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第一部
8 回想
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まだ薄暗いがいつもの習慣で直樹は六時前に目が覚めたが、すぐに起き出さず岡山でのことを思い返していた。
オペラの会場で一人でいた緋紗は最初から直樹の視界になんとなく印象を残していて、若い女の子なのに『おひとり様』かと思った程度だったが、適当に入ったバーで隣に座られた時は少し驚いた。
そしてその後の情事。
緋紗と一夜を過ごした朝、目が覚めた時は、目の前の女の子にハッとした。
――ああ夢じゃなかった。
一瞬、夢かと思ったくらい幻想的で蠱惑的な夜だった。
目の前の化粧っ気のない少年のような緋紗に不思議な愛しさが湧く。
まっすぐ伸びている若い苗木のような愛らしさだ。
剥き出しになっている緋紗の肩にシーツをかけてまた目を閉じたのだった。
思わずまた目を閉じてしまうところを素早く起きだして作業服に着替え階段を降りた。
「おはよう」
母の慶子はもう台所で朝食の用意を終えている。
「あら今日はちょっと寝坊?休みボケかしら?」
味噌汁を差し出しながら言った。
「かな」
テーブルに着くとトーストとスクランブルエッグ、サラダがある。
味噌汁の匂いがしたので、てっきり和食だと思っていたがビジネスホテルの朝食のメニューと同じだったので思わず吹き出した。
「やだ。なによ」
「あ、いや。美味しそうだなとおもって」
いぶかし気な顔をして直樹を見る慶子に、「いただきます」と、手を合わせた。
林業は肉体労働で、もう就いて五年目だがつらい時はつらい。
こうやって毎日、森へ向かえるのは母のサポートのおかげも大いにあるだろう。
直樹は大学を卒業後、県内の大手建築会社の営業職に就いた。
特にそれがやりたかったわけではないが周囲の勧めと負担の少なさがなんとなく直樹を向かわせた。
働いている間、他に何かやりたいことを考えていたわけではないが、気が付けば林業に関心を寄せていた。
そして二十八歳で林業組合に転職する。
年収は下がり、付き合っていた彼女には去られたが、直樹にしてみればやっと生きている実感が湧いたのだった。
「ごちそうさま」
食器をさげて身支度に向かった。
今の作業場は車で十五分程度で七時半に出ても間に合うが、直樹は森に呼ばれるように支度が出来次第向かった。
「お弁当とお茶できてるわよ」
「母さん、ありがと。いってきます」
弁当と水筒を持ち車に乗り込んだ。
持ち物は食事くらいで食べることができればそれでよかった。
舗装された山道を少し上って現場に着く。
いつも早めに来ているのだが絶対に一番は最年長の望月だ。
「おはようございます」
「おう。早いな」
望月は定年で一度離職したのだが山から離れることができず、再就職した。
林業は体力もさることながら危険度も非常に高い職であるため、望月の家族は大反対だったらしい。
しかし山でほとんどの時間を過ごしてきた望月から山を取り上げることはできなかった。
またこの仕事に戻ってきた時に、「これで思い残すことはない。いつでも死んでいい」などと言い組合員みんなから、「頼りにしてるんだからまだまだ死なないでくれ」と、大歓迎された。
直樹にとって母が生活の面で支えなら仕事の面での支えはこの望月だ。
彼が再就職してくれて心からよかったと思う。
初めてこの世界に飛び込んだ時から可愛がられ、山に対する畏怖などの精神性も教えられた。
直樹にとっての『師』は望月である。
今日も引き続き間伐だ。
毎日同じ作業であっても同じ状況とは言えない。
山は刻一刻と変わる。
どんなに人が技術を高め精度の高い方法で臨んでも、その日の山の機嫌でそれらが幼子のようなものになってしまうこともあるのだ。
「山は征服するもんじゃないよ」
登山家に反するような望月の口癖だ。
最初、直樹にはよくわからなかったが今なら言わんとすることがなんとなくわかる。
木を一本切り倒して上を見上げると青い空が見え光が地面を刺した。
集中して作業をしているとあっという間に夕方になる。
「講習行っただけあって今日はうまいじゃないか」
望月のほめ言葉に嬉しく思う。
「また来月末、広島にいって勉強してきます」
「そうか。勉強はできるときにした方がいいな」
望月は機嫌よく頷きながら言った。
夕焼けが今日も素晴らしい。――赤い。緋だすきみたいだな。
緋紗のことを思い出しながら家路についた。
オペラの会場で一人でいた緋紗は最初から直樹の視界になんとなく印象を残していて、若い女の子なのに『おひとり様』かと思った程度だったが、適当に入ったバーで隣に座られた時は少し驚いた。
そしてその後の情事。
緋紗と一夜を過ごした朝、目が覚めた時は、目の前の女の子にハッとした。
――ああ夢じゃなかった。
一瞬、夢かと思ったくらい幻想的で蠱惑的な夜だった。
目の前の化粧っ気のない少年のような緋紗に不思議な愛しさが湧く。
まっすぐ伸びている若い苗木のような愛らしさだ。
剥き出しになっている緋紗の肩にシーツをかけてまた目を閉じたのだった。
思わずまた目を閉じてしまうところを素早く起きだして作業服に着替え階段を降りた。
「おはよう」
母の慶子はもう台所で朝食の用意を終えている。
「あら今日はちょっと寝坊?休みボケかしら?」
味噌汁を差し出しながら言った。
「かな」
テーブルに着くとトーストとスクランブルエッグ、サラダがある。
味噌汁の匂いがしたので、てっきり和食だと思っていたがビジネスホテルの朝食のメニューと同じだったので思わず吹き出した。
「やだ。なによ」
「あ、いや。美味しそうだなとおもって」
いぶかし気な顔をして直樹を見る慶子に、「いただきます」と、手を合わせた。
林業は肉体労働で、もう就いて五年目だがつらい時はつらい。
こうやって毎日、森へ向かえるのは母のサポートのおかげも大いにあるだろう。
直樹は大学を卒業後、県内の大手建築会社の営業職に就いた。
特にそれがやりたかったわけではないが周囲の勧めと負担の少なさがなんとなく直樹を向かわせた。
働いている間、他に何かやりたいことを考えていたわけではないが、気が付けば林業に関心を寄せていた。
そして二十八歳で林業組合に転職する。
年収は下がり、付き合っていた彼女には去られたが、直樹にしてみればやっと生きている実感が湧いたのだった。
「ごちそうさま」
食器をさげて身支度に向かった。
今の作業場は車で十五分程度で七時半に出ても間に合うが、直樹は森に呼ばれるように支度が出来次第向かった。
「お弁当とお茶できてるわよ」
「母さん、ありがと。いってきます」
弁当と水筒を持ち車に乗り込んだ。
持ち物は食事くらいで食べることができればそれでよかった。
舗装された山道を少し上って現場に着く。
いつも早めに来ているのだが絶対に一番は最年長の望月だ。
「おはようございます」
「おう。早いな」
望月は定年で一度離職したのだが山から離れることができず、再就職した。
林業は体力もさることながら危険度も非常に高い職であるため、望月の家族は大反対だったらしい。
しかし山でほとんどの時間を過ごしてきた望月から山を取り上げることはできなかった。
またこの仕事に戻ってきた時に、「これで思い残すことはない。いつでも死んでいい」などと言い組合員みんなから、「頼りにしてるんだからまだまだ死なないでくれ」と、大歓迎された。
直樹にとって母が生活の面で支えなら仕事の面での支えはこの望月だ。
彼が再就職してくれて心からよかったと思う。
初めてこの世界に飛び込んだ時から可愛がられ、山に対する畏怖などの精神性も教えられた。
直樹にとっての『師』は望月である。
今日も引き続き間伐だ。
毎日同じ作業であっても同じ状況とは言えない。
山は刻一刻と変わる。
どんなに人が技術を高め精度の高い方法で臨んでも、その日の山の機嫌でそれらが幼子のようなものになってしまうこともあるのだ。
「山は征服するもんじゃないよ」
登山家に反するような望月の口癖だ。
最初、直樹にはよくわからなかったが今なら言わんとすることがなんとなくわかる。
木を一本切り倒して上を見上げると青い空が見え光が地面を刺した。
集中して作業をしているとあっという間に夕方になる。
「講習行っただけあって今日はうまいじゃないか」
望月のほめ言葉に嬉しく思う。
「また来月末、広島にいって勉強してきます」
「そうか。勉強はできるときにした方がいいな」
望月は機嫌よく頷きながら言った。
夕焼けが今日も素晴らしい。――赤い。緋だすきみたいだな。
緋紗のことを思い出しながら家路についた。
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