やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 20

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目刺を箸で三等分して茶碗に盛られた飯を三回で放り込んだ。二杯目はキャベツの味噌汁に生卵を落とし、それを飯にぶっかけかき込んだ。食事時間二分。「きったない」
 おふくろの吐き捨てを気にせず、二階に駆け上がった。出張中の弟の部屋に入り箪笥を開けると祭半纏の下に深緑色のコールテンのズボンが半分に折られて入っていた。俺が十年前にあげたやつだ。俺が伸びたのかズボンが縮んだのか裾はくるぶしを曝け出した。少し下げてみたが足が短く見えるので元の臍の高さまで持ち上げた。
 翌朝便所へ行くと案の定お袋のスリッパが並べてあるので諦めてうちを出た。カラッコロッと便所下駄が朝から焼け付いたアスファルトを蹴った。学校に行けば作業用のスニーカーがある、踵は減っているがこの下駄よりは断然ましだ。雄二んちの縁側を除くとばあちゃんが洗濯物を干していた。
「雄二はばあちゃん?」
「あれやっちん、今日は試合があるからと早く出て行きおったわ、晩におまえんとこに顔出すからと言っとった。相談に乗ってやってくれ」
「ああわかった、ばあちゃんは心配しねえで俺に任せておけ。ところでそれは雄二の洗濯物か?」
「ああっ、田んぼに落ちたと言っとったが臭えの臭くねえのってありゃあしねえ。三回も洗濯機かけてやっと臭いがしなくなったわ。おめえ糞だんべ、遠慮せずにやってけ」
 週に一度はこの便所を借りる。汲み取り式には抵抗はないが狭くて頭が前の壁にぶつかる、かといって状態を後ろに反らすと倒れそうになってしまう。雄二も毎朝苦労しているに違いない。この秋には下水も整備され借家の便所も水洗にするとおやじは言っていたが、ついでに一回り大きくするよう進言しておこう。
 クラブ活動に通う子供達を何人か追い越したが朝から暑いせいか「おはようございます」にも元気がない。
「ほらっ元気ねえぞっ、飯食ってきたのかっ」
 サッカー部の生徒に気合をかけたら下駄がサドルから滑って顎をハンドルにぶつけてしまった。こいつらは見逃さない、ひとがドジ踏むのは徹底的に大笑いする。暫くは会う度に顎の心配するふりをして舌を出しているに決まってる。しょうがねえ、俺達もそうだった。しかし下駄で自転車は漕ぎづらい、仕事が終わったらジーパンを買いに行くついでに靴も買っておこう、おふくろもそのつもりで十万も出してくれたんだろう。
 グラウンドではサッカーゴールの前で、一年生のサッカー部員数人がシュートの練習をしている。先輩達がくるとボールを触らせてもらえないから鬼の居ぬ間になんとやらで頻りにシュートばかり打っている。体育館の外壁塗装工事を夏休み中に終わらせるために工事関係者が大勢いた。彼等は山裾の擁壁沿いに一列になって腰を下ろしている。その直線部分だけが校庭の日陰になっているからだ。仕事前の一服といったとこだろうが校庭での喫煙は禁じられている。しかし休憩所兼喫煙所として設置した六畳一間ほどのエアコンも設備していないプレハブの中にいられるわけがない。学校も元受の建設会社も、それくらいわからないのだろうか、もう少し気の利いた場所と設備を職人達に提供してやればいいのに、あれじゃいい仕事は出来そうもない。しかし規則は守ってもらわなくては俺が怒られる、でもまあ見逃してやろう、吸殻の投げ捨てだけはしないように俺から直接職人達に指示しておこう。監督にいうと職人達がこっぴどく叱られる。がきじゃあるまいしタバコを吸って叱られたのではあまりにもかわいそうだ。もし監督が職人を苛めているのをみたら会社に連絡して取り替えさせよう。それとも斧で頭かち割ってやろうか、いけないいけない、人を傷つけることにだんだんマヒしてしまったようだ。
 校舎沿いを歩いてエバの逝ったところへ行くと、萎れた花束と菓子が置かれてあった。菓子はポテトチップとアーモンドチョコレートで、それが彼女の好物なのかどうかは俺も知らない。たぶん仲良しのクラスメートだと思う、お互いが行き来をしていないと菓子の好物までは知り得ないだろう。
「やっちん先生、おはようございます。今日は当番ですか?」
 校長室の窓からは萎れた花と菓子袋が真下に確認できる。毎日目にする校長が最後まで辛い事件を忘れられない。
「おはようございます。ええ、たいした仕事も無いんですけど花壇の草刈でもしておこうと思いまして。校長は何かお約束でも?」
「いえいえ、これといって用事があるのではありませんが四十九日は喪に服すと決めました。山田エバマリアさんはクリスチャンだと聞きました、私はそちらの知識はからっきしなのですが、少しでもこの場にいて彼女の冥福を祈ろうと思いましてね。それにうちにいても孫達が騒がしいのでここで読書三昧と贅沢をしています。でも正直悔やまれますねえ、事件の前の四十九日間をあの子に捧げたかった」
 俺は返す言葉に詰まってしまい、一礼して階段の下の道具小屋にゴロンと寝そべった。アーモンドチョコレートはおそらくドロドロに溶けてアーモンドが剥き出しになっているだろうと思い、冷蔵庫に入れた。中川先生と一杯やるために冷やしておいたビールがぎっしり詰まっている。古い冷蔵庫なので容量が多いとモーターのフル回転の音が廊下まで聞こえる。ビールを一本出して煽った。ポテトチップをつまみに午前中はここで飲んだくれてやろう。校長の寂しそうな声で草刈をやる気が失せてしまった。
「おおいやっちん、俺だ、ここにいるんだろう、開けろよ」
「でっかい声だすんじゃねえよ、誰か先生にあったか?」
「先生なんかいるのかこの学校に、学校関係者どもには会わなかったが、テニス部の女の子がここにおめえが入るの見たって言ってたから、おっ予想通りだ、この税金泥棒」
「教育に携わっている者にはなあ、一般市民には理解できない難しい問題を抱えているんだよ。たまには篭って自問自答するのも大切なんだ。おまえには到底わからねえだろうけどなあ」
「おめえの仕事は草刈本業じゃねえか、何が教育者だ。多少あたまなんか悪くたってしっかりと卒業させるのが学校関係者の務めじゃないのか、まあおめえと議論しても面白くねえがなあ、校長か教頭いねえのか?」
 徹平の理屈は公務員にはずしりとくる。
「飲むか?」
 俺は降参してビールをすすめた。徹平は袋からポテトチップを一掴みしてビールを飲みだした。
「サラさんは?サラさんはどうだ?」
 徹平はポテトチップをもう一掴みし、顎でビールを催促した。
「お腹の子に異状がなかったのが幸いだがあいつは相当参っているよ。あの神父と俺で交代で付添うことにした。見張っていねえと娘のとこへ逝っちまうんじゃねえかと心配でなあ、二十四時間体制で監視だ」
 黄色い笑い声が小屋の前を通り過ぎた。テニス部女子生徒の一団だろう、部室兼更衣室に使っている三年四組の教室が階段室の隣にある。
「あの神父も大変だ、親まで殺すわけにはいかねえしなあ、ちょっと目を離した隙にあの地獄だ、片時もサラから離れずにこれから暫くはガードしねえとな。夜は俺が泊まって、サラが寝息立てるまで眠るわけにはいかねえだろう、コーヒーの濃いやつ飲んで眠気と戦っている。教会まで送った帰りだよ今は」「おまえ寝ていないのか?運転気をつけろよ」
「なんだ?俺が事故でも起こしたら職失うってか、心配すんな、この小屋のことも、おめえが宍戸梅軒の弟子だってこともチクったりしねえから。でも一体学校で何やってんだおめえは、あれはどうみたって素人の成せる技じゃあねえぞ。時代が時代なら二刀流の旦那と勝負させてえよ。俺が立て札立てて、号外配ってよ、巌流も真っ青だ」
 徹平は俺が鎌を投擲したのをしっかりと見ていた。肩口に喰い込んだ鎌に手応えは充分あったが山田は立ち上がり俺に襲い掛かってきた。傷は浅かったのかもしれない。
「裏山に下草刈に行くときあの鎌とその斧持っていって遊んでいるんだ。今度おまえも行くか、数学の先公が夢中になってよく俺を誘いにくるよ」
「いいよ俺は、仕事人になるのはいいが気をつけろよやっちん、おめえに何かあったらおふくろ痩せるぞ、激痩せして今持ってる服は無駄になっちまうぞ、でもカーテンぐらいには使えるかもしれねえな」
 もし山田がサバイバルナイフを振り下ろしたときに横田が威嚇射撃をしてくれなければ俺はくたばっていただろう。一命は取り留めても徹平以上の傷を負わされていたに違いない。
「そう簡単に仕事人は動かねえよ、千両箱でも積まれりゃあ別だがな。なあ徹平、ほんとのところを聞かせてくれ、おまえ本気でサラさんと所帯持つんだな?」
 アルコールが脳をほぐしてくれたせいか素直に聞けた。徹平はここへ愚痴をこぼしに来たのかもしれない。愚痴はこぼさなければ蓄積される。そしていつまでも悪臭を放ち腐っていき、崩れ落ちてしまう。俺も徹平も愚痴をこぼせる相手はそういない。徹平には俺しかいないと思うし、俺も徹平とジョセフ神父ぐらいだろう。
「俺はよう、おめえと違ってチビだし学もねえ、親にも褒められるほど口先だけは達者だがよ、嘘だけはつきたくないんだ。冗談半分で言っちまったことも、相手が信用してくれていたらそれに応えてやろうって考えてる。はっきり言ってサラを死ぬほど愛しているなんてそんなんじゃないんだ。そもそも二月足らずでそこまで好きになれるか人間が。確かに一目惚れから始まって、事件に巻き込まれて、おめえみてえに強くねえから腹刺されて死に損なったときもあいつは献身的に尽くしてくれたよ。でも、だからって、よしこいつと所帯を持とうと決めたんじゃねえんだ。店の帰りに、一発やりてえから『結婚どうですか?』ってからかった言葉をサラの野郎信じやがって、『ニネン、マツデキル』『ああ、待つよ、何年でも待ちます。それが僕の運命だから』なんて調子よく言っちまったのがほんとのとこよ。未熟者だがとりあえず男を売って生きてる俺だ、弱いもんに、それも外国から働きに来ている女に、死んだって騙されたなんて思われたくないんだ。だから責任を取るつもりであいつと所帯を持つ。曖昧な気持ちからスタートしたって生涯かけてサラを幸せにする。バカか俺は?」
 アルコールが潤滑油になって徹平は流れるようにまくし立てた。お調子もんの口達者だがさすが血筋はよく、一本と通った信念に揺るぎは無い。
「おまえは偉いよ、言ったことに責任を持つっていうのは当たり前のことなんだけど容易じゃない。さすが鎌倉八幡様の頭だ、よっ佐藤組五代目」
「公務員が煽てんじゃねえよ、言っとくが俺はなあ、油まみれで埃まみれの汗まみれな労働者諸君が納めた税金を無駄遣いしている奴等を見ると無性に腹が立つんだ。うちもおじいさんの代までは僅かだが公共事業に入札していた、でもな、その無駄な工事に愛想が尽きて、威張り腐った若い役所の監督をぶん殴って撤退した。『鎌倉彫』を『鎌倉堀』とバカにされるほど無駄な穴掘りが多い。一回で済むとこを何回もほじくり返したり、傷んでもいないアスファルトひっくり返したりしていて、おじいさんは申し訳ないと感じたらしい。そりゃ組合からは干されるし相当困ったらしい、若い衆の仕事もなく、十五人からいたのに他の組に移ったり、故郷に帰ったりと、そりゃあ食っていけないから当然のことなんだけどな。でもじいさんは残った若い衆を財産投げ打って養ったんだ。商店街のドブ掃除させたり、参道のぬかるみに砂利撒いたり、浜のゴミ拾いさせたりして自費で若い衆の面倒を看てきた。しかし蓄えがいつまでも続くわけねえ、じいさんはもうだめだ、このままでは自分はどうなろうと真っ当な若者達までだめにしてしまう、三代続いた佐藤組だが解散しようとみんなを集めてそう話した。そしたらな、残った七人の若い衆が、『頭、俺達にどこへ行けっていうんですか、誰も相手にしてくれない不良だった俺達を引き取ってくれて、飯食わせてくれて、ひとに迷惑かけたらほんとの親みてえにぶん殴って訓えてくれたじゃないですか。頭、俺達は親子じゃないんですか?新聞配達でも板前見習いでもなんでもやって食い扶持稼いできます。子供が親の面倒看ても可笑しかないでしょう。頭、お願いします。そうさせてください』じいさん仏壇の前で涙堪えて組解散の失言をご先祖様に詫びて、いい若い衆に恵まれたことを八幡様に感謝したんだ。そんなどたばたしているときに、商店街から仕事の話が入った。世の中捨てたもんじゃねえ、ちゃんと見ていてくれるひとはいるんだなあ、商店街の工事はすべて佐藤組に発注すると商店街組合で決定したから早速てがけてくれないかとのことだった。お寺や神社からも参道の整備やお堂の修復なんかも飛び込んできた、浜の掃除をしていたからだろう、海の家の建設をうちでやってくれないかと出店する会社から依頼されたりと、じいさんがやってきたことが報われたんだ。地域に密着した、鳶職本来の住民の為の雑用を心がけてきたじいさんのおかげで佐藤組は首の皮一枚で繋がったんだ。どうだ浪花節みてえな話だろう。想いだしても鳥肌が弾けてきそうだ。じいさんの葬式にそんときの若い衆から聞いた。まだ五人残っていて、毎日苛められてるよ俺は」
「ああいいじいさんだった。おまえと悪さしたときケツが真っ赤になるまで張られたのを覚えている」
 いつのまにか目の前に空缶が八本転がっていた。サッカー部の連中が大声をあげて昇降口で喋っている。練習が終わった明るい笑い声が小屋の中まで響く。
「うるせいやつらだ、さあて現場に寄ってから帰って寝よう。夕方には教会まで女房迎えに行かなきゃならねえし。それとなやっちん、あの子に礼言っといてくれ、野球部のエースによ」
「今晩うちにくるから伝えておく、あっそうだ、明後日警察に呼ばれているが、おまえにも来てくれって言ってたぞ、どうする?」
「用があるならそっちから来いって言っとけ、暫くはサラのとこにいるから夜ならいつでもいいって」
「ああ、そう言っとく、なるべく俺ひとりで済むようにしておくよ」
「じゃあ帰るぞ、なんかあったら電話する」
 ドアを乱暴に閉めて徹平は出て行きました。ぺたぺたと廊下を叩く雪駄の音が遠のいていきます。
「こらっ、てめえらうるせいんだよ、声ばっかりでかくたって試合には勝てねえぞ」
 徹平の一喝で昇降口は静かになった。しかしそれはほんの一瞬の間で、徹平が軽トラックで校門をあとにするとすぐにやかましい空間に戻った。
「こらっ、てめえらうるせいぞ、声ばっかりでかくたって試合に勝てねえぞ」 
 生徒の一人が徹平の口まねをし、みんな爆笑している。扇風機だけではじっとりと汗ばんでくる。纏わりついて気持ち悪いTシャツを脱いで、冷凍庫から取り出したアイス枕を包んで横になった。伸ばした足に空き缶が邪魔になる。それを蹴散らすと欠けた風鈴のようにシャカシャカと音を立てて転がった。


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