターはその動作で美幸に障害があることを悟った。
「おおい、手を貸してくれ。ご主人、中に入ると階段があるからおんぶじゃ危ない」
 すると中から達磨に手足が伸びた男女がぞろぞろと出て来た。
「奥様をお願いします」
 マスターが言うと美幸を、神輿を担ぐように持ち上げた。
「ああ、あなた」
 達磨人間の手足に触れられて気色が悪い。達磨人間達はえっさほいさと美幸を中に運び入れた。そしてボックス席に下した。
「あなた」
 美幸は幸次の腕に抱き付いた。心配するなと美幸の肩を擦った。
「ご注文は?」
 若い女が注文を取りに来た。
「あのう?」
「何?」
「この店はどういった店ですか?」
 幸次は社会的弱者を雇用する店のように思えた。今や全国にあり、珍しくもない。
「ここはスナック喫茶って感じ。お酒もあるわよ」
 女は馴れ馴れしい。だが気分を害することはない、声と笑みが上回っている。
「そうじゃなくて、こう言っちゃ失礼だがあなた以外の方々はどこか異様に感じてしまう。私の不徳の致すところだがね」
「ああ、あの人達は普通の人よ。達磨になることを決心したの。だから手足が無くなれば砂利道の石になる運命。あたしも5年後には達磨になるの。おじさんとおばさんはどうしてここに来たの。何も諦めることなんか無さそうだし」
 幸次と美幸は顔を見合わせた。
「諦めることってどういうこと?」
 美幸が口を挟んだ。
「そのまま字の通りよ。人生を諦めるか、やり直すか、諦めた人はここに残って達磨になるの」
「私達は何も諦めてはいない」
「だったら上り電車で東京に帰ればいいのよ。それで何にする?」
 女は注文に戻った。
「コーヒーを二つ」
 女は微笑んで頷いた。
「まったく、私達に諦めることなんて何もありゃしないね」
 幸次が美幸に相槌を求めた。
「あなた、私は諦めていたのよ。もうこの命の終わりの時だって」
「何を言うんだ。お前の最後は私が看取る。そしてお前の後を追う。そう覚悟している。だけどここじゃない。あの娘が言っていたことは信用出来ないがそれにしても達磨になってまで生き延びることはしない。そうだろう」
 美幸はテーブルを見つめている。コーヒーが運ばれた。二人の会話は途絶えコーヒーも冷めてしまった。
「列車の時間ですよ」
 幸次が会計をした。達磨達が車椅子まで運んでくれた。
「ありがとうございます」
「お気を付けて」
 店長が見送る。店の前で女が手を振った。二人は一礼して駅に向かう。
「みなさん親切ですね」
 美幸がポツリと言った。
「ああ、最初はどうなることか不安だった。でもあの人達の中に居ると真のやさしさを感じて心地よかった。何かしらの罪を、人間を捨てて達磨になる。皮肉なことにその過程で一番人間らしく生きていられるのかもしれない。嘘など吐く必要のない時を過ごしているから人間の醜さがこそげ落されて達磨の形になるんだろう」
 幸次はそう言って車椅子を押した。その時ガラガラと切符売り場のシャッターが開いた。
「さあ、東京に戻ろう。始発で帰り与えられた命を精一杯生きよう」
 美幸は返事をしない。残された命は短いと悟っている。ならば諦めて達磨になって少しでも人間らしくいたいと思った。
「東京行を二枚ください」
 幸次が駅員に言った。
「あなた、あなただけ帰って。お願い、あたしをここに置いて行ってください。怨んだりしない、あたしの最後の一生のお願い」
 美幸は目を閉じて手を合わせ震えている。
「どうして?一旦戻り、もう一度考えてからでもいいんじゃないか。美味しいものをたくさん食べて、見たいものをたくさん見て、それでお迎えが来たら素直に受け入れよう。それはここで達磨になるのと同じことだよ」
「違うわ、違うの。ここで達磨になることは人生を諦める事。諦めることは悪い事ではない。それに一生砂利道の石となってあのお月様を見て暮らすの。あたし決めたの。もう戻らない」
 美幸の決意は固い。
「列車が入って来ますよ」
 駅員は切符を差し出した。幸次が受け取ったとたんにシャッターが閉まった。
「お前ひとりを置いてはいけない。私も一緒に残るよ」
「あなた、それは駄目、あなたはまだ生きて、老人会のカラオケを楽しんでください、それがあたしの楽しみでもあるの」
「美幸、私はお前と一緒になる時に決めたんだ。お前を一人にしない。そう覚悟を決めて生きて来た。だから心配は要らないよ。一緒に達磨になって、ずっと一緒に向かい合って、にらめっこを続けよう。お前は笑い上戸だから私には勝てないだろうけどね」
「あなた」
 列車が入って来た。
「諦め、諦め~」
 定刻通りに停車した。停車から30秒で発車する。一分が経った。野辺地車掌が改札の二人をじっと見つめている。夢地運転手は車掌からの発車確認合図を待っている。二分が過ぎた。幸次が右手を上げた。指の股に二枚の切符が挟まっている。指の股を広げると切符は空に舞い上がって星になった。
「あなた、きれい」
 美幸が空を見上げた。
「出発進行」
 夢地運転士の切ない声が原っぱのススキを揺らした。


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