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8 太子

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 一人だけ従者を連れて、隆明は太極府を訪れた。

「ここはいつも静かだな」
 
 太極府には人がいても、じっと探求と考察を続ける場所なので、雑音が少ない。今聞こえるのは、カタ、カタと算木を置く物音や、書物のめくれるかすかな摩擦音ぐらいだった。従者を外で待機させ、勝手知ったる太極府の中をどんどん進む。かといって、王子が来たなどと権威を示すようにずかずか上がり込むことはない。そっと忍び足のように『卜』とかかれた部屋に入った。

 部屋には一人、晶鈴だけが隅のほうで座って石を並べている。囲碁の石を置く音よりも優しい、コトリ、コトリという音を、心地よく隆明は聴く。

 熱心な晶鈴は、隆明が来たことに気づかずに石を並べ眺めている。邪魔をしないように隆明も彼女を眺める。出会ったころの幼い少女はすんなりとした肢体を持つ清らかな乙女となった。
ほかの女人と違い、彼女は捉えどころがなく感情もつかめない。青年になった隆明を見つけると、女人たちは好意的な、何か含みのある目線を送ってくるが晶鈴にはまるでない。それが安心感でもあり、不満でもあるむず痒い感覚だった。
丸かった顔も面長になり、聡明さがより顕著になってきた。しかし瞳の無垢さだけは出会ったころのままだったと思い出している最中に「隆兄さま」と声がかかった。

「ああ、晶妹」
「ぼんやりなさって。もう太子になられるのですよ? しっかりせねば」
「口うるさいなあ。そのようなことを言うのは、そちだけだぞ?」
「このようなところを陳老師に見られたら……」
「大丈夫だ。さっき父王のところにいたし、ここまで帰るのにまだまだ時間がある」

 隆明は、美しい萌黄色の着物がしわになるのを気にせず横たわっている。彼にとってリラックスできるの晶鈴の前だけだった。まだ、まとめて結い上げてない漆黒の髪はつややかに床に流れている。何百年と続く王朝は代を重ねるごとに、髪を豊かにし、闇のような黒さをもたらせる。潤った肌はきめ細かく白い。隆明はまるで、この王朝の集大成のような美しさを持っていると噂されている。

「もうここへ気楽には来れませんね」

 珍しく感情的なことを言う晶鈴に、隆明は少しばかり明るい気持ちになる。

「寂しいか?」

 そう尋ねられても晶鈴にはわからなかった。しかし隆明の残念そうな表情を見るのは嫌なので「ええ……」とあいまいに答えた。

「太子となってもまた来る」
「それは……」

 確かに太子となっても、本格的に政治にかかわることは先なので、ある程度は自由の身だ。ただ太子の儀式の後、太子妃選びが待っている。彼が妃を召せば、晶鈴に気軽に会う行為を咎められることもあろう。法によると、太子になってまず正室を娶り、その翌年側室を2人、入内させることになっている。
 晶鈴も隆明もまだ少年少女と大人の狭間で揺れ動き、男女の情念には疎かった。お互いに対する感情にもまだ名称はなかった。

「とうとうその髪も結い上げるのですね」
「そのようだな。このままでも冠を被ることができるだろうに」
「でも、結い上げた髪にかぶったほうが恰好がいいですよ」
「そうかなあ」
「でも、兄さまの綺麗な髪が見られなくなるのは残念」

 そっと長い毛先を撫でながら晶鈴がつぶやくと「ここに来たら冠をとるさ」と隆明が明るく言う。

「だめですよ。他所で冠を脱いで帰ったなんてことがばれたら」
「はははっ。そちが結えばいいだろう?」
「無理です。私はあまりそういう器用さはないんです」

 本当に太子になってもこうやって楽しく会えるのかどうかわからない。公的な場で、太子が占い師として晶鈴を召すことは可能だ。

「時間が経つのはあっという間だな」

 出会ってから数年間は自由に2人は会って楽しい時間を過ごすことができた。王子や姫たちの境遇は、何らかの立場が決まるまで比較的自由だった。

「そういえば今まで何も占ってもらったことがないな」
「ああ、そうかも」

 なにも悩みのない隆明は占いを望んだことはなく、晶鈴も占おうかといったことはない。占ったのは初めて出会った時だけだった。会えば、庭で毬を蹴ったり、石を飛ばしたり馬に乗ったりと子供らしく遊んできた。年の近い弟の博行とは、王后がまだ幼いからと一緒に遊ばせなかった。隆明にとって気兼ねなく遊べる、年の近いものは晶鈴だけだった。

「遠乗りでもするか」
「だめだめ。儀式が控えてるのでもし怪我でもしたら……」
「はあっ。つまらん」
「儀式が終れば遠乗りもできますし、もっと楽しいことがお出来になりますって」
「例えば?」
「えーっと。もっといろいろな演奏や舞踊を観たりととか」

 儀式が済めば、国中が賑やかな祭り状態になるだろう。すでに数多の舞踊団が、披露のために鍛錬しているはずだ。

「やかましいのが楽しいのかなあ」
「もうっ。ちょっとはお立場も考えていただかないと」
「はいはい。晶妹は太子師傅よりうるさいな」
「師傅どのが、甘いのでは?」

 率直に臆せず話す晶鈴が、隆明にとって一番居心地の良い相手だと改めて思う。もう少し一緒に過ごしたいと思う頃、正午の鐘がなる。

「もうお帰りにならないと」
「そうだな」

 するっと立ち上がり、名残惜しそうに隆明は部屋を一通り眺める。

「何か、欲しいものはないか?」

 晶鈴は笑んで首を横に振る。隆明も返事がわかっていて聞いた。この穏やかな時間がもう少し欲しいだけだった。
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