紅に恋う

園下三雲

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  触れよ、花を  その色を手いっぱいに

 娘は子守唄の一節を口ずさむ。その前もその先も歌わずに、娘はグイと松の王から体を離して、松の王の手を強引に取ると自分の頬に触れさせた。

「私に触れて。もっと。もっと!」

 珍しく語気の強い娘に戸惑いながら松の王が目を見ると、

「生きよ、きみを。でしょう?」

と娘は涙ながらに優しく微笑んだ。

「私を妻に選んだのは、私が罪の無い人間だと思ったから?」
 娘が柔らかく尋ね、
「それだけではないが、それも一つの大きな理由だ」
と松の王も正直に答えた。

「お願い。何も憚らないで」
「……私は最も天から遠い人間だが、その妻が最も天に近い人間であれば、生まれ来る子は私の罪を負わずに済むだろう?」
 そう聞いて娘は「そう」と頷いて、暫く何かを考えていた。「ごめん」と松の王が謝ろうとする前に娘は彼の唇に指を置いたから、屋敷には外から聞こえる雨風の音と火の小さく爆ぜる音ばかりが聞こえている。


「鉦子の弟は、一日三つまでの焼き菓子をこっそり五つ食べているわ」

 漸く口を開いたかと思えば、娘はまるで脈絡の無い暴露話を始めた。理解が追い付かず間の抜けた表情でいる松の王をよそに娘は話を続ける。

「私の叔父はお酒を飲んだ夜には必ず小川の中で寝小便をするし、犬飼いの家の姉妹は笛子を取り合って互いに小さな悪戯ばかり仕掛けている。その笛子はと言えば、その笛の巧さをいいことに、嫌なことがあると小鳥らの嫌がる音を出して玩んでいるのよ」
「……そんな、まさか」
「貴方が手本にしていた桂の王だって、妻がある身でありながら、何度も私の母に会いに来ていたわ。二人はそれを隠していたけれど。だから私、貴方に私の家で暮らしてくれるように頼んだの」
「私がいると、桂の王が来づらくなると期待して?」
「ええ、そうよ。私のために。親の不貞ほど目を背けたいものはないでしょう?」
 そして娘は松の王の目をじっと見つめる。

「ねえ、松の王。皆、罪人なのよ。生きていれば、罪に汚れない手などきっと無いわ」
「でも――」
「松の王は私を清らかだと言う。このムラの誰よりも。だけどそれは間違いね。本当に清らかならば、あの埋葬の日に私は貴方に泣きついたり、体を重ねたりしない。滾る嫉妬に心を委ねて、貴方がくれる唇に満足を覚えたりしない」
「嫉妬?」
「だって私は、柊には敵わない。あれほど賢く、美しく、凛として、天と繋がることの出来る者を他に知らない。貴方を理解し、支え、時に導くことの出来る者は柊しかいない。それは、私じゃない」
「そんな、そんなことはない。たしかに柊はよく出来た人間だが、彼は私のずっとずっと先にいる。憧れこそすれ、私の傍らに在ってほしいなどとは思ったこともない」
「本当に?」
「本当だ。私が妻に望んだのは、ただ一人だけだよ」
 松の王の偽りの無い言葉に、娘は大きく息を吸い口に手を当てた。
「ふふ、ふふふ。ねえ、この涙を貴方は何と見る? 喜び? ときめき? いいえ、そんな綺麗なものではないのよ。とびきり特別な優越感だわ。胸がすいて仕方がないの」
 心底嬉しそうに笑いながら涙を流す。娘は自分の愚かさを教えたつもりだったろうが、松の王には、そんな娘の姿が何よりも健気で愛らしく見えていた。

「きっとこのムラで最も天に近いのは婆さまよ。見たでしょう、桂の王を思って流す涙を。婆さまはムラの一人一人をよく見てくださっている。私たちが迷うときは、必要な唄と言葉をくださる」
 そして娘は、ふふ、と悪戯っぽく笑ってみせる。
「どうする? 私ではなく、婆さまを妻になさって子を作る?」
「恐ろしいことを言わないでおくれ」
「ふふ、いつも貴方が私に言うみたいに、少し意地悪をしてみただけよ。貴方があまりにも悲しいことを言うから」
 娘は落ち着いた眼差しで微笑むと、松の王の両手をふわりと包んだ。

「お願いよ、松の王。罪に溺れるのは簡単だけれど、そこで息の仕方を覚えようとしないで。己の罪の重さを知る貴方は、きっと天に還れるから」

 松の王はなんとなく居心地の悪さを感じていた。自分のことを大切に思ってくれているのが分かるから気まずくて、目を逸らしたくて、でもそうするのは勿体無いような奇妙な心持ちだった。

「貴方が抱えるのは、貴方の分の罪だけでいい。けれど決して目を逸らさず、誰の為でもなく貴方自身の為に、正しく生きる努力をして。貴方は生きている。そのことに嘘も真も無いのだから」

 甘えてしまいたい。

 思い切り泣きついてしまいたい。

 そう思う心のまま振る舞うことは松の王には出来なくて
「私は、そう出来るだろうか」
と弱々しく尋ねると、娘は慈愛に満ちた表情で松の王を包みこむように抱きしめた。

「傍らに私を置いてくださるのなら」

 愛、とはこんなものだろうか。松の王は娘の肩に頭を預けたまま、とくとくと感じる温もりを味わっていた。

 娘のそれは、求め続けていた母のそれによく似ている気がした。叱られて、許されて、支えられて、導かれて、抱きしめられて、真っ直ぐに目が合って、自分のことを思ってくれている。どれだけ醜態をさらしても見捨てられることなど無いのではないかと思えるほどに安心する。離れがたい。いつまでも、この腕の中にいたい。

「松の王」
 屋敷の外から声を掛けられて、娘はさっと身を離した。「あ」と思わず声を出した松の王の隣にピタリとくっついて座り、大丈夫よ、と手を握る。

「ごめんください、入っても良いかな?」
 戸からこちらを覗き見る柊に「どうぞ」と娘が返事をした。

「突然ごめんなさい。これ、子どもたちが」
 編み籠を掲げて柊が入ってくる。出迎えに娘が立ち上がろうとしたのを、柊は手で制した。

「暫く二人の顔を見ていないものだから、寂しくなったみたいで。はじめは二人の人形を作っていたのだけれど、その内にムラの皆の分も作るようになったんだ」
 柊はそう言って、松の王のそばに編み籠の中身を広げて見せる。
「二人にこれを届けてほしいって言われて持ってきた。『寂しくなったら、これを見て私たちを思い出してね』『大好きだよ』『早く会いたい』って伝言を預かってる」
 ムラの民全員の顔を模した人形は、どれもにっこりと笑っていた。正直なところ松の王にはそれぞれが誰なのか区別はつかなかったが、子どもたちが楽しげに作っている様子がありありと浮かぶようで、胸に込み上げるものがあった。

「……ハハ。なんだろう。すごく嬉しいよ」
 はにかむように、涙するように、松の王はくしゃりと笑った。人形を一つ一つ手にしては、じっくりと細部まで丁寧に眺めている。

「私は、こんなにも愛されて良いのだろうか」
「あら。罪の意識にかまけて子どもたちの好意を無碍にすることの方が、余程許されないことだと思うわ」
 人形を一つ手に取って娘が言うと、
「手厳しい娘を妻にとったね、松の王は」
と柊が苦笑した。

「柊だって、隠している罪の一つや二つ、あるでしょう?」
「罪?」
「ええ」
「例えば、晴れた日には舞の練習をさぼって昼寝しているとか?」
「そう! ほら、松の王。柊だって清廉潔白なんかじゃないのよ」
 それ見たことかと言わんばかりに胸を張る娘に、柊は訳も分からずに「う、うん?」と一先ず頷いておく。

「……思いの外、皆、正しい行いばかりして生きているわけでは無いのだね」
 ポツリと松の王が言った。
「その罪の大小はあるかもしれないけれど、生まれてから一度も嘘をついたり、怠けたり、後ろ暗い気持ちをもったりしない人間なんていないんじゃないかな?」
 柊は、罪がどうこうという松の王と娘のやりとりがいまいちよく分からなかったが、なんとなく話を合わせていた。両親をあのように亡くして気落ちしているのだろうと
「元気を出して。もうすぐ、冬の祭儀もあるのだから」
と励ますと、松の王はハッとして、それからため息をついた。

「ああ、そうだった。このところ祭儀続きだ」
「色々と重なってしまったものね」
「この度もまた、天と繋がることは出来ないのだろうな」
「死の、その間際になっても、私たちには分からないかもしれないね。でも、それで構わないじゃない。私は私を、松の王は松の王を、丁寧に愛して生きていけたら、それだけで」
 柊が言うと、松の王は「うん……」と俯いて手をじっと見つめてしまう。

「天はお怒りじゃないだろうか」
「え?」
「私をはじめとして、このムラの民は罪を持つ者が多いようだから」
「ふふ。そんな事は今更でしょう」
「そうだけれど」
 松の王が弱音を吐いて、娘が一つずつ打ち消していく。その様子に、どうやら自分は励ましに失敗したのだと察した柊は別の一手を少し勘案し、その後、ポン! と手を叩いた。

「いっそ、皆で火に焚かれてみる?」

 持ちかけられた突飛な提案に
「火に?」
と松の王と娘は声を揃えて聞き返す。
「火に」
 繰り返すように答えた柊は、得意気に笑って頷いてみせた。
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