【完結】『ルカ』

瀬川香夜子

文字の大きさ
上 下
30 / 35
三章

しおりを挟む

 ガタガタと揺れる車内で、リアは身を固くしていた。隣にはハリスが座り、向かいの席にはハリスの母―――アニーナが腰かけている。
 事態を把握する前に勧められるがまま、こうして馬車に乗ってしまったが良かったのだろうか。先ほどからハリスがずっと険しい顔をしているのも気にかかる。
 突然二人の前に現れたアニーナは、ドレスの裾が地面につくことなど気にもせず、ゆったりとした足取りでリアの前に立った。
「ハリス、長い間ご苦労だったわ。休暇をあげるから貴方はまだウノベルタでのんびり過ごしなさい」
 一方的にハリスに言いつけ、アニーナはリアを見渡して笑みを深める。
「うん、元気なようでなによりだわ。いてもたってもいられずに迎えに来てしまったの。さあ、乗ってちょうだい」
 有無を言わさぬ笑顔に戸惑いつつ説明を求めようとしたが、横から「私も行きます」とハリスが挟み、リアは何も言えずじまいだ。
 ハリスが家に手紙を出していたからアニーナがリアたちの居場所を知っていてもおかしくはない。
 しかし、先ほどのアニーナの言葉を振り返るに、迎えという言葉はリアに向けられていた。リアには何も心当たりがない。記憶が定かではないため、面識があったのかはわからないが、実の息子を差し置いてその連れに用事があるなどあまり考えられない。
(この人がハリスのお母さん……)
 失礼にならないよう、僅かな時間だけ視線を向ける。確かに長い癖のある髪も、丸い大きな瞳もハリスと同じ赤い色だ。それに、目元がよく似ている。
 スラリと切れ長なハリスの眼と、女性にしては少し吊り上り気味のアニーナの眼は似た印象を持たせた。
(この人が、ハリスにあんなことを言ったの……?)
 今のにこやかな様子からは想像も出来ない。傍から見ている分には優しそうな雰囲気を感じ取らせる。
(子供を無下に扱う気配なんて……)
 そこまで考えて、スッと丸い瞳が移動してリアを見た。交わった瞳が閉じられる。薄く鋭い赤い眼差しにぞっとした。
 逃げるように俯いて膝の上で拳を握る。冷や汗が首筋を流れる。
 優しい?にこやか?
―――違う。
 彼女はただ笑んでいるだけだ。正しくそういう風に表情を作っているだけなのだ。
(目が笑ってない……)
 長い睫毛に縁どられて輝く瞳は、暖かさの象徴でもある赤色にも関わらず底冷えするほどに温度がない。
 きっと幼いハリスもこの瞳に見据えられていたのだ。
 大人になったリアでさえ、この女性の視界から逃れたくて仕方がないのに、幼いハリスは実の母から向けられた眼に何を思ったのか。
 他人であるリアに対してだからだと、そう思えたらよかったがそんな希望は持てそうにない。この女性が心から笑う様が思い浮かばなかった。
(人を見る目じゃない)
 同じように椅子に掛けているのに、きっとアニーナはリアのことなど同じ人間だとは思っていない。珍しい生き物を見るような興味と時折見え隠れする嫌悪。
 なぜそんな目で見られねばならないのか、リアには見当もつかない。
 怯えたリアの体が勝手に震えだす。それを見たハリスは、拳に手を添えて宥める。しかし、ほっと息をついたのも束の間。一喝する声が二人を割く。
「ハリス、誰に許可を得て触れているの」
「はい、すみません……しかし……」
「ハリス」
 アニーナが名を呼んだだけでハリスの息が詰まるのが分かった。それでもハリスはリアから手を離すことはなく
「混乱しているので、しばらくは……」
 と言い募る。
 アニーナは初めて笑みを消した。
 何を言ってるのと初めて見たものに向ける不気味さを携えてから長く息を吐いて肩を竦める。
 聞き分けがないハリスに呆れているようでもあった。
「怪我もなく無事で見つかってよかったわ。大事な身体だもの何かあったらって気が気ではなかったのよ」
 その美しい顔がリアを向く頃にはコロリと表情が変わってまた笑みが乗る。それがひどく恐ろしい。
 この人は何故笑っているのかわからない。
「あの、アニーナ様……」
「あら……なに?」
 リアが言葉をかければキョトリと赤目が瞬く。まるでリアが喋ることに驚いているみたいだ。
「この馬車はどこへ向かっているのでしょうか……」
「神殿よ。魔力を取り戻してもらわないと話にならないもの」
 当然だと言い切るアニーナに、リアの混乱は余計に大きくなる。
 アニーナの口ぶりを見るに、純粋にリアのことを気遣って魔力を取り戻そうとしているわけではないとわかる。
 まるで、何か目的があるかのような……。
 リアの困惑に気付いたのか「ああ」と納得した声を上げてアニーナは首を傾ける。
「記憶がなかったわね……ハリス、貴方何も説明していないの?」
「一度は本人が承諾した事とはいえ、記憶のないうちに話してはいらぬ混乱に繋がるかと」
「別に今更逃げられやしないのだから関係ないわ」
 ハリスは、知っているの?
 瞠目してハリスを見る。気まずそうに赤い瞳が揺れたことで、それが事実なのだと突きつけられた。
(二人が何の話をしているのかわからない)
 裏切られたような気分に陥る。触れている手の熱が、どこか遠くに感じられた。
「貴方は神になるのよ」
―――とても名誉なことでしょう?
 そう信じて疑うことのないアニーナの瞳は、どこまでいってもリアを映すことはない。
 ハリスと形作る前に、リアの口は息を止めて呆然と佇む。
 ダラリと力が抜けて手が膝から滑り落ちる。ハリスの手は、追いかけて来なかった。

―――リオリス国。
 遥か昔、この地に降りた神と人々によってつくられた国。
 神はこの大地の基盤を作り、生きるための術を教え、最後には人の手にゆだねて天へと還った。
 しかし、それはあくまで表向きの事情である。
 リオリス国には、現在も神は存在している。王都の本殿地下で人々から姿を隠すようにずっとそこで国を見守っていた。
 年月と共にその身を変え、いつの時代もそこに「いた」のだ。

「あなたは次の神の依り代に選ばれたのですよ。リア」
 アニーナの頬に色がつく姿を呆然と見ていた。
「ルカ様は何も言わないけれど私たちにはわかります。もうお身体は限界のはず。だから早くあなたの身体を捧げなくてはならないのです」
 何を言われているのかわからなかった。神に身を捧げる?俺が?
 そのためには魔力を体に戻さないといけない。それなら、今までリアがは神殿を巡っていたのはそのためだというのか。
 ハリスは、それを知っていて……。
 縋る気持ちで視線を向けても、ハリスは唇を噛みしめてリアとは目を合わせない。
(ずっと隠してたんだね……)
 記憶のないリアがそれを拒否することが無いように。
 一度はリアはそれに承諾したと言っていた。それなら、今の自分に出来ることは何もない。
 何もする気が起きなかった。
「イツキくんは……」
 神が存在しているというのなら、彼は何なのか。中途半端に口から漏れた疑問を読み取ったハリスが重く唇を開く。
「異世界から来る神子は表に出られなくなった神の代わりだ。人の体を転々としているなどと知れたら国民からの反発は免れないから」
「あんな紛い物でルカ様の代わりなど勤まるものですか。民衆だってそんなことを思う者などいないわ。望めばなれるわけではない。ルカ様の豊潤な魔力に耐えられる体で、且つどの自然たちとも親和性の高い者でなくては……選ばれることはとても名誉なことなのですよ」
 ああ、だからアニーナはリアが言葉を発すると不快さを滲ませるのかと納得がいった。大事なのはリアの身体だけで中身に用はないのだ。
 身を捧げると言うことは、リアの意識はどこへ行くのだろう。死ぬと思っていいのだろうか。
 ハリスもずっとそういう目で俺のことを見ていたの?
 違うと言いたい。いつだってハリスはリアを気遣ってくれて優しさを向けてくれた。それがハリスの本質から来るものだとしても、アニーナのように無機物を見るような目でリアを見ない。
 でも、それさえもリアの体が大事な依り代であるからだとしたら?川に落ちたリアとイツキを必死に追いかけてくれたのだって大事な神子二人の身体だとしたら?
 仕事だってわかってはいた。けれど、仕事だからと理由をつけるには限界がある。でも、大事な依り代を預かっていたとするなら、納得できることもある。だって国の一大事だもの。
――それなら
 あなたに触れられて、見つめられて。喜んでいた俺の心は、一体どこに置けばいいのだろう。
 気力なく俯いたリアを、ハリスが様子を窺っている。その心配そうな素振りさえ、どこに向けられているかわかってしまった今ではリアの心を動かすことはない。
 以前なら気にかけられて喜んでいただろうが、今は軋んだように痛むだけだ
 静かな車内で、二人の間には重い空気が落ちる。そんな中、アニーナだけは機嫌よく外の風景に目を向けていた。

 ※

 しばらくして馬車が停まる。「着いたわよ」と待ちきれない様子でアニーナはさっさと外に出てしまった。
 リアも続いて降りようとすれば、それまで沈黙していたハリスが引き留める。
「行くのか」
「はい」
 なぜ、そんなことを言うのかわからなかった。ハリスだって望んでいることだろうに。
「リア、それは君の意志か」
「あなたが、それを言うの?」
 こうなるように仕向けていたのに、今になってそれを聞くのか。裏切られた悲壮感の中から怒りに似た感情が少しずつ熱量を増していく。
「どうして今更そんなことを言うのさ!」
 気付けば感情のままに声を荒げた。憤然とハリスに募る。
 このまま送り出してくれたらよかった。そうしたら、悲しみにくれたまま考えることを止めて死んでいけた。
 いつもいつも、ハリスはリアに諦めさせてくれない。最後に少しだけ希望を見させて距離を取ることを良しとしてくれない。
―――半端な気持ちで、これ以上を俺の心をかき乱さないで。
 行きたくない、死にたくないと言えば結果は変わるのか?アニーナのあの様子でリアのことを諦めるとは思えない。リアが逃げ出したら、誰かがその代わりを果たすのか、それとも神が死に絶えることになるのか。
 たとえリア自身が生き延びたとして、どちらの道に進もうとその重責を受け止めきれると気がしない。
 自分のせいで誰かが死んだ。自分のせいで神が死んだ。そんなことを考えながら残りの時間を過ごすのなんて堪ったもんじゃない。リアはそんなに強くない。
「リア、俺は……君を死なせたくない」
 掴まれた手を、初めて拒んだ。
「ごめんなさい、ハリス。もういいの」
 あなたのその言葉を、素直に喜べる時はすでに過ぎてしまった。ハリスの手から逃れて神殿に向かう。真っ白な姿で佇む神殿は、今のリアの眼には痛いほどにしみる。
 ほら、追いかけて来ないじゃないか。どこかでなじる声が聞こえた。
 廊下には松明が置かれており、絶えず火が灯されている。暖かくなってきた気候も相まってじんわりと肌に汗がにじむ。
 揺れる炎に、どうしてもハリスを思い浮かべてしまい俯き気味に進んだ。広間に行きつき、踏みとどまる。ここに入れば、きっと今までのように魔力を取り戻すのだろう。そうしたら、もう自分に後はない。これで終わりだ。
 廊下の隅で見届けているアニーナが訝しむ。そんな顔をしなくても逃げたりしない。
 すうっと息を吸って正面に見える神と人との壁画を見ながら足を踏み入れた。
 違和感はすぐに訪れた。いつもならば広間の中央まで進めるぐらいの余裕はあるのに、一歩入った瞬間には身体の中で何かが熱を持つ。
 やけに早いなと他人事のように思いながら、このままいつもの如く意識を失うのだろうと身構える。しかし、意識は遠のくどころか更に覚醒させるべく強い衝撃がリアの体を襲った。
「はっ、あ?」
 自由を失った身体が床に倒れ伏す。ひんやりとした床の冷たさが肌の表面から伝ってくるが、それでは補えないほどの熱さが体の中で暴れる。
 痛い、苦しい、熱い
 そのどれとも違って、しかし全てが当てはまるような不思議な感覚で襲われる。自分が、正常に息をできているかすらわからない。
 いっそ気を失えたら楽なのにそれすらも出来ない。
(どうして、こんなこと今までなかったのに……)
 感じたことのないそれは確実にリアの体を蝕んでいく。ぐるぐると身体を巡る魔力は、その質量を少しずつ大きくしていきリアの身体から溢れだしそうになる。
 行き場を求める魔力がリアの細い体の中で暴れまわる。
「あっぁ、はっ」
 声も碌に出せずに横たわってただ身体を丸めるしかない状況は辛い。いっそ楽にしてくれと願った時、バタバタと騒がしい足音と共にあの赤毛が姿を現す。
「リア⁉」
 ああ、あなたの声を聞くだけで無意識に和らぐこの身体が恨めしい。
「ハリス!勝手に触れてはいけません!」
「魔力増幅用の魔方陣……! 馬鹿かっ! 魔力に慣れていない身体でそんなことをしたらどうなるかなんて目に見えているだろ!」
「な、なんて口のきき方をするの!」
 アニーナの金切り声を背後で受け止め、ハリスは膝をついてリアの体を起こす。
「リア、苦しいか?……辛いよな……」
 肩を抱かれてされるがままハリスの胸にもたれる。
 さっきはあんな乱暴な口調で声を上げていたのに、今は細い声でリアの名を呼んでいる。
(あんな風に喋れたんだ……)
 こんな状況なのに、それがおかしくて仕方なかった。アニーナが余裕な表情を崩し、蒼白な顔で絶句していたのも胸がすいた。
「リア、すまない……許さなくていい、だから、だから……」
 震えた手で頬を撫でられる。ハリスの整った顔が近づく様を、ぼやけた視界で眺めていた。ハリスの前髪がリアの額を掠める。赤い煌めきで視界が覆われて声も出す間もなく唇が塞がれた。
 寸前に消え入りそうな声で
「生きてくれ」
 とハリスが泣いた気がした。
 触れ合った口元から、少しずつ魔力が逃げていく。段々と苦しみが薄れ、疲弊した身体からは今度こそ意識がなくなる。
(まって、ハリス……どうして)
 体が鉛のように重い。どうにか腕に力を込めてハリスのシャツを掴んだが、喉を揺らすことは出来なかった。
 アニーナが憤怒の表情で見下ろしている。逃げてと告げることすら出来ず、リアはハリスの腕の中で、柔らかな熱に触れながら身を預けた。
(ああ、今なら死んでもいいかもしれない)
 自分がこんな風に誰かと触れ合う日が来るなど、リアは想像したことすらなかったから。


しおりを挟む

処理中です...