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暁を行く鷗
24.
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「これ……」
頁を捲れば、街での買い物の仕方、道の歩き方、馬車や電車の乗り方など、山を下り街に出た時に役立つ事項が一つずつ纏められていた。丁寧な読みやすい字で、殆ど街を知らない俺にも分かりやすく書かれている。
「知らねえってことは悪いことでも恥ずかしいことでもない。だけど知らずに生きてきたことで困る状況なんてのは幾らでもあるからな」
ぶっきらぼうな物言いに優しさを感じる。きっとこの間の買い物で俺があまりに物を知らなかったから、このたった五日ばかりでこんなにもこまめに纏めてくれたのだろう。出来すぎた友人に頭が上がらない。
「ありがとう……。ごめん、わざわざ、俺のために」
帳面を胸に抱いて礼を言うと、橘はザッと半身を引いて、どうしてか鋭い目を俺に向けた。
「おい、お前ふざけんな。誰のためだって?」
唐突に向けられた如実な怒りに足が竦む。何かまずいことを言ったのだと分かっても、謝ろうにも声が出せない。
「それはお前のためなんかじゃねえよ。俺が俺の意思で作ったんだ。お前がそれを使おうが捨てようがお前の自由だ。俺の行動の責任、勝手に背負い込んでんじゃねえよ」
橘の言うことが分からない。恐怖で半分動かない頭をどうにかこうにか回しても、まったくもって言葉を理解することが出来なかった。
「だって、これ、俺が困らないようにって作ってくれたんじゃ」
「ああそうさ。俺がいなくてもお前が困らないように何か出来ねえかって、俺が思ったから作ったんだ。俺が俺の感情や意思に背きたくなかったから行動した。俺のためだよ。お前なんかのためじゃねえ」
グイ、と胸ぐらを掴まれる。向けられる視線が真っ直ぐに熱い。
「いいか。お前のためだ、なんて言い方する奴は臆病者なんだよ。自分が取った行動を誰かのせいにしたがってるだけだ。他人を自分の思うように動かしたい。自分の行動の責任もそいつに丸投げしたい。そんなこと思ってる奴と俺を一緒にするな。俺の感情も意思も行動も、全部俺だけのもんだ」
ああ、そうか、と納得した。常々感じる橘の強さは、短く切り揃えられた髪の毛のお陰でよく見えるようになった整った眉毛や凛々しい目のせいだけではなくて、何よりも彼自身の誇り高い心だと知る。自他への厳しさも優しさも、根底にあるのは己への信頼なのだ。
「責任ってのはな、重たいんだよ。だから誰かに投げたくなる。預けたくなる。自分が誰かにそれを肩代わりさせようとしてるってことに 微塵も気づかずに生きてる奴だってごまんといる。だけどな、お前の肩は、お前が背負うと決めた責任しか乗せらんねえんだよ。他人からいきなりぶん投げられたもんなんか乗せてる余裕どこにもねえんだ」
橘は俺を持ち上げんばかりの勢いで胸ぐらを掴み直す。
「いいか。今まで俺が並べた御託のこれっぽっちも分からなくていいから、今から言うことだけ覚えとけ」
バチッと目があって、呼吸するのも躊躇われた。
「お前のため、は、お前のためじゃねえ。んなこと言ってくる奴の話は切り捨てろ」
「……分かった。ありがとう」
「礼を言われる筋合いなんざねえ」
橘はそして俺から手を離す。思わずその場に崩れ落ちると
「腰抜かしてんじゃねえよ、馬鹿」
と橘がいつものように笑うから、漸く俺も息が出来た。差し出してくれる手に掴まって立ち上がる。ふと橘の胸元に目がいって、なんとなく寂しさを感じた。
「……なあ、お前、藍栗鼠はどうした?」
「ああ、掛長に預けたよ。さすがに戦場に連れていくわけには行かないんでな」
あっけらかんと言う橘に一瞬流されそうになって、「戦場」という言葉がどうにか耳に引っ掛かった。
「お前、出兵するのか」
「おう」
「帰って、こいよ」
「なんでだよ」
半笑いの橘に絶句する。
「なんでって、なんでも何もないだろ! 死ぬなよ! 絶対生きて帰ってこいよ! っていうか、戦場なんて行くなよ! 危ないだろ!」
震える。手が、足が、声が、恐怖でも興奮でもなく大きく震える。
「お前な。俺らが大切に保護してきた神獣、力ずくで奪おうとする奴らだぞ。俺は今からワクワクして仕方ねえんだ。思いっきりぶん殴ってやれるんだからな」
橘の言葉はきっと偽りではなくて、だけど――、だから、苦しい。
「俺は絶対に神獣を渡さない。神獣を護って死ねるならこれ以上名誉なことはねえんだ。たとえこの戦が我が国の勝利に終わろうが敗北しようが、そんなことはどうだっていい。俺は神獣保護掛の官吏として戦うんだ。命を懸けるのは、国にじゃなくて、この国に住まう全ての神獣達にだ。それが誇りだ。俺の矜持だ」
ドン、と左胸に拳を当てる橘があまりに気高く、美しいから哀しい。
「お前が生きて帰ってこなきゃ、藍栗鼠も此処にいる神獣も悲しむってこと、忘れてんじゃねえよ」
何度唾を飲み込んでも涙は止めどなく溢れてしまう。苦しくて苦しくて体が裂けてしまいそうで、
「泣いてんな、馬鹿」
と橘に乱暴に頭を撫でられたら最後、もう感情を抑えることなど出来なかった。
頁を捲れば、街での買い物の仕方、道の歩き方、馬車や電車の乗り方など、山を下り街に出た時に役立つ事項が一つずつ纏められていた。丁寧な読みやすい字で、殆ど街を知らない俺にも分かりやすく書かれている。
「知らねえってことは悪いことでも恥ずかしいことでもない。だけど知らずに生きてきたことで困る状況なんてのは幾らでもあるからな」
ぶっきらぼうな物言いに優しさを感じる。きっとこの間の買い物で俺があまりに物を知らなかったから、このたった五日ばかりでこんなにもこまめに纏めてくれたのだろう。出来すぎた友人に頭が上がらない。
「ありがとう……。ごめん、わざわざ、俺のために」
帳面を胸に抱いて礼を言うと、橘はザッと半身を引いて、どうしてか鋭い目を俺に向けた。
「おい、お前ふざけんな。誰のためだって?」
唐突に向けられた如実な怒りに足が竦む。何かまずいことを言ったのだと分かっても、謝ろうにも声が出せない。
「それはお前のためなんかじゃねえよ。俺が俺の意思で作ったんだ。お前がそれを使おうが捨てようがお前の自由だ。俺の行動の責任、勝手に背負い込んでんじゃねえよ」
橘の言うことが分からない。恐怖で半分動かない頭をどうにかこうにか回しても、まったくもって言葉を理解することが出来なかった。
「だって、これ、俺が困らないようにって作ってくれたんじゃ」
「ああそうさ。俺がいなくてもお前が困らないように何か出来ねえかって、俺が思ったから作ったんだ。俺が俺の感情や意思に背きたくなかったから行動した。俺のためだよ。お前なんかのためじゃねえ」
グイ、と胸ぐらを掴まれる。向けられる視線が真っ直ぐに熱い。
「いいか。お前のためだ、なんて言い方する奴は臆病者なんだよ。自分が取った行動を誰かのせいにしたがってるだけだ。他人を自分の思うように動かしたい。自分の行動の責任もそいつに丸投げしたい。そんなこと思ってる奴と俺を一緒にするな。俺の感情も意思も行動も、全部俺だけのもんだ」
ああ、そうか、と納得した。常々感じる橘の強さは、短く切り揃えられた髪の毛のお陰でよく見えるようになった整った眉毛や凛々しい目のせいだけではなくて、何よりも彼自身の誇り高い心だと知る。自他への厳しさも優しさも、根底にあるのは己への信頼なのだ。
「責任ってのはな、重たいんだよ。だから誰かに投げたくなる。預けたくなる。自分が誰かにそれを肩代わりさせようとしてるってことに 微塵も気づかずに生きてる奴だってごまんといる。だけどな、お前の肩は、お前が背負うと決めた責任しか乗せらんねえんだよ。他人からいきなりぶん投げられたもんなんか乗せてる余裕どこにもねえんだ」
橘は俺を持ち上げんばかりの勢いで胸ぐらを掴み直す。
「いいか。今まで俺が並べた御託のこれっぽっちも分からなくていいから、今から言うことだけ覚えとけ」
バチッと目があって、呼吸するのも躊躇われた。
「お前のため、は、お前のためじゃねえ。んなこと言ってくる奴の話は切り捨てろ」
「……分かった。ありがとう」
「礼を言われる筋合いなんざねえ」
橘はそして俺から手を離す。思わずその場に崩れ落ちると
「腰抜かしてんじゃねえよ、馬鹿」
と橘がいつものように笑うから、漸く俺も息が出来た。差し出してくれる手に掴まって立ち上がる。ふと橘の胸元に目がいって、なんとなく寂しさを感じた。
「……なあ、お前、藍栗鼠はどうした?」
「ああ、掛長に預けたよ。さすがに戦場に連れていくわけには行かないんでな」
あっけらかんと言う橘に一瞬流されそうになって、「戦場」という言葉がどうにか耳に引っ掛かった。
「お前、出兵するのか」
「おう」
「帰って、こいよ」
「なんでだよ」
半笑いの橘に絶句する。
「なんでって、なんでも何もないだろ! 死ぬなよ! 絶対生きて帰ってこいよ! っていうか、戦場なんて行くなよ! 危ないだろ!」
震える。手が、足が、声が、恐怖でも興奮でもなく大きく震える。
「お前な。俺らが大切に保護してきた神獣、力ずくで奪おうとする奴らだぞ。俺は今からワクワクして仕方ねえんだ。思いっきりぶん殴ってやれるんだからな」
橘の言葉はきっと偽りではなくて、だけど――、だから、苦しい。
「俺は絶対に神獣を渡さない。神獣を護って死ねるならこれ以上名誉なことはねえんだ。たとえこの戦が我が国の勝利に終わろうが敗北しようが、そんなことはどうだっていい。俺は神獣保護掛の官吏として戦うんだ。命を懸けるのは、国にじゃなくて、この国に住まう全ての神獣達にだ。それが誇りだ。俺の矜持だ」
ドン、と左胸に拳を当てる橘があまりに気高く、美しいから哀しい。
「お前が生きて帰ってこなきゃ、藍栗鼠も此処にいる神獣も悲しむってこと、忘れてんじゃねえよ」
何度唾を飲み込んでも涙は止めどなく溢れてしまう。苦しくて苦しくて体が裂けてしまいそうで、
「泣いてんな、馬鹿」
と橘に乱暴に頭を撫でられたら最後、もう感情を抑えることなど出来なかった。
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