上 下
89 / 127

89 『美麻那』 

しおりを挟む
 扉は開いていて、ひらひらと何枚もの鮮やかな荒い布が垂れ下がっている。手でくぐり中に入ると、やはり華夏国と違う明るい色合いの机と椅子が並んでいる。壁には極彩色で描かれた、象や孔雀、人物画などが飾られている。

「ちょっとおらは落ち着かねーぞ」

 腰掛ける許仲典は珍しく緊張気味だ。この西国の色合いが肌に合わないのだろう。

「そう。たぶん華夏国民なら慣れないかも。あたしは家族が西国人だから結構平気」
「目がチカチカするだ」

 客は他におらず二人きりだ。座ってしばらく経つと店の女がやってきた。年配のふくよかな女が「あら、こんな時間に珍しいわね」と星羅の肩に手をかける。

「ああ、すまない。営業時間じゃなかったか?」
「そういうわけじゃないんだけど、この時期、この時間にお客はめったにないのよ。ご注文は?」
「カリーとナンとチャイを」
「あら、珍しい」
「え、みんな何を食べるんだ?」
「いいえ。注文はみんなカリーとチャイだけど、華夏国の人はナンをあまり頼まないのよ」
「そうなのか」
「それと、発音が綺麗だわ」
「それはどうも。この店は開店して何年になる?」
「20年越したところよ。じゃ、お待ちになってて」

 長年開店しているこの店に、特に怪しいうわさなどない。新しくぽっと出の店などは、盗賊の根城になっていることもあるが、その場合すぐ噂に上るので店自体もすぐに解体される。
 運ばれてきた咖哩はふんだんにスパイスが使われ、食欲を刺激する。美しい輝くような黄金色のナンは香ばしい香りを放つ。

「おらあ、初めてだ!」
「さ、熱いうちにどうぞ」

 女は星羅の隣に腰掛け食べる様子を眺める。

「いや、隣につかなくていい」
「あら、最近そういう人が多いのねえ」
「そういう人?」
「ここは宿屋でも食堂でもあるけどね。男に楽しんでもらう店でもあるのよ? この前も食事だけの男が何回か来たわね」
「ふーん」

 その男はきっと明樹だろうと星羅は推定する。咖哩を一口頬張った許仲典が「んん?」と変な声を出す。

「お口に合わないかしら?」
「いや、そうじゃねえんだが」
「仲典さんには刺激が強い?」

 星羅も一口放り込む。確かに何か舌に違和感を感じる。許仲典は手を付けるのをやめている。なんだか食べ進めることに不安を感じる。

「あの、香辛料は何が使われてる?」

 こってり化粧を施した女に尋ねると「さあ、あたしが作ってるんじゃないからわからないけど」と立ち上がって後ずさり始める。
 星羅と許仲典も、怪しい女の動きを見て立ち上がる。

「二人を取り押さえて!」

 女が厨房のほうに怒鳴ると、ガタイの良い男が数人やってきた。男たちは半裸で曲刀を手にしている。髪を束ねることなく無造作に伸ばしている。

「星羅さん! 逃げるだ!」

 数人の男めがけて許仲典は腰から剣を抜き、飛び込むように切りかかった。彼が男たちと戦っている間に逃げるチャンスはあったが、許仲典を置いて逃げることはできなかった。自身も剣を抜き応戦する。
 腕っぷしと勢いのいい許仲典が半数の男をなぎ倒し、星羅たちが優勢に見えた。

「あんたの夫が死んでもいいのっ?」

 女の叫ぶ声で、星羅の動きは一瞬止まり、男によって剣を叩き落された。

「あっ!」

 一瞬で形勢は逆転してしまう。星羅の喉に曲刀を当てられては、許仲典も剣を置くしかなかった。

「仲典さん、ごめん」
「いや、おらはいい……」

 縛り上げられた二人は女の指示で、食堂から奥の部屋に連れていかれた。細い廊下は石畳で砂埃をかぶっている。黄砂がひどく掃いても掃いても入ってくるのだろう。
 大人しく歩いている星羅の耳に男の呻く声が聞こえた。聞き間違えることのない明樹の声だ。星羅が気づいたことに気付いた女が「心配しなくていい。とにかく大人しくしてね」とにやりと笑う。

「会わせて」
「いいわよ」

 女は明樹のいる部屋へ星羅を連れていく。

「どうぞ」

 部屋には扉はなく布一枚で廊下と隔てられている。すぐにも逃げ出すことができそうな部屋の作りに疑問を持ちながら星羅は中に入る。

「あなた!」

 寝台にはやせ細った明樹が横たわっている。髪はまとめられておらず、半裸の身体に流れている。身体を縛られたまま星羅は寝台に駆け寄り、明樹に何度も声を掛ける。

「あなた、あなた」

 閉じていた目を開いたが明樹の視線が定まっていない。

「う、うう」
「しっかりして、星羅です!」
「せい、ら?」
「ええ!」
「それより粥を……」
「粥?」
「うう……」

 何もまともに答えてくれず、星羅のこともよくわかっていないような明樹の様子にまさかと女を睨みつける。

「怖いわ。そんな顔して。命に別状はないのよ?」
「麻薬を使うなんて……」
「拷問なんかよりもいいと思わない?」

 さっきの咖哩もおそらく麻薬を盛られていただろう。許仲典の野性的な味覚が違和感を感じたのは偶然ではない。本能的に危機感を感じたに違いなかった。

「目的は何?」

 虚ろでやせこけた明樹を涙をこらえてみていたが、涙声になっている。

「安心して命でもお金でもないから」
「では何!?」
「ごめんなさいね。それはあたしもよく知らないの。とにかく上からの指示でずっとここに店を出してたのよ。あなたが来るまで」
「わたし?」

 女の狙いは星羅だったが、とらえる理由を知らない。彼女は指示されているだけのようだ。それでも明樹をこんな状態にした女を許せるわけもなく、憎しみが増していく。

「さて、もう一人の男に書状を持たせて解放するわ。しばらく夫婦の対面をしててね」 

 見張りの男を一人置いて女は出ていった。

「あなた……」

 星羅の呼びかけに明樹は壁を見たままぼんやりとしている。近寄って頬を彼の手の甲に乗せたが反応はない。痩せた手は筋張りかさつき、体温を感じない。自分の流す涙の熱さを星羅は初めて知った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

冷宮の人形姫

りーさん
ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。 幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。 ※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。 ※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので) そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

処理中です...