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一章
③
しおりを挟む「ふあぁ……」
伸びをした腕をストンと落としてまだ眠気の残る頭で窓を見る。カーテン越しに日が差しているのが分かった。
シャッとカーテンを開ければ、草原の先に木々が生い茂る森林が見える。あれがソニーの言っていた迷いの森だろう。
(あそこから出来て来たってことだよね……)
じっと深い緑が静まる森を眺めてみるが駄目だ。全く何も思い出せない。
今は何時だろうかと考えて、部屋に時計がないことに気付いた。すっかり陽は昇っているし、ソニーはもう起きているかもしれない。
ベッドから足を出す。昨夜は気にならなかったが、裸足のため床につくと肌がスッと冷え込んだ。
服は昨日から来ている白いワンピースだが、丈が長いせいで歩きにくい。足にまとわりつくのでどうにかしたいところだが、生憎と着替えもなければこれをどうにか出来るような物も持ち合わせていない。
(なんで俺はこんな服で森を歩いてたんだろうなぁ……)
しかも荷物も持たずに、だ。森を抜けると言うのならもう少し動きやすい物を選ぶだろうに。
「クロ、起きたかい?」
気づけばソニーが部屋の入り口で何かを手に立っている。
「ソニーさん……おはようございます」
「ほら、これをやるから着替えな」
どうやらクロの着替えを持って来てくれたらしい。クロが受け取ろうとベッドから立ち上がるよりも早く、ソニーは指を一本振った。すると、腕の中の衣服がフワリと弧を描いてクロの膝に着地した。
「え、えっ?」
―――今、浮いた?
ソニーが投げた訳ではないはずだ。
「着替えたら食事の準備を手伝ってくれ。洗面台は向かいの扉だよ」
「あ、はい。って、ソニーさん!これ女性物じゃないですか!」
混乱したまますぐに着替えようと服を広げてみれば、襟のある薄水色のワンピースが現れた。今着ている物よりは短いため、歩くのに邪魔と言うことはないだろうが何故スカート?。
「それはアタシの娘のだよ。てっきりそう言うのが好みなんだと思ってたけど……違うのかい」
確かに自分の趣向など覚えてはいないが、今の自分としてはこれを着るのは憚られる。訴えるように眼を向ければ、今度は白いシャツと細身の黒いパンツを寄越してくれた。
「これも娘のやつだが……あの子は女にしては背が高かったし、アンタも細っこいから大丈夫だろう」
いささか男としては不名誉なことを言われたが、事実なので反論のしようもない。
「ありがとうございます」
礼を言ってソニーが退出したのを見計らい、豪快に脱ぎ捨ててシャツとパンツを纏う。
しっかり肌が覆われていると安心感を覚える。先ほどまではどうにも足元が落ち着かなかったのだ。
ふと、部屋の鏡に映った自分が目に留まる。そこには確かにソニーの言う通り、ヒョロリと細い印象の男が立っていた。
(本当にこれが俺なのかな……なんだか見慣れないな……)
長い黒髪と相対する白い肌。そして瞬く青い瞳は青年と言うよりは少女のように丸い。
娘さんの服がピッタリだと言うのは何だか複雑な気持ちだが、今回はそれに助けられているのだし気にしないことにしよう。鏡を見たところで違和感はない。それも何だか悲しいものだけれど。
脱いだ服はどうしようかと悩むが、あとでソニーに確認しよう。とりあえずは畳んで机の上に置いておく。いつの間にか用意されていた靴も履いて言われた通り洗面台に向かって顔を洗った。
クロがキッチンに行けば昨日と同じように、ソニーはこちらに背を向けていた。
「ソニーさん」
「ん、来たね。スッキリしたかい?」
「はい……あ、あの……今日からお世話になります!」
ガバリと頭を下ろして声を上げる。バッと髪も舞ってクロの視界には漆黒の線がカーテンのように引かれた。
「別にここに置いとく分は働いて貰うんだから気にしなくていい。それに、あまり長期間は無理だからね……さっさと記憶でも何でも思い出しな」
「はい!」
果たして気力で無くした記憶が戻るのかはわからないが、もしかしたらひょいっと思い出すかもしれない。あまり悲観し過ぎずにいよう。
無くしたものを嘆いていてもしょうがないのだから。
自分でも少し驚くほどにクロは割り切った考えが出来た。やはり推定「楽観的」というのは間違っていないのかもしれない。
「ほら、いつまでも突っ立ってないで手伝っておくれ」
「はい、何をすればいいですか?」
隣に立って問えば、ソニーはスッと灰色の瞳を流して籠に入った卵を見る。
「とりあえず卵でも焼いとくれ。あと適当にサラダの準備も……アタシはスープを作るから」
そう言ってソニーは片手は腰に回したまま、もう一方の手で指を立ててクルリと円を描いた。すると、まな板の上に置かれた野菜たちが浮き上がり、同じように浮いた包丁に切り込みをいれられた。
部屋で見た驚きがぶり返す。瞳は宙の野菜を見たまま「それ」と指をさす。
「どうして野菜が浮いているんですか……」
理解が追い付かない頭のまま、動揺を表した声をソニーに向ける。ソニーは何故そんなことを聞くのかと不思議にそうに首を傾げたが、クロを見た後に納得したように声を上げた。
「アンタ魔法のことまで忘れちまったのかい?」
「まほう……?」
「そうだよ。生きている者には大なり小なり魔力が宿る。魔力を放出すれば、今みたいに物を浮かせたり操ったりと色々なことが出来る。それらを総じて魔法というのさ」
ソニーは切り分けた野菜をまな板に落ち着かせると、また指を振る。そうすると今度は空中でいきなり水が湧き出て球状にまとまった。
「こうやって水を出したり、炎を灯したり、攻撃魔法と言って自然の力を借りて自衛手段となるようなものもある」
ソニーの皺の多い掌の上で、水の塊が揺れている。
どこから水が湧いたのか。どうして宙で留まっているのか。
驚きすぎてポカンと口が開いていた。しかし、どこか既視感を感じるのは以前にこうして使っていたからなのだろうか。ソニーを見るに、魔法と言うのは随分と生活と密接にかかわっているようだ。
(俺にも出来る……?)
自身の掌を見下ろしていれば、先手を打つように「無理だよ」と隣から制止をかけられる。
「え」と間抜けな声と共に交わった灰色の瞳は、横に滑って背中に流れるクロの髪を追った。
「アンタ、髪が黒いから魔力疾患だ。魔法は使えないよ」
「えっ……」
また知らない単語が出てきた。ワクワクとした気持ちが萎んでいく。クロの困惑をわかっているのか、ソニーは
「食事の時にね」と告げてそれ以上の言葉は述べなかった。
残念な気持ちのまま息を吐いて、とりあえず卵に手を伸ばす。
出来る気がしたんだけれどなぁ……。
出来上がったサラダ、スープにベーコンエッグ。最後にトースターからパンを取り出して並べる。
向かい合ってテーブルに腰掛けて各々好きに食事を進めた。
「魔力疾患って何なんですか?」
ちぎったパンを指先で摘みながら話を振れば、ソニーはゆっくりとスープを仰いでから口を開く。
「生物には魔力が宿るって言ったろ?生きているんだからアンタにも魔力はあるよ。ただ、それをうまく表に出すことが出来ないんだ」
「わかるんですか……?」
「髪を見ればね」
予想外の答えに、思わず自分の髪を見下ろす。
(どうして髪で……?)
頭に過った疑問はすぐにソニーによって解消された。
「魔力を使う時、少なからず自然から力を借りて魔法という現象を起こす。その自然との相性も個人によって違う。特に有名なのは火、水、そして草木などの緑だね。魔力には色があってそれは相性のいい自然が象徴する色だと言われてる。そして、それは容姿にも表れる」
「それが……髪の毛……?」
言葉を区切ったソニーにそう呟くと、上下に頭を振られた。
「そう。そして、黒と言うのは本来であれば死んで魔力を失った者か生まれた時から疾患を持った人間にしか現れない色だ。一部例外はあるけどね」
なるほど。そう言うことならソニーが即答したのも頷ける。生きていて髪が黒いと言うことはきっとクロは「魔力疾患」というものなのだろう。
(生まれつきなら仕方がないよな……使って見たかったけど……)
パンを口に放りこんでからスープも含む。
チラリと視線を上げて向かいのソニーを見る。ソニーの白髪は魔力によるものなのか、それとも老化のせいなのだろうか。
「言っとくが私のは生まれつきこの色だよ」
釘を刺されてギクリと体を強張らせる。そんなに顔に出ていたか、と気まずい思いを誤魔化すべくスープをもう一口飲みこんだ。
「年を取って色素が薄くなることはあるが、真っ白になるってのはあんまりないね。まあ白髪は生えるが」
「そ、そうなんですね……はは……」
向けられた言葉自体は刺々しさも感じたが、ソニーは別段気分を害したわけでもなさそうだ。顔色も替えずに食事を続けては「アンタ、サラダを作る才能あるよ」と称賛する。
(いや、もしかしたら怒っているのかもしれない……)
サラダを作る才能とはなんだろう。クロは葉をちぎって盛り付けただけだ。褒めたと見せかけて皮肉っているのかもしれない。
ベーコンエッグも口に運んで「卵も焼くのが上手いね」と付け加える。
益々わからなくなった。
しかし、正直に怒ってますか?なんて聞くわけにもいかず、ピクピクと口角を痙攣させながらぎこちない笑みで礼を述べるしかなかった。
泡立つ桶の中から白い布を取り出して井戸の水で濯ぐ。ポタポタと滴を落とすそれをグッと力を入れて絞り、水気を切ったところで竿に引っかけた。
こうも丈が長いと洗濯すら面倒だ。
もう着ることもないと思うのだが、気持ちとして自分の服を一枚も持っていないのはなんだか心もとない。
風に飛ばされないように洗濯ばさみで止めてふぅと一休み。真っ白なワンピースとソニーに頼まれた洗濯物がソヨソヨと風で揺すられる。
昼食後の日の高い午後。白い生地は太陽の光で更に眩しさを増している。
(いい天気だなぁ……)
こんなに呑気に日光浴なんてしている場合か。クロはなるべく早く記憶を思い出さなくてはいけないのに。
クロとしてはソニーとの会話で多少の不便はあれど、困ってはいないのだ。
(こんなに未練もなく忘れてしまえるものだったのかな……)
家族はいたのか。大事な人は、恋人は?考えても答えは出ない。
はあっと吐いた息をそのまま呑みこんだ。
使った水を片づけて裏口から入ってソニーを呼ぶ。
「ソニーさん、洗濯終わりました!」
「ありがと、冷たかっただろ」
「いいえ、大丈夫ですよ」
確かにまだ春と呼ぶには早いが、凍える程の寒さもない。陽光の暖かさに包まれながらではむしろちょうどいいぐらいだ。
それにどうやらクロは水仕事に慣れているようだ。記憶がなくても体が覚えているのか苦労はない。
「いくつか娘の服を出しといたから、部屋に持っていきな」
読み物をしていたソニーは、眼鏡を外してソファを顎で示す。いくつかシンプルなシャツやパンツが置かれていてありがたく借りることにした。
「今更ですが、娘さんの物を借りてしまってもいいんでしょうか?知らない男が着るなんて嫌がるんじゃ……」
この家にソニー以外が住んでいる気配はない。きっと娘というのはすでに家を出て余所で生活をしているのだろう。しかし、実家に残した自身の服を見知らぬ男が着ていい顔をする女性はいないはず。
クロの懸念を、ソニーは固さの残る顔つきで一笑した。
「あの子は随分昔に亡くなっているから気にしなくていいよ。アタシが未練がましく服を残しているだけさ」
どこか自嘲めいた薄ら笑い。過去を懐かしむと言うよりも、己の罪と相対したような罰の悪さを含んだ顔。
(当たり前か……)
自身の娘が亡くなったなどすぐに割り切れるわけもない。そして今もその服を残していることが、ソニーは自分でも言うように未練がましく恥のように感じているのか。
(なんて返せばいいのかな……)
こういう時、もし記憶があったなら適切な言葉を投げかけられただろうか。
途端に体を包む服が重く感じられた。ソニーは、これを身に纏うクロを見て何を思ったのだろう。
本来、着られる予定のなかったそれらをどんな思いで表に出したのだろうか。
「ソニーさん……」
「すまないね、死人のもんなんて着せて……来週には行商人が来るからその時に新しいのを買うよ」
「いえ、そんな……俺は気にしませんが……」
只でさえ世話になっている身だ。こちらから言えることなど何もないし、それを抜きにしてもクロが気分を悪くしたということはない。
(むしろ、そんな大事なものを着てしまって申し訳ないぐらい……)
しかし、娘の大事な服を突然現れた男に着せることにソニーは抵抗はないのだろうか。
今は洗濯をしたばかりでびしょ濡れだが、一応衣服はあるのだから、乾いたらそちらを着ればいい。
あの服は動きづらくはあるが、ソニーの大事な思い出を踏みつけてまで服が欲しいわけではない。
「着られないのも服が可哀想だ。クロが嫌じゃなければ着てやってくれ」
「はい……ソニーさんが良いのなら、お借りします」
腕に抱えて部屋に戻るべく一度頭を下げる。
「それを置いたら夕飯に使う大根を畑から持って来てくれるかい?」
「わかりました」
「白くて長いのだからね」
「それぐらいわかりますよ!」
先ほどまでの愁然さは鳴りを潜め、出会ってからの変わらない口調でからかう。調子を合わせてクロも「もう」と拗ねた態度を取って部屋に向かう。
ソニーがそうして欲しいならクロは何も言わない。言えることなどない。
腕に触れる柔らかな生地を抱きしめる。
これを着ていた娘さんはどんな人物だったのかと想像するが、きっとソニーと同じ素敵な人だったのだろう。
お借りします、とソニーではない本来の持ち主に胸中でもう一度唱えた。
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