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キャバレー ピンクヘルパー終

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駒子所長を部屋まで送り床に就かせた。ひどく疲れているようだった。毛布を被せるとすぐに寝息を立てた。正常な自分と異常な自分、一人二役を演じる病で疲労困憊に違いない。駒子所長のお尻から便臭がしたが僕はおむつを取り替えることが出来なかった。それは駒子所長につらい思いをさせたくなかったからだ。それが正しいか間違いか分からない。でもヘルパー失格である。自室に戻ると僕の布団に誰かいる。米子さんはもう今野さんの軽トラで駅まで行っているはずである。駒子所長の付き添いで見送ることで出来なかった。米子さんじゃないことは間違いない。とすれば薫子さんしかいない。今日もノーパンで僕を誘っていた。僕は興奮していた、このホームで唯一女性対象の薫子さんが僕の布団にいると思うだけで漲ってきた。そっと布団を捲り滑り込む。肩を抱いた。寝返りを打ったのは米子さんだった。
「よ、米子さん、どうしたんですか?終電で気仙沼に戻るんじゃなかったの」
「博君に別れが言いたくて、明日の始発にしたのよベイビー」
 僕の上に覆い被さった。目を瞑り好きなアイドルの顔を浮かべた。アイドルと上手く重なった。
「聖子っ」
「誰それ?」
「♪風たちぬ~ 今は秋~」
 米子さんの声を打ち消すために歌った。
「いぐ~」
 イクときは福島訛だった。

  ホーム『桃色 黄昏』に来て半年が過ぎた。さすがにいわきの冬は寒い。福島県で冬を過ごすのは初めてだがやはり横浜とは寒さのレベルが違った。二月の末に姉から電話があった。
「おめでとう」
 僕の誕生日は六月でその意味が分からない。
「何が?」
「あたしの記録を抜いたからさ」
 姉は半年でヘルパーを辞めた。そう言えば僕も今月で六ケ月になる。
「そうか、姉さんのヘルパー歴を抜いたお祝いね、ありがとう」
「さすが弟、頑張ったな」
「どう姉さんは?」
「いいオヤジと付き合ってる」
「そっちの方がおめでたいじゃない。それでゴールインとか?」
「それはないな」
 姉のトーンが下がった。次の言葉が出なかった。
「お前さあ、建築の夢は諦めたのか?」
「いや、そりゃ建築に携わりたい、まだ一級の夢を忘れてはいないよ、どうして?」
「そのオヤジがさ、大手ゼネコンの営業部長なんだ。社員の一人や二人どうにでもなる。先ずは派遣で入り一現場我慢してから引き抜いて社員にしてくれるそうだ」
「お願いします。俺もう一度建築で頑張りたい。でもすごいね姉さん、そんな大手のゼネコンの部長を吊り上げるなんて」
「当たぼうよ、今度の鯛は大きいぞ」
 僕は二週間後に退所することに決めました。ただ駒子所長に言うのが辛い。と言うより、駒子所長の病状は進行して、別人になる時間が増えていました。ヘルパー長の恵子さんが引き継ぐとヘルパー全員が思っていましたが、残念ながら去年恵子さんは一級に合格することが出来ませんでした。一緒に受けた薫子さんだけがその資格を有しています。ただ薫子さんは他のヘルパーさん達とあまり交流がないようです。多くのヘルパーさんが東北出身ですが薫子さんだけは九州生まれだと噂が流れていましたが定かじゃありません。生まれた地が違うのは何等問題になることはありませんが、やはり同郷の意識と言う文化が馴染めないでいるかもしれません。言葉尻の訛が仲間意識を誘うようです。安心して仲間に溶け込める、薫子さんにとってはそこに飛び込めないでいるような気がします。僕も一番の相談相手で深い関係にもあった米子さんが昨年引退してからはもっぱら相談は駒子所長に頼っていました。その駒子所長自信の体調が不安です。所長室に行くと駒子所長はグラウンドを見ていました。これで振りむいた時に「どちら様ですか?」「ああ博君どうしたの?」このどちらかでその日の体調が分かります。振り向いた。
「ああ?」
 まずい、新手の表現かもしれない。
「どうしたの博君?」
 よかった、期待した方に転んだ。
「折り入って相談があります」
「なーに改まって」
「実は退所のお願いに参りました」
 理由より先に結果をぶつけた。駒子所長は一瞬固まった。しかしすぐに笑顔に戻った。
「そう、良かったわね。それで何時?」
「二週間後の三月十日です」
「そう、それじ明後日のキャバレーはお別れ会も兼ねましょう。下に行ったら薫子先生を呼んでくれない」
 何だか物足りなかった。勝手に二週間後の退所願いを出しといて物足りないはないけど、強引に引き留められると予想していただけに逆に自分が不甲斐ない。理由も聞かずに用足しを言い付けられた。さすが駒子所長は一級だってか。何か身体の力が抜けてしまった。
「おらおらおらおらおら~」
 ぼーっとしていて轢かれそうになった。
「薫子さん、駒子所長がお呼びです。それと、僕二週間後に退所します」
「えっ?」
 泣き縋られるかもしれない。
「そう、それは良かったわね」
「おらおらおらおらおら~」
 折り返しを忘れていた。間一髪だった。グラウンドに出ると加藤さんがいた。
「今度のレースだがね、行けそうだ」
 背中越しに僕の気配を察する加藤さんはもう仙人に近い。僕が入所してから五連敗の暴走車椅子レースの作戦を練っていた。
「もうキャバレーまで二日しかありませんよ」
「二宮の弱点を握った」
「何ですかそれ?」
「あいつは虫が嫌いなんだ、畑で収穫した里芋を入れた籠の中にムカデがいたんだ。大騒ぎして逃げおったわい。恐らく高田はその弱点を握っているんだ」
「でもどうやって?」
「レースの途中、消火器の手前でムカデを二宮の手に落とす」
 加藤さんは凄いことを考えていた。そしてそのムカデを捕まえるのは僕で二宮さんの手に投げるのも僕の役目になった。加藤さんは頭脳労働で僕が肉体労働を担う。
「加藤さん、僕は三月の十日でこのホームを退所することになりました」
「なんだと?」
 今日挨拶した人達の中で加藤さんが初めて悲しい顔をしてくれた。
「建築の会社に就職が決まりそうです。僕の夢は一級建築士になることなんです。その夢の入り口が二週間後に迫っています。それで急なんですが退所させていただきます」
 退所の理由まで伝えらえたのは加藤さんだけだった。
「一級建築士ね、一級ヘルパーじゃないわけだ。まあ仕方ないさ、やっぱり君も腰掛けだったんだな介護は。そりゃそうだよね、安い手間で汚い仕事なんて目指す若者はいないさ。駒子所長がよく言う患者は家族、ヘルパーは友人、そんなの無茶だよな、患者は汚物、ヘルパーは赤の他人が現実だもんな。まあ頑張りなさい」
 僕は加藤さんが例えたように思ったことは一度もない。そりゃ辛いけど我慢出来る。それに駒子所長の話はそれで終わりじゃない。自分の親は自分で面倒看ると言う当たり前の習慣が消えてしまったこの国。だからお金をいただいて自分の家族の代わりに介護すると続く。だけど僕は加藤さんに反論出来る立場にない。介護職がこの不景気時の一時の腰掛け的存在であることは間違いなかったからである。
 そして僕にとって最後のキャバレーの日が来た。畑で捕まえた大きなムカデを二匹塩辛の瓶に入れている。
「さあ、恒例、キャバレーの日の楽しみのひとつ暴走車椅子レースの開催です。高田二宮チームが五連勝と圧倒的な強さを誇っています。加藤さんの相棒の博君は最後となるこのレースで一矢報えるかどうか、賭けは相変わらず8対2です」
 恵子ヘルパー長がアナウンスをした。
「♪ムカデは元気か、友達出来たか、今度いつ帰る?」
 加藤さんは替え歌で機嫌がいい。
「はい、でもこんな大きなムカデだと噛み付かれたら大変ですね」
「同情は禁物だ、高田の高笑いを想い出せ」
 確かに高田さんの『か』で終わる笑い声にどれだけ悔しい思いをしたか分からない。
「さあ、それではレースの開催です。位置について よーい ドン」
 練習の成果もあり好スタート、一歩前に出た。
「おらおらおらおらおら~」
 二宮さんが加速する。赤い消火器がもう間近。
「今だ」
 加藤さんの合図に塩辛の瓶の蓋を開けて二宮さんの足元に振った。ムカデは二宮さんの足の甲に落ちた。
「ぐわっ~」
 この世の終わりが来たかと思うような断末魔の叫び。二宮さんは車椅子から手を離しスタート地点に全速力で走る。危険を感じたみんなはキャバレーに飛び込む。
「二宮に何をした」
 廊下の中央で停まった高田さんが擦れ違う加藤さんを睨んだ。
「停まれ」
 僕達は壁タッチをクリアしてゴール目指していたが加藤さんが高田さんの隣に停めるよう言った。
「何をしたかって?ぐわっぐわっぐわっかかか」
 加藤さんは高田さんの十八番を真似た。ゆっくりと押すよう指示された。ゴールするまでずっと加藤さんの『か』で終わる高笑いが響いた。
「なんか可哀そうですね」
「そんなことはない、これで安心して廊下が歩ける。今まで外に出れなかった連中も安心して車椅子を押せる。博君、最後にいい仕事をしたな、ぐわっぐわっぐわっかかか」
 確かにその通りであるが高田さんの落ち込みようを見ると同情したくなる。キャバレーに戻ると薫子さんが隈取の化粧をして『思い出ぼろぼろ』を熱唱していた。僕と目が合った。ウインクしてくれた。歌いながら一回転するとノーパンの卑猥な尻が堪らない。もう米子さんはいない。今宵薫子さんとベッドイン。還暦近い薫子さんだがこのホームで僕が感じるただ一人の女性である。膨らみかけた下半身を落ち着かせるために寒風吹きすさぶグラウンドに出た。
「大変だ、駒子所長が門も乗り越えて出て行った」
 僕に走り寄って来たのは今野さんです。
「どうしたんですか、早く追わないと」
「足を挫いてしまった」
 今野さんは足を引き摺っていた。僕は門扉を乗り越えた。石の地蔵前の轍を走る。星明りに猪の親子が左側の轍を歩いていた。瀬戸物の地蔵の前に駒子所長がいた。
「あたし仕事、どっち?」
 瀬戸物の地蔵の頭を撫ぜながら尋ねていた。
「ねえ、どっち、仕事よ仕事」
「駒子所長」 
 僕は後ろから羽交い絞めにした。
「何よ、仕事行くのよ」
「駒子所長、駒子所長、お地蔵さん、どうか駒子所長を治してあげてください」
 僕はもがく駒子所長を離さなかった。胸の膨らみを掴んだ。
「博君、どうしたの?こんなとこに連れて来て私をどうしようと言うの」
 駒子所長に戻った。
「駒子所長、戻りましょうかキャバレーに」
「戻るってこのままで、私感じてるのよ、博君があんなに荒々しく私の胸を揉むもんだから。いいわ、欲しいのね、今宵キャバレーは博君の退所祝い。いいわよそのまま好きにして」
 後ろから抱えたままである。僕はどうすればいいのか分からなくなってしまった。何もせずにキャバレーに連れて戻るべきかそれとも肉体関係に陥るべきか。考えていると駒子所長は紙おむつを膝まで下げた。僕もズボンを下げた。お尻に寒風吹きすさぶ。駒子所長が下から手を伸ばした。
「お元気ですね、私も元気です」
 僕はおもいきり突いた。何がどうなっているのか分からない。駒子所長は瀬戸物のお地蔵さんに抱き付いている。「ブヒー」と泣き声が聞こえた。恐らく左の轍を猪の親子が通り過ぎたのだろう。
「石のお地蔵さ~ん」
 駒子所長が頂点に達したようだ。
「それは瀬戸物で~す」
 僕も果てた。後ろからライトが近付いて来る。
「だいじょぶか」 
 今野さんだった」
 恥ずかしいスタイルのままである。
「今野さんごめんなさい、私約束破ってしまったわ。博君の悶々を治めてあげたかったの。次のキャバレーには倍にして返すわ」
 駒子所長は余韻に浸りながら言った。
「いいえ、とんでもない、駒子所長は一級ですから」
 僕と駒子所長は軽トラの荷台に乗ってホームに戻った。今野さんは左の轍にいる猪を轢き殺した。それを二台の後方に投げ入れた。
「明日は猪鍋だっちゃ」
 満面の笑みで肩を震わせた。

 キャバレーに戻るとチークタイムのラストソングだった。
「お熱い二人がお帰りよ」
 恵子ヘルパー長が僕等を囃した。駒子所長は満更でもない。
「あたしの彼氏、でも二週間でお別れ」
 駒子所長がみんなに案内してくれた。お世話になったヘルパーさんが拍手をしてくれた。勉強させてくれた患者さん達は笑ってくれた。僕にとって最後のキャバレーピンクヘルパーは終わった。僕はシャワーを浴びた。そして部屋に戻ると布団に誰かいる。薫子さんだと思っていた。キャバレーの度に僕を挑発している。布団に入る。
「かおる・・・米子さん、どうしたの?」
「やっぱりこのホームが私の居場所」
 米子さんが寂しそうに言った。
「気仙沼で何かあったんですか?」
「何も聞かないで。抱いてダーリン」
 最後まで僕は薫子さんと一夜を共にすることは出来なかった。来年還暦の米子さんとは十二回抱き合った。その都度好きなアイドルを想い浮かべていた。

 朝一番に今野さんにいわき駅まで送ってもらう。
「いいのかい、みんなに挨拶しないで」
「ええ、毎日伝えてますから、改まって挨拶すれば逆にみんなに気を遣わせてしまうから」
「博君はやさしくなったな」
 軽トラはい石の地蔵さんの前を通過して瀬戸物の地蔵さんの前を左折した。ここに来た時は轍以外は青い草が伸びていたが今は全部枯れて霜柱が立っている。
「この農道も雪が降ると大変ですね」
「ああ、積もればホームから出られない」
 いわき駅で降りた。
「そいじゃ元気でな」
「今野さんも。ありがとうございました」
 手を握ると涙が溢れた。
「人生いろいろ、いい経験だべ」 
 今野さんに慰められて列車に乗った。

「ただいま」
「おう弟、よく帰った」
 姉は喜んでくれた。夕方姉のパトロンを紹介してもらった。真面目な人で安心した。明後日その人が直接作業所に僕を案内してくれることで話がついた。
「姉さん、ありがとう、一級目指すよ。あの人いい人だね」
「当たり前だあたいの目に狂いはない」
 いい人でも所帯持ちである。姉さんが結婚することは出来ない。もし姉さんがあの人と結婚して幸せになればあの人の家族が不幸になる。幸せが移動しただけである。差し引きすると幸せはマイナスになる。

 大きな揺れを感じた。姉さんは熟睡している。僕は建築士一級の受験勉強をしていた。
「なんだこりゃ」
 姉さんが飛び起きて来た。これまで経験したことのない揺れである。食器棚は倒れないが食器棚の中は崩れていた。冷蔵庫が動いていた。机の花瓶が倒れて本が水浸しになった。テレビを付けると大変なことになっていた。
「東北だ」
 僕はホームのことが気になった。姉は山形の親戚に電話をしたが繋がらない。夜になりやっと被害状況が少しずつ明らかになり出した。一夜明け山形の親戚にも連絡が付いた。東北の太平洋側は壊滅的な被害を受けていた。原発も剥き出しになって白い煙が上がっている。被災地の人々は我が家、我が町を捨てて見知らぬ土地に移動している。いわきのホーム『桃色 黄昏』は被害を受けていないだろうか不安だった。電話して「助けて」と縋られたらどうする。戻らない自分が電話してもただの冷やかしにしかならない。それからしばらく計画停電が始まった。姉は寝るのにちょうどいいと歓迎していた。

 ホームを辞めて半年が経った。僕は現場監督をしながら勉強をした。一級建築士になる夢に向けて努力していたが、それでいいのかとテレビを観る度にぼやけた思いが湧いていた。ぼやけた先は何だかわからない。日本国民が津波の恐ろしさを知った。そして原発の脆さを目の当たりにした。報道や映画で観た悪夢のような出来事が実際に日本で起きている。政治家も専門家も何をしていいのか分からず頭を抱えている。造ることは出来ても壊すことが出来ない。永久に生存する物体はない、いつか崩れる。それを考えずに建ててしまったことが推進した人達の責任である。
「博、頑張り過ぎるなよ」
 姉がコーヒーを入れてくれた」
「どうなるんだろうねえこれから?」
 姉もこの国に不安だった。船頭のいない船のように行先を見失っている。
「姉さん、姉さんこそどうするの?あの人とは一緒になれないんでしょ?」
「お前が心配すんな。一級取っていい嫁さんもらえ」
 姉は自室に戻った。原発近くのホームも放射能で汚染され、患者さんはばらばらに各地に移動しているとテレビ報道が教えてくれる。身寄りがいればいい、いない人はどうなるのだろうか。『桃色 黄昏』にも身寄りのない患者さんが大勢入所したに違いない。てんてこ舞いだろう。僕は思い切って電話をした。
「すいませんが運転手さんの今野さんはいるでしょうか」
 電話口に出たのは薫子さんだった。
「あら、博君元気そうね、ちょっと待ってね」
 薫子さんは変わらずクールだった。
「もしもし、どうした博君?」
「どうですかホームは?」
「どうもこうもないさ、忙しくなっただけで何も変わらない」
「キャバレーピンクヘルパーは相変わらず賑やかですか?」
「キャバレーは三月から中止になってる。もう半年も開催されていない。そのうち落ち着いたら始めるさ。何たって薫子所長は一級だからさ」
「駒子所長はどうしていますか、お元気ですか?」
「駒子さんは今一階にいる。何もかも忘れたようだ。遺言通りこのホームの患者さんになった」
「遺言て?」
「私が一日のうちに50%以上変身したらこのホームの患者にして欲しいと書き残してた。金も十分貯金していたよ。まあ思い通りになったんじゃないかな」
 僕は受話器を握りしめ悔し涙が溢れた。
「博君、あんまり気にせず自分の道を進んだらいいべ。何も誰がいいとか悪いとかの問題じゃねえし。それじゃ電話切るよ。俺も他人の尻拭きを手伝っている。でっかいのがいるから女じゃ大変だ。元気でな」
 労いの声も掛けられなかった。僕は机に並ぶ建築のドリルを本棚に戻した。そして介護ヘルパー二級の講習で使用した教本をバッグに詰めた。
「姉さん、起きてる、話があるんだ」
 姉は寝ていないようだった。この国の不安が自分自身の不安を煽っているのかもしれない。
「どうした博、難しい顔して」
「姉さん、姉さんのあの大きなバッグを貸してくれないかな」
「旅行でも行くのか。それもいいさ、一旦日本を離れて考えるのいいかもしれない。あの人にはあたしから伝えておくから心配するな。お前はまだ二十代、いくらでもやり直せるさ。そうだ、ちょっと待て」
 姉は銀行のカードを持って来た。
「お前が送金した家賃半分は貯金しておいた」
 六か月分の二十四万円が入っていた。
「それとこれ。お前があたしの記録を抜いたお祝い」
 姉は茶封筒を差し出した。現金だった。
「それで何処に行くんだ、アメリカか、ヨーロッパか」
 僕は首を振った。
「中国か、尊敬する玄奘三蔵の軌跡でも追うのか」
 姉は僕が外国旅行に行くものと考えているようだった。
「姉さん、いわきに行く」
「いわきってお前」
 姉は驚いていた。
「黙って見ていられない。大したこと出来ないけどじっとしていられないんだ。一級建築士の夢を諦めたわけじゃないけど。たった半年だけど携わった、僕に色々教えてくれたホームで汗をかいて動いていたい」
 二人はしばらく沈黙した。僕は支度に掛かった。これから行けば夕方にはいわきに着く。姉は自室から出て来なかった。僕はドアを開けた。
「姉さん、行ってくる。ありがとう」
 返事はない。エレベーターを待っていると姉がネグリジェのまま駆け付けた。
「それでこそあたしの弟だ。みんな何かしたいと考えてる。動くか動かないかその違いだけだ。お前が動いてくれた。姉さん嬉しい。こうなりゃ一級は一級でもヘルパー一級を目指せ。フレッー フレッー お と う と」
 エレベータのドアが閉まった。一階で降りると『ふれっふれっ浩史~』と姉の声が背中を押した。
 岩城からバスに乗る。終点の行き止まりで降りた。『桃色 黄昏』とホームへの矢印がある。農道の轍を歩く。しばらく行くと瀬戸物のお地蔵さんがある。立ち止まり手を合わせた。駒子所長とエッチしたのを想い出した。右折して十分すると本物のお地蔵さんが笑っている。電話しようか門扉を乗り越えようか迷った。バッグを投げ入れた。門扉を跨ぐと歌が聞こえる。そう言えば今日は八月最後の日曜日。キャバレーピンクヘルパーの日である。三月から中止していると今野さんが言っていたが再開したのかもしれない。さすが薫子所長は一級だった。里芋畑の中から声が聞こえる。女の喘ぎ声。
「恵子ヘルパー長、静かにして。誰かいる」
 今野さんの声はよく通る。しっかり聞こえた。
「畑で声がしたけど気のせいだ。損した、キャバレーに戻ろうっと」
 僕が気付いていないふりをした。
「ばかたれが、気付かずに戻った。恵子ヘルパー長、もういいよ声出しても」
「でも何処かで訊いた声ね、あっふ~ん」
 今野さんは恵子ヘルパー長といい仲になっていた。体育館の渡り廊下から昇降口に入った。
「おらおらおらおらー」
 車椅子が走り去った。何と加藤さんが乗り二宮さんが押していた。僕に気付いたのか戻って来た。
「君か、戻って来たのか。よし誰かとコンビを組め。次から暴走車椅子レースの再開だ。キャバレーにこの催しがないと寂しい。患者も増えて掛け金も倍増だ。行け」
「おらおらおらおらー」
 走り去った。加藤さんの廊下を安心して歩くため、そのスローガンで始めたレースだったが加藤さんがスローガンの対象になっていた。僕はキャバレーに入った。患者さんは三倍増である。ヘルパーの人数は変わらない。薫子さんが歌っている。相変わらずノーパンで挑発している。僕は正面の席に座った。薫子さんが気付いてくれた。歌はペッパー警部、振り付けより卑猥に足を開き僕の前でスカートを捲った。半年で少しヒップのラインが下がっていた。それでも僕の股間を刺激する。もしかしたら戻ったお祝いにご褒美があるかもしれない。
「博君、お帰りなさい」
 米子さんは僕が戻ったことに特に驚いていない。
「ああ米子さん。またお世話になります」
「そう、博君もやっぱり居場所がなかったんだ。いいよここに居て」
 米子さんとは違う、横浜に居場所が無いわけじゃない。反論しようと思ったがばかばかしく感じた。ここに正義の味方を演じに来たわけじゃない。患者さんと言う家族の尻を拭きに来たんだ。そして安いけど報酬を受け取るんだ。恐らく僕が戻ったことに感激する人はいない。治ることのない病を心臓が動く限りここで暮らす人達を見回した。手を振っている人がいた。
「駒子所長」
 僕は近寄り駒子所長を見つめた。
「元気ですか?」
 病を抱えている人に掛ける言葉としては最低かもしれない。
「元気よ、博君は?」
「はい」
「今日はどうしたの、明日仕事じゃないの?」
 駒子所長は正常だった。
「あたしね、一日のうちに数回自分に戻るそうよ。時間にしたら一時間ぐらい。ほとんどは宇宙人だって薫子所長に言われたわ」
 駒子所長が笑った。
「僕、もう一度ここでやり直すために戻って来ました」
「地震があったからでしょ?」
 「はい」と返事をするのを躊躇った。見て見ぬふりをしていられないだけの男に思われたくなかった。
「それだけじゃありません。介護を天職にしようかと考えています」
「そう、それならやってみなさい。言っとくけど、帰るところが無いのは、患者さんじゃないのよ、私達ヘルパーなの」
 カンカンダンスが始まった。居並ぶダンサーは半年前から変わらない。放射能から逃げて来た患者さん達がじっとカンカンを不思議そうに見つめている。僕はカンカンには参加しない薫子所長の隣に座った。
「薫子所長、明日から働かせてください」
「いいけど、また腰掛け?」
「腰掛け?」
「機が来ればまた出て行くんでしょ」
 決意を見透かされているような気がした。僕が横浜で感じていたのとは裏腹に僕の存在は薄っぺらな物に思われていた。崩壊するビルのように僕の気持ちは崩れていった。
「あなたの部屋はあなたが出て行ったままよ。明日からお願いします。契約しないとね、取り合えず半年契約にしとけば出て行きやすいでしょ」
 カンカンが終わりチークタイムになった。僕の知らない患者さんが僕を誘った。白髪のおばあちゃんである。薫子所長が「あとで」と囁いた。落ち込んでいた気持ちが吹っ飛んだ。
「あんたは若いけどヘルパーさん?」
「はい、二級ですけど」
「前のホームにも若い人が一人居た。でもすぐに辞めてしまった」
「前のホームは海の方ですか?」
「山一つ越えれば海だった。でもホームからは見えない」
「どうです、このホームには慣れましたか?キャバレーは楽しいでしょ?」
「キャバレー?ヘルパーさんが可愛そう」
 キャバレーが閉店した。おばあさんの一言が妙に気になった。でもそれ以上に薫子所長の「あとで」に浮かれていた。僕は半年間寝起きしていた二階の部屋に入る。布団に誰かいる。「あとで」とはこういうことだろう。カーテンは開けたまま、窓にはびっちりと蛾の大群がたかっている。
「失礼します」
 僕は布団に滑り込む。嗅いだことのあるメンタムの匂い。
「あたし少し太ったでしょ。今野さんの猪料理が美味くて食べ過ぎ」
 振り返ったのは米子さんだった。
「米子さん、僕今日はシャワー浴びる暇が無くて臭いから止めましょう」
「あたしはばっちりメンタム塗ってきたから博君にも塗ってあげるわ、半年ぶりだべ」
 僕の下着を剥ぎ取った。米子さんは身体を擦り付けて僕をメンタムにした。
「米子さん股間にも塗ってるんですか?」
「インキンかもしれねえ、暑さで蒸れたせいだ」
 米子さんが僕に跨った。
「ああ気持ちいい、スーッとするわ」
 僕より清涼感に溺れていた。

「どうして昨夜来なかったの、ずっと待ってたのよ」
 翌朝所長室に行くと薫子所長の第一声だった。「あとで」は「あとで契約」の意味だった。
 それから一年が過ぎた。駒子所長と放射能から逃げて来た患者さん二名を僕が受け持った。
「試験を受けてみればいい」
 と今野さんに薦められたヘルパー一級は合格した。二年後に薫子所長が癌で亡くなった。推薦で僕が所長になった。
「姉さん、もう帰らないかもしれない」
 僕は所長になった報告をした。
「他人のお尻を拭けるようになったんだなお前は、偉いな」
「慣れたわけじゃないけど、家族だから当然だよ」
「そうか。もう帰って来てもお前の居場所はないぞ。浩史、お前はあたしの誇りだ。姉さんのお尻も拭いてくれるか?」
「ああ、だけど只じゃないよ」
 姉さんは僕が介護の道に進むことを歓迎していない。それが本心だと思う。でも一度繋がった人達を思うこと、それが人の道と称えてくれた。そして十二月、最後の日曜日、クリスマスがキャバレーと重なった。僕はサンタの恰好で開催の挨拶をした。
「キャバレーピンクヘルパーにようこそ、さあ開店のお時間です。そしてメリークリスマス」
 ヘルパーさんがピンクのミニスカート姿ででクラッカーを鳴らした。患者さんがそれぞれの表現方法で喜んでいる。
「さすが博所長は一級だもの」
 今野さんが笑った。


 
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