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一章
⑨
しおりを挟むゆっくりと歩き出したハリスに連れられて辿り着いたのは大通りに面した一つの宿だった。二人の間に会話はなく、ハリスが受付と短く言葉を交わして部屋を取るのを後ろで聞いていた。
昼過ぎにネバスに着いてそのまま病院に寄ったからまだ陽は高く、窓からは眩しい光が差し込んでいる。
小さな二人掛けのテーブルとベッドが二つ並んだだけの簡素な部屋が視界に入る。背後で扉の閉まる音がすると、ずっと触れていた指が離れて行った。
荷物を置くハリスの背中を見ながら離れた熱を探す様に自身の両手を胸の前で重ね合せる。
何か話したいのに何も言葉が出てこない。
リアが狼狽えているうちに荷物の整理を終えたのか、ハリスが立ち上がって入り口横に設置された扉を見る。
「昨日から歩きっぱなしで疲れただろうし風呂に入るか?どうせ今日はもう外に出ないし」
「あ、はい」
よく理解せずに反射的に頷いてしまった。ハリスは視線は余所を向いたままクイッと顎で扉を示す。先に入れということだろう。
「じゃあ、お先に……」
一度頭を下げてから浴室に向かう。あのままの空気に耐え切れずに逃げを選んだようなものだ。
(お風呂を出たら、ちゃんと話をしないと……)
わかっていたことだが、リアにはまだまだ知らない、いや忘れてしまったことが多々あるようなのだから。
脳裏にこちらを見上げた男の窪んだ血走った眼が映る。ブルリと体が震え、捕まれた腕に痛みを感じた。
それらを振り払うように頭から湯を被る。身体に張り付く自身の黒い髪をぼんやりと見下ろしていた。
互いに風呂を終え、部屋に運ばれた夕食を取っている時もハリスから声をかけられることはなかった。
リアの方から話を切り出したのは、月が空に昇って淡く照らすようになった夜。背を向けるように二人が各々のベッドに横になってからだ。
ベッドの間に置かれたサイドデスクの上の小さな照明だけが照らす室内。その光を背で受けながらリアは深く吸った息と共に小さく声を発した。
「……ハリス……」
か細く、震えも混じった声はもしかしたら届いていないかもしれないと思ったが、微かな衣擦れと共にハリスの気配がリアに向けられたことを感じて続きを紡ぐ。
「あの……時期が悪いと述べていたのと、あの老人に間違わられたことは関係があるのでしょうか?」
思えば、あの老人はリアを見上げているというよりもその髪に注視していたようだった。道行く人も、気にするのはリアの髪ばかり。
きっと「神子様」と何か関係があるのだとリアは勝手に当たりを付けている。そして、ハリスの口から漏れ出た言葉で、それが正しかったと知る。
「君はこの国の成り立ちを知っているかい?」
咄嗟にソニーの家で読んだ本のことを思いだして頷いた。そして、互いに壁を向いているのだから頷くだけでは駄目だと焦って肯定を音に出そうとしたが、それよりも早く、ハリスは続けた。
「どこまで知っている?いや、君の様子から見て黒い髪と神子の関係は知らないか?」
「……はい」
もしかして……とソロリと肩越しに背後を見る。背を向けていたはずのハリスは、今は仰向けになっており、天井に視線を注いでいる。なんとなく、リアも同じように天井を見て体を真上に向ける。
「神子はハッキリと決まっているわけではないけれど、大体五十年の周期でリオリスに降りて来るんだ。そして一様に人を癒す不思議な力を持ち、この国を支えてくれている」
「人を癒す力……」
「そう。人の病や怪我を治してくれるそうだよ。魔力を持ち、魔法を使ったとしても人体にまで作用させることは出来ないからね……それこそ神の使いとしての特別な力なんだろう」
低いハリスの声が宿の一室に響く。しかし、それはどこか輪郭が曖昧でまるでそう決められている言葉を、そのまま口にしているような印象を受ける。
(いや、この国の常識なのだとしたら、説明口調になっても仕方がないよな……)
根拠もないただの勘ではあるが、リアにはそれだけではないようなそんな気がしたのだ。
「そして、神子には癒しの力以外にも共通したものがある」
ここからが本題だとでも言うようにハリスの声が固さを増した。
ゆっくりと首が傾けられて赤い瞳がリアを映す。
「神子は代々黒い髪を持つんだ。先代の神子が訪れたのが今から約五十年前。そして少し前に、今代の神子が国に降りたと噂が出回っている」
「黒い髪……?でも、神子は不思議な力を使うんですよね?黒髪だと魔力が……」
「異世界から来たからかわからないが、神子は黒い髪をしていても力を使うことが出来る。俺たちとは体の構造が異なるらしい」
「そう、なんですね……」
リアを見てヒソヒソと言葉を交わす人々。神子様だと縋る老人。時期が……と言い渋るハリス。
状況だけを見ると間違えられる、また奇異の目で見られることはおかしくないことなのか。
「神子が降りるのは王宮にある一室だ。本当なら神子の存在が確認され次第、国民たちへのお披露目で王都を含めた五つの主要となる街に訪れることになり、神子の姿は国民に認知される」
「それが、ない……?」
リアを見て神子だと思うこと自体が本来ならないはずなのだ。それなのに、さっきの老人は同じ黒い髪だと言うだけで間違えた。
「何かトラブルが起きていることは民も気づいている。そのせいで不安が募り、あの男のような者が現れる……」
ハリスは冷めた口調で「特にルムニア教の者は」と言った。
―――また、知らない言葉だ。
しかし、リアは同じ「ような響きを持つ単語を知っている。
「ハリス……ガロメ教とルムニア教は関係があるんですか……?」
確か、ソニーはハリスのことを見てガロメ教だと断言した。どうしてだろうと思っていたがやっとわかった。
(ハリスもさっきの男の人も襟元に金のバッジを付けてる……)
くたびれた装いの中でキラリと光った金の輝きだけが不釣り合いでよく覚えていた。そしてハリスもジャケットの襟元に金のバッジを付けている。
「この国は、その創世の話から分かる通り神様とやらを大事にしている。神を崇めているのは国民に共通していることだが、長い歴史を経てその中でも思想が大きく二つに分かれるんだ」
「それがガロメ教とルムニア教?」
コクリと頷いてハリスの髪が肌を滑って枕に流れた。
「神への信仰は変わらないが、神子へ対する姿勢がその二つでは異なる」
スッとハリスの長い腕が天井に向かって伸びる。
「ルムニア教はさっきの男のように神子も崇めている。神の使いとして直接自分たちに尽くしてくれる者のことを、人によっては神よりも優先するぐらいに」
抑揚のない声は、感情が読めない。リアはいつしかハリスの方を向いて身を丸めていた。眼を離してはいけない気がしたのだ。
「そしてガロメ教は神のみを崇めている者たちのことだ。異界からの者が自分たちの神の代弁者などふざけるなっていうのがガロメ教のうたい文句。だからガロメ教の信徒は黒い髪を嫌う者が多い。忌まわしき神子と同じだからね」
そう言って整った眉にグッと力が籠る。
「まあ、私は両親がガロメ教の熱心な信徒でその流れで入っているだけだから」
険しかった横顔は、リアを見つめる頃には緩やかな笑みを象っていた。ニッコリと弧を描く目元も口元も、思わず布団を強く握ってしまうほどにリアにとってはなぜか嫌な物だった。
最後の言葉は、黒い髪になったリアのために言ったのだ。
それを聞いてリアはどうしたらいい?ハリスに嫌われていなかったと安堵すればいいのか?本当に?
言葉通りに受け取ればいいのに、素直に喜べない。
(ハリス、あなたは伸ばした手の先に何を見ていたの……?)
険しい顔で伸ばした手の先に、一体を何を思い浮かべていたのか。そちらの方が、リアにとってはずっと重要に思えた。そして、ハリスの笑みに嫌気を覚えたのかがわかった。
「もう寝よう……今日は疲れただろう?」
リアの言葉も待たずにハリスは再び背中を向けてしまう。サラリと流れたハリスの髪が、照明の光を受けて更に赤みを強くする。
―――ハリス
その後ろ姿を見ながら音もなく呟く。
(あなたは隠したいことがあるほど綺麗に笑うんだね……)
リアと出会った当初の狼狽具合は置いておき、これまでずっとハリスは丁寧な笑みを浮かべていた。
道中、リアの方から切り込んだ時は少し表情を崩す時はあっても大体は余裕をもった表情で構えている。
本当のハリスは自分のことを「俺」と呼んでいる。それはリアでも気づいている。では、物腰の柔らかな笑みを浮かべるハリスは?それは嘘?
リアに向かって感情を向けたあれが本来のハリス?
わからない。
もし、表面を取り繕っているとしてそれはリアに対してだけ?それとも誰とも区別はなく全員に対してそうなのか。
わからない。今のリアでは答えを見つけることが出来ない。本当のハリスはわからない。
(前の俺なら、見つけられたのかな……)
記憶があれば、リアは今とは違うハリスを見ることが出来たのだろうか。もしそうだったとしたら、それは……。
(それは何だか悔しいなぁ……)
苦々しい気持ちのまま瞼を閉じる。触れていた指先の熱を思い出してきゅっと胸元で手を握った。
記憶がなくても何とかなるって思っていたのに。無くしたものを嘆いたところで何も変わらないのだから。だから早々に割り切った。
―――そのはずなのに……
その日、リアは初めて無くした記憶を惜しいと思って眠りについた。
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