やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 終

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「お兄ちゃんはプロ目指しているのかな、ジャズとかブルースとか、そうか偉いねえ。だけど暑いから今日はうちに帰りなさい」
 徹平に追い払われた学生は見えなく所まで自転車で走り去ると、「ばーか」という声と共に雑木林に消えた。俺達は顔を見合わせて笑った。腹を抱えアスファルトに転がって大笑いした。笑うことを忘れていた俺達は、こんなくだらないことに壷を刺激され、巻かれたゼンマイが開き切るまで笑い転げた。
「ああっ、ああっ、まいった。どうだ吹っ切れたか?」
「まあこんなもんだ」
 太陽はすっかり山陰に沈んで、青かった波もどす黒く塗り替えられた。
「なんでこんなとこに連れてきたんだ。高校のときにシンナー吸いにきて以来だな」
「昨夜ここで乱闘事件があったんだがなにもかも消えてねえんだよ、警察が片付けたか、他の誰かが処分したのか」
「警察が来たような感じはしねえなあ、平和そのものじゃねえか、ラッパ吹きの少年には悪いことしちまった。今度ここであったら辛抱して聞いてやろう」 
 徹平が笑い転げていたところにさぶろーは膝を折り、仰向けに死んでいた。砂利に黒い染みが点在しているがもしかしたら血痕かもしれない。
「帰るべえ、送っていくよ。俺も帰って親父とおふくろに今日の我儘を詫びよう」
 蜩が俺達の引き上げを歓迎している。

「手紙来てるわよ」
 二階に上がると机の上に手紙が置かれていた。裏を見ると『おでん』と書かれていたのでよし乃だとすぐにわかった。
『今晩は、今日はかな、あなたに知らせたいことが二つあるの、でも気にしなくていいから読み終わったら破り捨ててね。趙さんを殺したのはあたしなの、彼はね、あたしが社長から命令されたのを気付いていてね、あたしがやり易いところに誘ってくれたのよ。ドブ沿いのひと気のない路地に行ってね、後ろを向いてね、じっと立っていてくれたの。あたしね涙が溢れて出刃包丁が震えてしまってね、できない、やめよう、趙さんに謝って逃げようと思っていたらね、趙さん、あたしの包丁持っている手首を掴んでね、自分の腰に突き立てたの、ぐりぐりとぐりぐりと刃が全部身体に入るまで、趙さんね、ううって痛み堪えて、一度引き抜きもう一度突き立てたの。それでね、あたしの方を向いて、二度頷いて自分でドブに飛び込んだのよ。あの翌日あなたがお店に来てくれて二人で朝までお通夜をしたよね、自分で殺してお通夜なんてばかみたい。ごめんなさいね、人殺しの女を抱かせてしまって、寂しかったの、苦しかったの、誰かに傍にいて欲しかったの。ごめんなさい。それと、やっちんが知ってるあたしのこと、青山のマンションとかパトロンとか、全部嘘だからそれもついでに謝っておくわ。もうひとつはね、あたしのお腹には赤ちゃんがいるのよ、そうやっちんの子よ。あたしね、社長とあなた以外に関係を持ったことがないのよ、そして社長にはその能力がないから断定できるの。嘘つき女だけどこれは本当なの。でも気にしないで、あなたに迷惑はかけないわ、それにまだ生むかどうかも決めていないし、帰ってからお母さんに相談して決めようと思うの。ただやっちんには知らせておいた方がいいかなあと思って、ごめんね、びっくりしたでしょう。報告は以上です。この手紙が着く頃はたぶん北朝鮮の港にいると思います。さようなら、あなたに会えてよかった。 薄暗い新潟の港より よし乃』
 俺は台所に行っておやじのブランデーとグラスを持ってまた二階に上がった。苦しいのか哀しいのか切ないのか侘しいのか情ないのか胸が詰まってしまい、アルコールでそれを流し込み、体内で曖昧にしてしまいたかった。よし乃がいつも魚をさばいてくれる包丁で先輩が死んだ。よし乃の手の上から出刃の柄を握りしめ腰に突き立てた先輩は何を感じていたのだろうか、ドブに飛び込むときには何が彼の脳を支配していたのだろうか。おそらく、母親や父親、親友や恋人など、祖国韓国で過ごした何年かの映像が一瞬の内に駆け巡ったに違いない。刺した痛みは失恋で、飛び込んだドブは生まれ故郷の小川だったに違いない。先輩さようなら、よし乃を恨まないで欲しい。心地良い風が吹き込んできたとたんに雨が降り出していた。大粒の雨が網戸にぶつかり垂れて畳を濡らす。窓を閉めてしまうと温室になってしまうのでおふくろがいつもやるようにバスタオルを四ツ折りにして窓枠の桟に被せた。徹平は山田の子供を自分の子として育てる決心をした。俺は自分の子でありながらよし乃が処分してくれればいいと思った。徹平が逞しく、そして羨ましかった。おやじのブランデーが空になる頃雨もやみ、ちょい欠けの月が朧に町を照らし始めた。御先祖様も年に一度の里帰りが時間切れとなり、天国だか地獄だかにそれぞれが茄子の牛に跨って帰って行く。この薄明かりは提灯代わりになって助かっているだろう。栓のコルクを爪で毟っていたら意識がなくなった。

 翌日学校に県警の横田が非番を利用して俺の様子窺いに来た。笑顔のやさしい二枚目は私服でいると警察にはみえない。俺の友達には愛想の悪い吉川さんが横田の甘いマスクに騙されたのか俺が作業している体育用具室の裏まで案内してきた。
「やっちん先生お客様です。お友達、横田さん」
 真っ白に塗りたくった顔に朱で縁取られた口が耳まで裂けていた。
「どうもありがとうございます、暑いところわざわざ案内していただいてすいませんでした」
 校庭の真ん中をゼンマイ仕掛けの人形のように進む彼女の足元に土煙が舞い上がっている。
「どう彼女?」
「えっ独身なんすか、いいひとですよね。僕太った人好きなんすよ。今度食事でも誘おうかね、徳田さん仲介頼みますよ」
「俺は構わないけどマジで?」
「ええ、勿論」
 二枚目には日頃からいい女が群がっていて、俺達三から四枚目の美女感覚とは随分とずれているのかもしれない。横田の、彼女が校庭を一直線に横切る後姿を見る視線はまんざら嘘でもなさそうだ。トラックをランニングしている女子バレー部の生徒達は、彼女がコースを渡り切るのをスピードを調整して合わせている。トラックを渡り切ると彼女は生徒達に一礼して昇降口への階段を上った。
「いいですねえ、学校は、もう一度叶うことならやり直したい」
「ところでなんすか?こんなとこまで、一杯飲ろうってんならもう暫く辛抱してください。付き合いいいほうだし、一度横田さんにご馳走しようと思っていたんですよ」
「いいですねえ、今度僕の方からお誘いしますよ」
「どうですか、日陰に入りましょう、この裏なら職員室からも死角になるから煙草もOK」
 用具室から古いグローブを二つ出して、「座布団」と言って、一つを横田に投げた。俺達は桜の木の下にグローブを置き胡坐をかいた。
「まず徳田さんに謝らなければなりません。例の韓国人のホシ、特定できました、まだ逮捕に至ってはいませんが全力を尽くしたいと思っています。やですねえ、こんな商売しているとまず疑うことから入るんです、信じることから始められるあなた方が素晴らしい」
 やはり先日署に呼ばれたのは俺を疑っていたのであって、あの挑発も台本通りに進められたのだろう。
「仕事だからしょうがない、気にしていませんよ。ところで誰なんです?」
 山裾を伝わってくる風はもう秋の気配を感じる。
「灯台下暗し、徳田さんもよくご存知の林 よし乃、本名林 恩恵、おでんや『よし乃』の女将ですよ。いい女には棘があると言いますが恐ろしく極太でしたね。ドブ川から見つかった出刃包丁から彼女の指紋が検出されました。林には前がありそれで断定できました」
「前って?」
「あまり詳しくはお話できませんが、覚醒剤取締法違反で一年の実刑を受けています。まあそれは担当違いで、僕は韓国人殺しを追えばいいのですが、林は北朝鮮の麻薬密輸組織と深く関わっているようで、本庁から慎重に行動するよう指示されているんですよ。慎重にとの上からのお達しは、お前等は手を出すなってことなんですよ」
 昨夜、彼女の告白を暗記するほど何度も読み返したので横田の情報を聞いても驚くことはなかった。それよりも本名はよし乃ではなくて林恩恵だったことにびっくりした。林恩恵は俺の子供を身篭って故郷の北朝鮮に帰った。もし神の命によって生まれてくるのならば朝鮮人と日本人の混血である。がきの頃悪口の代名詞に使っていた言葉が脳裏を掠めた。『ファウルで走るはいなかっぺ、それを言うのは朝鮮人』小学校の野球チームで言っていた。今考えると恐ろしい。
「意外と落ち着いていますね、最新情報をいち早く徳田さんにお知らせしたんですけどね」
「横田さん、何か勘違いしていませんか、俺の仕事はご覧の通りこの時期には麦藁帽子を被って草刈やったり、穴の開いた校庭に土を盛ったりすることですよ。雑役係なんです。生徒の家庭に口出ししたり、殺人事件に関わったりするほど人間できていません。刈っても刈ってもそのけつから湧き上がってくる雑草を余計なことを考えずに生涯刈り込むだけなんですよ。失礼します」
 非番の日に捜査状況と上からの締め付けをわざわざ俺に説明に来た横田に無性に腹が立った。俺は鎌を肩に担ぎ校庭を横切った。女子バレー部員達は俺を確認すると、かなり離れたところで、その場足踏みをしてやり過ごしている。「徳田さーん、これっグローブ・・・やっちんせんせーい」
 横田の声と生徒達のファイトの掛け声が秋風に乗った土埃と絡みあって俺の背中に纏わりついた。

 翌日俺は休みで、一昨日の夕刊と昨日の朝刊の三面記事と地方欄をくまなく探したがジョセフ神父と俺が体験した悪夢は載っていなかった。
「かあさん、トラック借りるよ」
「ああちょうどよかった、ついでに畑からトマトと茄子をもいできてください」
 おふくろの用事を先にすませようと畑に行ったが中学生のとき以来でどこからどこまでがうちの敷地なのか忘れてしまっていた。この辺りは専業農家は少なく、ほとんどが土地の税制を上手く利用したガラガラの畑で、ほったらかしても手間のあまりかからない野菜畑を家族とその親類縁者のためにだけやっている。真っ赤に熟れたトマトがぶどうのように鈴なりに垂れ下がっている。籠も袋も持ってこなかったので麦藁帽子いっぱいになる度にトラックの荷台に運んだ。いくらもいでもきりがないのでトマトは帽子十回でやめ、茄子を二回運び荷台に転がして鎌倉山に向かった。
 行き止まりに近づくと暑っ苦しい蝉の鳴き声に混じって、不快な音が耳を劈く。例の学生が海に向かってトランペットを咥えている。夢中になっているのでテリトリーに侵入した意地悪な大人に気付かないでいる。俺は苦痛に耐え車の中で彼の演奏に耳を傾けた。精神を集中して生きた音だけを拾うと、どうやらセントルイスブルースだろうという結論に達した。車を降り、ドアーを閉める音で学生は演奏を中止してこっちに振り向いた。
「続けて続けて」
 俺は学生に首を振り邪魔はしないと宣言した。
「あっそうそう、君は毎日ここで海を見下ろして演奏しているの?」
 彼が毎日ここに来てラッパを吹いているならもしかして何かを目撃したんじゃないかと思ったからだ。
「何か変わったことなかった?この二,三日のうちに」
 彼は首を横に振った。誰かが通報して警察が捜査が入っているなら、毎日来ている彼が異変に気付かぬはずはない。ということは他の誰かがさぶろーの死体とベンツをひと気のない時間に処分したとしか考えられない。県警の横田はよし乃が大きな麻薬密売組織に関わっていると言っていた。そういった組織ならそのくらい容易にこなすだろう。その方が俺にとっても都合がいい、俺が警察に行って真実を語ったとこで信じてもらえないだろう。ずっしりと肩にかかった荷がすとんと地べたに落ちたようで楽になった。
「セントルイスブルースいいよなあ」
 彼は演奏曲をわかってくれた俺に満面の笑みを浮かべ吹き続けた。ちょっとサービス過剰なぐらいに身体をスイングし始めた。
「じゃあ頑張れよ、カーネギーホールで待ってるぜ」
 歯の浮くジョークに彼は拳を突き上げて応えた。だめだこりゃ。うちに戻り荷台を見ると、見るも無残に熟れたトマトがジュースと化していた。俺は農具小屋から竹の籠を出して、比較的被害の少ないトマトと、真っ赤な飛沫を浴びた茄子を裏の流し場に運んだ。
「おまえさん、どこの畑からとってきたのこれ?」
「どっからって、うちの畑に決まってんじゃん」
「お母さんは、安男が畑に行くからって善行のおじいさんに電話しておいたの、そしたら朝から縁側に腰掛けてお前の来るのを待ってたらしいけど、来ないからどうしたんだって、今さっきおじいさんから電話がありました」
「じいさんとっから畑見えるのか?畑からはじいさんち見えなかったぞ」
「ほらみなさい、おじいさんちの前を通らなければうちの畑に出ませんよ。まったくこの子は他所の野菜をもいできてしまったんだよ」
「そんな顔するなよおふくろ、トマトなんかいくらもいだって無くなりはしないよ、気がつかねえよ」
「そういう問題じゃありません、明日行って謝ってきなさい、さもないとお父さんに言いつけますよ」
 それっきり俺は畑の持ち主に謝罪に行ってはいないが、たぶん善行のじいさんがその役を買って出たんだと思う。それから夏休み中毎日出勤して、とり憑かれように草刈に夢中になった。校長や吉川さんが休みを勧めてくれたが、朝から晩まで休むことなく草を刈って、うちに戻り酒を喰らって眠ってしまうのが心地良く、「俺は大丈夫ですから」とありがたい勧めを断わった。限界まで身体を動かし、汗をかき続けることが、辛く苦しかった体験を忘れさせてくれた。必ず日に一度はエバのこと、よし乃のこと、ドブでの対決、さぶろーのことなどが順不同に俺の脳味噌を刺激するが、その想い出す時間が日一日と僅かずつではあるが確実に短くなってきている。他の人はどうだかわからないが薄情な俺は一年もすればすっかりと忘れてしまい、再び先生と呼ばれてはいい気になって難問にちょっかい出してしまうのだろう。強い南風が校舎にぶつかりつむじ風を引き起こし校庭の乾いた土を巻き上げては消えた。どこからか飛んできたビニール袋だけがその場に取り残されて惨めに這いつくばっている。

 始業式に登校してくる生徒達の顔は、たった一夏を通過しただけで逞しくなって帰ってくる。朝礼台に登る校長は悲しい事件には直接触れずに、先輩は後輩を指導し、弱いもの、苦しんでいるものを見かけたら声をかけてあげようとあたりまえではあるが、とても難しい問題を、教育者というよりは、宗教者か哲学者のように訓えている。針金みたいに細い女の子が貧血で倒れた。体育の教師が抱きかかえて医務室に連れて行く。校長はそれを終了の合図にしたのか、訓辞は中途半端なところで打ち切られ、教室に戻ってから担任の先生に話していただくように結び付けた。
 学生達が教室に納まってから校庭のスプリンクラーを作動させた。枯れたひまわりも刈ってしまったので校庭から校長室や職員室を遮る障害物は何一つない。生徒達が校庭にいたときには気がつかなかったが校長室の下に花束と、コーラとポテトチップが捧げられていた。俺はそれを拾い上げようと校長室の前まで行ったが、生徒が帰ってからにしようと思い直した。真下から屋上を見上げると頭がくらくらして倒れそうになった。

 真上から真下を見下ろすと頭がくらくらして倒れそうになった。俺はあの事件のあとに自分で繕ったフェンスを広げてくぐり、エバが飛んだところから下を覗いた。人の背丈まで成長したひまわりが俺を誘っている。
「危ないですよ、徳田先生」
 金城が俺のシャツを、破けたフェンスから手を伸ばし引っ張った。
「ああ、大丈夫です、ありがとう。金城さん、このフェンス一枚でいいから破れたとこを取り替えてもらえないでしょうか早急に。保全協会には僕から校長に伝えて連絡していただきますから」
「はい、わかりました、早速手配してみます」
 もう校長室の前に花束もコーラもポテトチップも見当たらない。あのとき目の前でエバの最後を看取ったひまわりの子孫があの日の焼け付いた校庭を語り継いでいる。屋上の出入り口から吉川さんが呼んでいる。
「やっちん先生、佐藤さんです、もう今日三回目、なんとかしてください。受付が取り繋がないでどうすんだって怒るんですよ」
「すぐに行きます。すいませんね、階段気をつけてくださいよ、転がらないよに」
 金城が俺のジョークに嵌って身体を仰け反らせて大笑いしている。それに気付いた彼女が金城を睨みつけ、河豚のように膨張させた頬っぺたから『ポーッ』と息を吐き出した。
「ああっ、あーあっ、怒らせちゃった。俺知らないよ。工事が終わるまで毎日辛いよ、覚悟しておいた方がいいよ金城さん」
「そんなあ、何とかお願いできませんか、頼みますよ徳田先生、会社からも叱られますよ」
 泣き出しそうな目で俺に仲介の役をねだる。
「終わったな」
 俺は彼の肩を叩き出入り口に向かった。俺は受付室で書類の整理をしている吉川さんに両手を合わせ、私用電話を黙認してもらった。
「なんだようるせいなあ、ひとの職場に何度も電話する奴があるかよ、がきじゃねえんだからそのくらいわかんだろ」
「下っ端がつべこべ言ってねえで終わったらすぐにこい。藤沢におもしろい店オープンしたらしい、俺が案内するからおまえ金払え、芳恵の店で美味くねえ紅茶飲んでるから」
「おいっ、おいっ、まったく、どうも吉川先生」
 徹平はサラマリアさんと別れてからこれといった女性と付き合いをしていない。あの一件にこだわっている風でもなさそうだが自分なりにけじめがつくまで待っているのかもしれない。職業柄付き合いの幅も広く、多方面から見合いの話が飛び込み、セットされるが、半纏姿で男を見せびらかす徹平に大概の女の子は逃げてしまうらしい。
 俺は今年の四月におふくろの紹介で見合いして即決した。相手は俺と同じ年で、いつまでも独りで居ると周りがうるさいのと、実家が近く、いつでも帰れる安堵感がその理由らしい。俺は、見た目からして身体が丈夫そうなのと、高齢で妊娠出産の可能性が低いのと、なにはともあれ親父が二階にトイレを作ってくれるのが嬉しかった。しかし現実には下のトイレは今まで通りおふくろ、二階のトイレを新しい同居人に占領されるとは考えてもみなかった。
「美恵子か、俺だ、今日ちょっと遅くなる」
「何か急用ですか?」
「うん徹平がどうしても相談に乗って欲しいことがあるらしい。真っ直ぐ帰りたいが親友が困っているのを見過ごすわけにはいかないからなあ」
「徹平さんが?相談?食事は?」
「なんか用意しておいてくれる」
「はい、気をつけて」
 美恵子は俺よりもおやじと馬が合うらしい。やはりいつだったか飲んで遅く帰った晩に台所で仲むつましくテレビを見ながら二人で飲んでいる場面に出くわした。おやじは俺の姿を見るや、そそくさと寝室に引き上げたが美恵子は落ち着いたもので、『お帰りなさい』と愛想なく言って流しで洗い物を始めた。最近おふくろは、おやじがどこにも連れて行かないので町内の婦人会でちょくちょく一泊旅行に興じている。まあいいや、多少歪んでいようと家庭円満ならそれでいいことにしよう。ちゃりんこに跨り、校門から出て急勾配の坂をノーブレーキで下る。クラブが終わり、道幅一杯に広がり下校する子供達に脇に避けるようにわざとらしいブレーキの音を二回鳴らした。生徒達が面倒臭そうに左右に割れた。再びノーブレーキで道路の真ん中を下る。頭を下げ風の抵抗を低くして熱風の中を突き進む。俺のすぐ後ろに四駆のばかでかいのがぴったりとくっついた。

 了
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