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第一部
72 動かせないベッド
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梅雨が明け爽やかな初夏がやってきた。
「宮下先生。さようならー」
「ありがとうございました」
子供たちが陶芸教室から帰っていく。
「さよならー。お気をつけて」
迎えに来た母親たちにも頭を下げる。
緋紗は少しずつ地元の人たちを触れあって、ゆっくりだが信頼関係も築けてきたようだ。――さて。片付けるか。
ペンションの仕事は午前中と夕方にやってしまえるので午後からほとんど自由な時間だった。
週に半分は陶芸教室を行い、半分は自分の作品を作りペンションのショップに並べている。
少しずつだが宿泊客に売れていた。
サインは『セレナーデ』としてある。
和夫が自分のサインをすればいいよと言ってくれたが、緋紗にはあまりこだわりがなかったし粉引きだったのでペンションの作品としていた。
そのうち小さい薪の窯を和夫と一緒にペンションの裏側に作る予定だ。――今日もよく頑張った。
少し休憩したら厨房を手伝おうとエプロンを脱いでアトリエの椅子に腰かけると、和夫がやってきた。
「お疲れさん。お客さんだよ」
「お客さんですか?」
「うん。外で待ってるから行っておいで」
「はーい」
――誰かのお母さんかな。
緋紗はアトリエの外に出て見回すと直樹がスカーレットオークの木にもたれて立っていた。
「あっ」
思わず息をのむ。
グレーのスーツ姿で少し痩せ、髪が伸びて銀縁の眼鏡に掛かり、シャープな横顔は精悍さを増している。
周りの景色とマッチして一枚の絵のように見え、緋紗はぼんやり立って見惚れていた。
パキっと緋紗が踏んだ小枝の音が鳴り、直樹がこっちをゆっくり振り向く。
そして歩いてくる。
夢の中のようなふわふわとして時間が止まったような感覚だった。
後五、六歩ほどで手を伸ばせば直樹が触れる位置に来る。
夢ならこの辺で目が覚めていると、緋紗は目を閉じた。
「久しぶり」
目を開けると目の前に直樹がいる。
「お久しぶりです」
緋紗はやっと言葉を発した。
「元気そうだね。髪を伸ばしたのか」
そっと頷く緋紗はベリーショートからショートボブになっていて、少しだけ化粧もし落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「綺麗になって」
直樹に見つめられるまま緋紗はぼーっとしていた。
「心配しなくても僕は檻の獣にはなっていないし、緋紗にもそうさせる気はない」
そして、「ついて来てほしい。和夫さんには許可もらってるから」 と緋紗の手を取った。
久しぶりの直樹の大きな手だ。
駐車場には綺麗に磨かれたSUV車がとまっている。
「乗って」
ゆっくりと発進し、直樹は黙って車を走らせる。
緋紗も黙っていた。
久しぶりの二人の狭い空間に緋紗は緊張したが、愛しい男のそばに居ることがゆっくり気分を高揚させていく。
車が止まり夏に来た直樹の家に着いたが、前の古屋はなく真新しい木造で三角屋根の家がこじんまりと建っていた。
緋紗は家を見上げる。――かわいい家。
まるで『大草原の小さな家』にでも出てきそうな素朴だが暖かそうな家だ。
「こっちだよ」
直樹が玄関のドアを開ける。
「失礼します」
新しい木の香りがする。
見回すと高い天井で広々としたリビングルームに暖炉があった。
緋紗はどこかに迷い込んだ動物のように四方八方に目をやる。
「他の場所はまたあとで見せてあげるからとりあえずこっちに来てくれるかな」
ぼんやりしている緋紗を直樹は誘導する。
無垢の木の扉を開けると六畳ほどの部屋にキングサイズのベッドがどんと置かれていた。
「すごい。大きいベッド」
驚かされっぱなしで頭の整理が全くつかない緋紗を、直樹は抱きかかえゆっくりベッドに降ろす。
緋紗の横に座って、「突然でごめん」と、謝って説明を始めた。
今でも林業の仕事を続けていること、家は森林組合から木材を購入し和夫がペンション『セレナーデ』を建てたとき同様、ハーフビルドで自分も建築に関わったこと。
「よかった。直樹さんが森から離れていなくて」
「前の仕事に戻っていたら緋紗は僕を見向きもしてくれないだろ」
直樹は笑った。
緋紗も安堵の表情を浮かべる。
少し落ち着き、ベッドの滑らかな宮棚を撫でた。
「このベッドすごいですね。剥き出しの木がすべすべして光っててとても素敵」
「スカーレットオークなんだ。さすがにオデッセイウスのようにはいかなかったけど、動かせないベッドだよ。僕が作ったんだ」
「えっ」
「この木だけ輸入なんだけど、どうしてもこの木を使いたくてね。育ててると二、三十年かかってしまうし。そこまで待ってもらえないだろ」
直樹は檻ではなく自由に出入りできる寝床を作っていた。
「緋紗。いつまでも自由でいてほしい。それでも僕と結婚してほしい」
緋紗は胸がいっぱいで言葉が出ない。
「贅沢はさせてあげられないだろうけど苦労はさせないつもりだから」
「直樹さんと一緒なら苦労したっていい。直樹さんのそばに居られることが私にとって一番贅沢なことだよ」
滲む視界で小さな声を振り絞るように言った。
「愛してる」
再び二人が結ばれる日がやって来た。
「そのペンダントつけていてくれてよかった」
強く抱きしめ合いながら、直樹の香りを緋紗は吸い込む。
「直樹さんもつけててくれたんですね。私の作った香水」
「うん。大事に使っていたんだけど、もうこれで最後なんだ」
「また作ります」
長い間待ち焦がれていた口づけを交わす。――ペネロペはオデュッセイウスと再会したときどんな気持ちだったろう。
抱きしめられながら緋紗は目を閉じて直樹のすべてを堪能する。
「そろそろ我慢の限界かな。こんなに可愛い緋紗を目の前にして」
「私も限界」
直樹は熱ぽく見つめた後、優しく口づけをして、緋紗の髪を耳にかける。
「頭の中では何度も抱いたよ」
「私だって」
「そうだ。プロポーズは受けてくれるのかな?オーケーなら『ダーリン』って呼んで」
「ダーリン、愛してる!」
――ああ。今日は私の誕生日。直樹さんが最高のプレゼント……。
スカーレットオークのベッドはこれから二人の愛し合う時間を木肌に刻み、もっと赤みと艶を増していくだろう。
第一部 終
「宮下先生。さようならー」
「ありがとうございました」
子供たちが陶芸教室から帰っていく。
「さよならー。お気をつけて」
迎えに来た母親たちにも頭を下げる。
緋紗は少しずつ地元の人たちを触れあって、ゆっくりだが信頼関係も築けてきたようだ。――さて。片付けるか。
ペンションの仕事は午前中と夕方にやってしまえるので午後からほとんど自由な時間だった。
週に半分は陶芸教室を行い、半分は自分の作品を作りペンションのショップに並べている。
少しずつだが宿泊客に売れていた。
サインは『セレナーデ』としてある。
和夫が自分のサインをすればいいよと言ってくれたが、緋紗にはあまりこだわりがなかったし粉引きだったのでペンションの作品としていた。
そのうち小さい薪の窯を和夫と一緒にペンションの裏側に作る予定だ。――今日もよく頑張った。
少し休憩したら厨房を手伝おうとエプロンを脱いでアトリエの椅子に腰かけると、和夫がやってきた。
「お疲れさん。お客さんだよ」
「お客さんですか?」
「うん。外で待ってるから行っておいで」
「はーい」
――誰かのお母さんかな。
緋紗はアトリエの外に出て見回すと直樹がスカーレットオークの木にもたれて立っていた。
「あっ」
思わず息をのむ。
グレーのスーツ姿で少し痩せ、髪が伸びて銀縁の眼鏡に掛かり、シャープな横顔は精悍さを増している。
周りの景色とマッチして一枚の絵のように見え、緋紗はぼんやり立って見惚れていた。
パキっと緋紗が踏んだ小枝の音が鳴り、直樹がこっちをゆっくり振り向く。
そして歩いてくる。
夢の中のようなふわふわとして時間が止まったような感覚だった。
後五、六歩ほどで手を伸ばせば直樹が触れる位置に来る。
夢ならこの辺で目が覚めていると、緋紗は目を閉じた。
「久しぶり」
目を開けると目の前に直樹がいる。
「お久しぶりです」
緋紗はやっと言葉を発した。
「元気そうだね。髪を伸ばしたのか」
そっと頷く緋紗はベリーショートからショートボブになっていて、少しだけ化粧もし落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「綺麗になって」
直樹に見つめられるまま緋紗はぼーっとしていた。
「心配しなくても僕は檻の獣にはなっていないし、緋紗にもそうさせる気はない」
そして、「ついて来てほしい。和夫さんには許可もらってるから」 と緋紗の手を取った。
久しぶりの直樹の大きな手だ。
駐車場には綺麗に磨かれたSUV車がとまっている。
「乗って」
ゆっくりと発進し、直樹は黙って車を走らせる。
緋紗も黙っていた。
久しぶりの二人の狭い空間に緋紗は緊張したが、愛しい男のそばに居ることがゆっくり気分を高揚させていく。
車が止まり夏に来た直樹の家に着いたが、前の古屋はなく真新しい木造で三角屋根の家がこじんまりと建っていた。
緋紗は家を見上げる。――かわいい家。
まるで『大草原の小さな家』にでも出てきそうな素朴だが暖かそうな家だ。
「こっちだよ」
直樹が玄関のドアを開ける。
「失礼します」
新しい木の香りがする。
見回すと高い天井で広々としたリビングルームに暖炉があった。
緋紗はどこかに迷い込んだ動物のように四方八方に目をやる。
「他の場所はまたあとで見せてあげるからとりあえずこっちに来てくれるかな」
ぼんやりしている緋紗を直樹は誘導する。
無垢の木の扉を開けると六畳ほどの部屋にキングサイズのベッドがどんと置かれていた。
「すごい。大きいベッド」
驚かされっぱなしで頭の整理が全くつかない緋紗を、直樹は抱きかかえゆっくりベッドに降ろす。
緋紗の横に座って、「突然でごめん」と、謝って説明を始めた。
今でも林業の仕事を続けていること、家は森林組合から木材を購入し和夫がペンション『セレナーデ』を建てたとき同様、ハーフビルドで自分も建築に関わったこと。
「よかった。直樹さんが森から離れていなくて」
「前の仕事に戻っていたら緋紗は僕を見向きもしてくれないだろ」
直樹は笑った。
緋紗も安堵の表情を浮かべる。
少し落ち着き、ベッドの滑らかな宮棚を撫でた。
「このベッドすごいですね。剥き出しの木がすべすべして光っててとても素敵」
「スカーレットオークなんだ。さすがにオデッセイウスのようにはいかなかったけど、動かせないベッドだよ。僕が作ったんだ」
「えっ」
「この木だけ輸入なんだけど、どうしてもこの木を使いたくてね。育ててると二、三十年かかってしまうし。そこまで待ってもらえないだろ」
直樹は檻ではなく自由に出入りできる寝床を作っていた。
「緋紗。いつまでも自由でいてほしい。それでも僕と結婚してほしい」
緋紗は胸がいっぱいで言葉が出ない。
「贅沢はさせてあげられないだろうけど苦労はさせないつもりだから」
「直樹さんと一緒なら苦労したっていい。直樹さんのそばに居られることが私にとって一番贅沢なことだよ」
滲む視界で小さな声を振り絞るように言った。
「愛してる」
再び二人が結ばれる日がやって来た。
「そのペンダントつけていてくれてよかった」
強く抱きしめ合いながら、直樹の香りを緋紗は吸い込む。
「直樹さんもつけててくれたんですね。私の作った香水」
「うん。大事に使っていたんだけど、もうこれで最後なんだ」
「また作ります」
長い間待ち焦がれていた口づけを交わす。――ペネロペはオデュッセイウスと再会したときどんな気持ちだったろう。
抱きしめられながら緋紗は目を閉じて直樹のすべてを堪能する。
「そろそろ我慢の限界かな。こんなに可愛い緋紗を目の前にして」
「私も限界」
直樹は熱ぽく見つめた後、優しく口づけをして、緋紗の髪を耳にかける。
「頭の中では何度も抱いたよ」
「私だって」
「そうだ。プロポーズは受けてくれるのかな?オーケーなら『ダーリン』って呼んで」
「ダーリン、愛してる!」
――ああ。今日は私の誕生日。直樹さんが最高のプレゼント……。
スカーレットオークのベッドはこれから二人の愛し合う時間を木肌に刻み、もっと赤みと艶を増していくだろう。
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