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番外編
③
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その日は卒論の準備で遅くまで学内に残っていた。
鳴人はちょうど原稿が大詰めで、だいぶ前に帰っている。
陽もとっくに傾いて、いつも薄暗いカフェテリアには蛍光灯が煌々と灯っていた。
ひとり黙々とコピーを取り続けていると、いつの間にか俺は一人になっていた。
売店もすでに閉まり、自動販売機の鈍い音だけが静かなフロアに響く。
手元の資料とにらめっこしながらすっかり固まってしまった肩を揉む。
すると、ピトリと冷たい何かが首筋に当たり、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
慌てて振り返ると、そこには悪戯に口元を緩めた狭山先生。
その手に握られていた缶コーヒーがさっき俺の首筋を襲ったモノだとわかる。
「せんせ~!びっくりさせないでよ!」
ホッとしたのと驚く姿を見せてしまった恥ずかしさで、俺はわざとらしいほど大きくため息をついた。
「悪い。外から松森が見えたから」
「普通に声かけてくれればよかったのに」
先生はもう一度悪いと笑うと、俺の隣に腰かけた。
「そんなに根詰めてどうしたんだ?発表まではまだ時間があるじゃないか」
持っていた缶を俺に手渡す。
ひんやりとした水滴がまだドキドキと脈打つ手のひらに馴染んだ。
「そうなんだけど・・・今やっておけば後が楽ですから」
「君は真面目だよな。俺が大学の頃なんか遊びまくってたけどなぁ」
苦笑しながら言うその言葉は意外だった。
「頭のいい大学でしょ?」
「そこまでじゃない。それに大学生なんてたいていどこのヤツらも一緒だろう」
夜な夜な呑みに出かける先生なんて、今の落ち着いた雰囲気からは想像できない。
それに、この先生に派手な交友録なんて似合わないけど。
想像の中に先生と遊んでいたかもしれない女の姿を見た気がして、俺は何故か不快な気持ちになった。
「それより、まだ帰らないのか?」
「あ・・・もうこんな時間。そろそろ帰ろうかな」
「今はちょうどバスが通らない時間だろう。送っていこうか」
思いがけない提案に俺は慌てて首を振った。
「悪いですよ!それに生徒を車に乗せるなって言われてるでしょ」
「それは相手が異性の場合だ。ゼミの生徒を送っていったところで文句は言われないさ」
それはそうだけど。
「それに俺も帰ろうと思ってたんだ。方向も同じだろう」
確かにバス代が浮くのがありがたくないといえばウソになる。
少し迷った後、俺は素直に先生の厚意に甘えることにした。
アパートに車をつけてもらうと、途端に寂しさが胸を襲った。
あの冷たい部屋に帰るのかと思うと、かすかに気が滅入る。
特に、今日は。
扉に手をかけ、俺はそんな気分を吹き飛ばすように明るく礼を言った。
「助かったせんせ。ありがとうございました」
「いいえ。きちんと鍵かけて寝ろよ」
「なにそれ。女の子じゃあるまいし」
「君は可愛いからなぁ」
ふと漏れた言葉だったんだと思う。
でもそれは俺をどきりとさせるのに十分だった。
何故か熱くなってくる耳を押さえながら、わざとおどけてみせる。
「まぁね~。先生も俺の可愛さにメロメロでしょ?」
必死に笑いをとろうとしたセリフに、先生は一瞬、口を噤んでから微笑んだ。
「・・・大丈夫か?」
その声が俺を労わるもののようで、今度は違う意味で心臓が小さく跳ねる。
「・・・・・・・なにが?頭がってこと?」
「違う」
「じゃあ、」
「なんだか元気がないから。いつも元気な松森がそんなだと心配なんだ」
そんなことない大丈夫だと、一言いえばよかったんだ。
いつもだったらそう言えた。
なのに、俺の唇は先生の前だとするりと鎧を脱いでしまう。それも勝手に。
「・・・明日、命日なんだよね。父さんの」
大丈夫。表情だけは笑顔を作ることができた。
「あ、そうだ!だから明日の午後からのゼミ、休ませて。弟たちと墓参りに行くから」
ついでとばかりに早口で捲くし立てて、俺は車から降りた。
「というわけでよろしくお願いしま~す」
「松森」
「なに?」
「部屋、上がっていいか?」
鳴人はちょうど原稿が大詰めで、だいぶ前に帰っている。
陽もとっくに傾いて、いつも薄暗いカフェテリアには蛍光灯が煌々と灯っていた。
ひとり黙々とコピーを取り続けていると、いつの間にか俺は一人になっていた。
売店もすでに閉まり、自動販売機の鈍い音だけが静かなフロアに響く。
手元の資料とにらめっこしながらすっかり固まってしまった肩を揉む。
すると、ピトリと冷たい何かが首筋に当たり、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
慌てて振り返ると、そこには悪戯に口元を緩めた狭山先生。
その手に握られていた缶コーヒーがさっき俺の首筋を襲ったモノだとわかる。
「せんせ~!びっくりさせないでよ!」
ホッとしたのと驚く姿を見せてしまった恥ずかしさで、俺はわざとらしいほど大きくため息をついた。
「悪い。外から松森が見えたから」
「普通に声かけてくれればよかったのに」
先生はもう一度悪いと笑うと、俺の隣に腰かけた。
「そんなに根詰めてどうしたんだ?発表まではまだ時間があるじゃないか」
持っていた缶を俺に手渡す。
ひんやりとした水滴がまだドキドキと脈打つ手のひらに馴染んだ。
「そうなんだけど・・・今やっておけば後が楽ですから」
「君は真面目だよな。俺が大学の頃なんか遊びまくってたけどなぁ」
苦笑しながら言うその言葉は意外だった。
「頭のいい大学でしょ?」
「そこまでじゃない。それに大学生なんてたいていどこのヤツらも一緒だろう」
夜な夜な呑みに出かける先生なんて、今の落ち着いた雰囲気からは想像できない。
それに、この先生に派手な交友録なんて似合わないけど。
想像の中に先生と遊んでいたかもしれない女の姿を見た気がして、俺は何故か不快な気持ちになった。
「それより、まだ帰らないのか?」
「あ・・・もうこんな時間。そろそろ帰ろうかな」
「今はちょうどバスが通らない時間だろう。送っていこうか」
思いがけない提案に俺は慌てて首を振った。
「悪いですよ!それに生徒を車に乗せるなって言われてるでしょ」
「それは相手が異性の場合だ。ゼミの生徒を送っていったところで文句は言われないさ」
それはそうだけど。
「それに俺も帰ろうと思ってたんだ。方向も同じだろう」
確かにバス代が浮くのがありがたくないといえばウソになる。
少し迷った後、俺は素直に先生の厚意に甘えることにした。
アパートに車をつけてもらうと、途端に寂しさが胸を襲った。
あの冷たい部屋に帰るのかと思うと、かすかに気が滅入る。
特に、今日は。
扉に手をかけ、俺はそんな気分を吹き飛ばすように明るく礼を言った。
「助かったせんせ。ありがとうございました」
「いいえ。きちんと鍵かけて寝ろよ」
「なにそれ。女の子じゃあるまいし」
「君は可愛いからなぁ」
ふと漏れた言葉だったんだと思う。
でもそれは俺をどきりとさせるのに十分だった。
何故か熱くなってくる耳を押さえながら、わざとおどけてみせる。
「まぁね~。先生も俺の可愛さにメロメロでしょ?」
必死に笑いをとろうとしたセリフに、先生は一瞬、口を噤んでから微笑んだ。
「・・・大丈夫か?」
その声が俺を労わるもののようで、今度は違う意味で心臓が小さく跳ねる。
「・・・・・・・なにが?頭がってこと?」
「違う」
「じゃあ、」
「なんだか元気がないから。いつも元気な松森がそんなだと心配なんだ」
そんなことない大丈夫だと、一言いえばよかったんだ。
いつもだったらそう言えた。
なのに、俺の唇は先生の前だとするりと鎧を脱いでしまう。それも勝手に。
「・・・明日、命日なんだよね。父さんの」
大丈夫。表情だけは笑顔を作ることができた。
「あ、そうだ!だから明日の午後からのゼミ、休ませて。弟たちと墓参りに行くから」
ついでとばかりに早口で捲くし立てて、俺は車から降りた。
「というわけでよろしくお願いしま~す」
「松森」
「なに?」
「部屋、上がっていいか?」
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