花とかけはし鶯

冬原水稀

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1章 幽霊と写真家青年

3.常連と風景写真【4】

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 その存在は、頭からゆっくりゆっくり、水上に上がっていく。まるで水底から水際まで、今普通に歩いてきたかのようだった。後ろで淡い白色の髪をお団子にした頭。その次に、切れ長の睫毛に囲われた穏やかな瞳。それを備える顔。肩。胸──……。水面から徐々に姿を表し、最後に脚……と言っても先ほどの精霊たちと同じく、脚は無かった。裾の長い、チュニックワンピースのような服を纏っている。その色は純白。その上、羽衣が彼女の周りを浮いていた。
 そう。精霊たちは皆中性的だったが、「彼女」は「彼女」と認識が出来た。
 彼女は泉から出た後、カメラに映らぬようそっと脇に避けて、そこにあった大岩に座った。一つ一つの動作に目を奪われてしまう。とても麗しい佇まいだ。
「……仰っていただけたから、撮ってしまおうか」
 朝香は再びカメラを構えなおす。
「多分、僕らに話があるんだと思う」
「話? ……そもそも、あの方も精霊なの?」
「違いねぇが、ありゃもっと高貴な存在だな」
 明は、無遠慮に彼女へ視線を投げる。彼女は気付いているのだろうが、泉を眺めたままこちらに視線は寄こさなかった。
「あいつらと違って言葉が発音できる。それにあの霊力だ」
「おそらく、この泉の精……というところだね」
 あっさりと話を交わす二人。常識の範囲が分からないユウは混乱した。たぶんすごいんだろう、ということは分かるけれども。
 朝香は数枚シャッターを切ると、カメラをユウへ見せるように差し出した。ユウは頷いて、カメラに額をあててみる。どうやらこのカメラの中にも「何か」がいるらしく、カメラにユウが額を当てて、撮った写真を確認するという事が恒例になっていた。
 目を、閉じて。

 ──空の青と、泉の青に挟まれた、木の緑のサンドウィッチ。空の青は気が遠くなるくらいに奥の奥まで染まり、対して泉は、青を透かして通り過ぎていく光がそのまま写真にも映っていた。肉眼で見るよりも、光は柔く目に優しい。この泉は肉眼で見ても美しいけれど、少し眩しすぎるから。写真は光までもを丁度よく切り取り、収めていく。そして泉に踊る波紋は、木々の間を小走りに抜けてきたそよ風を感じさせた。

「……えぇ。大丈夫よ。ボケていないし、何だかとっても涼しい写真」
「ありがとう。ユウは写真から色々感じ取ってくれるから、頼もしいな」
 ユウは照れ隠しに微笑む。こんな様子も朝香にはお見通しだろうが。
 朝香がカメラを完全に降ろしきり、首にかけなおす。改めて、彼女の方へと歩を進めた。ユウも明もそれに続く。
「お待たせいたしました」
 朝香がそう声をかけると、彼女はようやく、視線をこちらへ向けた。それからゆったりと立ち上がり、深々と頭を下げる。あまりにも丁寧で優美な動作に、ユウも慌てて頭を下げ返した。朝香と明も普通礼程度に返す。
『焦らせてしまいましたか? 申し訳ございませんでした』
「いいえ、構いませんよ。細波朝香です」
『えぇ。朝香さんに明さんにユウさん』
 彼女は名乗る前に名前を告げて、微笑む。
『私は泉水イズミと申します。この泉の精です』
 ゆったりと微笑む精……泉水。彼女の白髪は、角度によって淡い水色へと色を変えた。
精霊うちの者たちがお邪魔をしてしまったようで……重ね重ね申し訳ございません』
「お気になさらないでください。彼らにはここまで案内していただいて、感謝しています」
「……それより、朝香に何か用があるのか?」
 明が切り込む。相も変わらずに態度は変わらないままだったが、そこは明の美点にも思えた。泉水は気にする様子もなく、頷く。
『共に来てはいただけませんか。……人の子たちに、助けていただきたいことがあるのです』


 泉水に連れられ、三人は再び森の中へと入っていった。何を助けるのだろう。この三人で出来ることなのだろうか。疑問に思うことはいくらかあったが、とりあえず泉水についていくことにする。
 宙に浮いたまま、先導する泉水。険しい道ではなかった。が、段々と日の当たらない方へと向かっている気がする。そわり。風とは違う寒気が心を逆撫でるようにやってきた。
(どこへ向かっているのかしら……)
 気が付けば、鳥の声もしない。動物からの視線も感じない。完全なる静寂へと脚を踏み入れている。泉水には悪意も敵意も無いので、変な場所に連れていかれる、ということはないだろうが。朝香も明も黙ったままだ。
 緑の景色が、より黒く、濃くなっていく。昼から夜へと、空の色が変わるように。
『こちらです』
 泉水が、こちらを振り返る。その場所を紹介でもするかのように、片腕でその先を指し示した。
 そこは、また、木の開けた場所だった。
 しかし先ほど美しい泉を見つけた時とは感覚が違う。泉のあった場所に辿り着いた時は、眩いばかりの温かさに出迎えられ、そう、特別な感覚に心臓がわくわくした。けれどここは、静かに突然、ぽっかり空いた穴のようだ。心がそわそわと、落ち着かない。まるで知らない誰かの秘密基地を見つけてしまったかのような居たたまれなさ。
 日の光も、ここでは空気を読むかの如く一筋差すだけ。空気中のチリが時々、光る。しかしそれもすぐに、恥ずかしがって溶けるように、消える。
 その中心に、柔らかい新緑の葉が幾重にも積まれていた。それはまさに寝床。その葉の上で、中心で、何か大きな獣が体を丸めている。
 明が息を飲んだ……気がした。
「朝香……あれは見えるか?」
「……いや、残念ながら、僕には見えないな。けれど気配はする。何か、いるんだね」
 ユウも、息を飲む。朝香が見えないということは、あれは霊的な存在ではない。何をそんなに驚いているかというと……オーラに、空気に、気圧されているのだった。これが普通の生者の放つ空気なのか、と思うと驚いてしまう。いや、厳しい自然に生きる生者だからこそ、なのだろうか。


 そこには、大きな牡鹿一頭が眠っていた。
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