上 下
71 / 127

71 公主たち

しおりを挟む
 側室の中で最も可憐だと評価の高い申陽菜の住いは、多種多様の花が植えられており、年中、常春のように感じられる。王太子の曹隆明以外の男で、王族の夫人たちの住まいを出入りできるものは、医局長の陸慶明のみだった。
 ほっそりとした白い手首を差し出し、申陽菜は目を細めしなを作り「どうかしら?」と甘い声で慶明に尋ねる。

「残念ながら懐妊の兆候はありません。しかし、とても健やかであられます」
「ふーん」

 つまらなさそうな表情で、すっと腕を下げ着物の袖を降ろした。ほっそりした白い手足を見せびらかすように、できるだけ柔らかく薄く透ける着物を何枚も重ねている。それぞれの着物には違う香料を焚き込め、複雑で怪しく淫靡な雰囲気を演出している。

「何か気になることはありますか?」

 慶明は軽く問診し、申陽菜の顔色を眺める。特に何も悪いところはないだろうと診断し、いつもの彼女のために処方した肌を滑らかに保つ薬を侍女に渡す。

「ねえ、陸どの。杏華公主のお加減はいかが?
「それは、その……」

 王太子妃、桃華が生んだ第一公主の杏華は生まれつき身体が弱く、成人しても丈夫にならなかった。当時の医局長の見立てでは成人に達することができないと、秘かに慶明にだけ告げられていた。今、病みがちではあるが、なんとか生き長らえているのは、慶明の滋養強壮剤によるものだ。それでも、常に油断できない虚弱体質だった。流行り病などにかかってしまえば、打つ勝つことはできぬだろう。

「相変わらずってことね」
「は、はあ」

 もしも杏華公主になにかあれば、申陽菜の産んだ晴菜公主が第一後継者になるのだ。そうなれば王太子妃になることは桃華がいるので叶わなくとも、王太子妃と同等になるだろう。
 慶明には、申陽菜が何を願っているかもちろん分かっている。彼女は贅沢趣味なので立場が上がれば、生活水準を上げさせようとするに違いない。善政を敷いてきた曹王朝が、妃一人の贅沢で倒れることはないが、王朝の存続のために妃の散財は常々懸念されていることだ。

 杏華公主が亡くなると、年功序列で決まる次期後継者は星羅になる。そのことを慶明は誰にも言うつもりはない。王太子の曹隆明も公言することはないだろう。ただ隆明が王になった時、胡晶鈴が王妃、星羅が王太子になればこの王朝の心配はないだろうと夢を見る。きっと隆明も同じ気持ちだろう。

「ああ、そうそう。今度軍師助手に上がってきた朱星羅というものを知ってるかしら?」
「え?」

 いきなり星羅の名前が挙がり、慶明は思わず申陽菜を凝視してしまう。華奢で可憐な容貌の申陽菜から出る言葉は、鋭く冷たい。

「そのものが何か?」
「どうも見習いの時から、隆明様が気に入ってるらしいのよね。男だとばかり思っていたら女子じゃないの」
「はあ」
「ちょろちょろ目障りなのよね。代々軍師の郭家の息子と一緒に呼び出しているけど、なんだか見過ごせないわ」

 隆明は娘である星羅と一緒に過ごしたいのであろう。二人きりにならないように注意しながらよく会っているようだ。

「あたくしよりもあの娘と会っている時間のほうが長い気がするわ」

 申陽菜が星羅を煙たがっていることが分かった。これ以上機嫌を損ねると、申陽菜は星羅をもっと調べ上げようとするかもしれない。そうなると隆明も、自分も守ってきたものが崩れてしまう。
 咳払いをして慶明は静かに告げる。

「その娘ですがもうじき婚礼を上げるそうですよ」
「あら、そうなの? ふーん。人妻になるのねえ」

 とっさの嘘で慶明は、申陽菜の敵意を星羅からそらす。嘘とはいっても、妻の絹枝から相談を受けていた話だった。息子の明樹と星羅を結婚させたいと絹枝は希望していた。

「ええ、殿下がそのようなものと、いや、そうでなくても間違いを犯すはずはございません」
「まあいいわ。そうそう、最近顔にしみができてきたのよ。これもどうにかしてちょうだい!」
「次回までに何か用意しておきます」
「下がっていいわ」
「はい」

 毎回、美容に関することで注文を付けられて帰る。隆明の妃の中で一番、身なりと美容に気を配っている申陽菜だが、その努力は残念ながらあまり効果的ではなかった。


 慶明は医局に帰る前に、兵士の訓練所に向かう。静かな医局と違い、門の外からでも男たちの掛け声や怒声が遠くからでも聞こえてくる。門番の大男に、息子に会いに来たと告げ、身分証を見せるとすぐに通された。慶明は医局長ともあって、移動には輿を使っている。数名の男に運ばせている様子を見れば、彼の身分はすぐにでもわかるので、身分証を見せることは単に形だけだった。

 息子の陸明樹は順調に上等兵になっており、部下の訓練に勤しんでいる。訓練中なので胸当てくらいしか身に着けていないが、槍を振り回し、藁人形を突く姿は英雄の風格があった。久しぶりに見る息子の姿に感心して、しばらく訓練を黙って観ていた。そのうち兵士の一人が慶明に気づいたようで、明樹に話しかけた。慶明と明樹はよく似ているので、兵士たちにはすぐに慶明が父親だとわかったようだ。槍を部下に預けて明樹は走ってきた。

「父上。どうしたのですか? わざわざこんなところまで」
「いや、特に急ぎではないが、最近話していない思ってな。顔を見に来ただけだ」
「へえ。珍しいですね」
「まだまだ訓練中か」
「もう終えられますよ」
「そうか」
「一体何の話ですか?」
「うむ……」
「今日はまっすぐ帰りますよ」
「わかった。では、あとで」

 慶明は活気のある訓練所を後にした。明るく活発な明樹は部下にもよく慕われているようだった。武芸もなかなか達者なようだ。我が息子ながら、明樹であれば星羅を任せられると慶明は考えている。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

冷宮の人形姫

りーさん
ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。 幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。 ※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。 ※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので) そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

処理中です...