55 / 59
第七章 桜降る春に
三
しおりを挟む
***
その宵は、美津の心尽くしの夕食を皆で一緒にいただいた。
食事は大変おいしく、久しぶりに会った姉との会話も楽しかった。
けれど、なによりも、桜子は天音が今ここにいることのありがたみを噛みしめていた。
桜の下で天音に抱きしめられた瞬間、三年間の苦労は一気に霧散した。
本当にこんな日が訪れるなんて……
桜子はもちろん、天音と再会できる日を心の底から待ち望んでいた。
でも、それが夢でしかないと分かってもいた。
天音との愛の証は、愛娘の春子となって、この手の内に残った。
それで充分ではないかと思うようになってきた矢先だった。
天音がまた自分の目の前から消えてしまうのではないか。
そんな不安に囚われ、つい彼の姿を目で追ってしまう。
天音も同じ気持ちだったのかもしれない。
何度も目が合い、その度に少し照れくさそうな顔で微笑んでいたから。
春子も、あっという間に天音になついた。
「あなたの“とうさま”よ」と言っても、まだ幼すぎて理解はしていないようだ。
けれど、春子も天音が現れるのを待ち望んでいたように、ずっと彼のそばを離れようとしなかった。
そんな春子を天音は可愛くて仕方がないといった顔で見つめている。
食事のあとも、春子は天音の膝の上でずっとはしゃいでいたが、そのうちに眠ってしまった。
「寝床に連れて行こう。案内してくれるかい」
「ええ」
春子を抱いた天音と桜子が立ち上がると、姉が声をかけてきた。
「わたくしたちもそろそろ休むことにしますわ。忠嗣も長旅で疲れたみたいなので」
「そうですわね。お姉様、何かおわかりにならないことがあれば、美津に尋ねてください」
皆はたがいに挨拶をし、それぞれの部屋に下がっていった。
***
春子の寝床は美津の部屋にある。
天音は春子が目を覚まさないようにそっと、小さな布団に下ろした。
心配するまでもなく、春子はぴくりともせず、すやすや眠っている。
「お客様がいらっしゃることなんて、ついぞなかったので、はしゃぎすぎて疲れてしまったのでしょうね」
美津が微笑ましそうに、春子を見やる。
あまりにも可愛らしい春子の寝顔に、天音と桜子もしばらく唇に笑みをたたえて見入っていた。
「では美津、お休みなさい」
「はい、お休みなさいませ」
自室に戻ると、桜子は箪笥から男物の浴衣を出し、天音に渡した。
「どうぞ湯上りにお召しになってください」
「これは?」
「わたくしが縫いました。まだ春子がお腹にいるとき、よく眠れない時期があって。天音を想ってこの浴衣を縫っているときだけ心が安らいだの。縫い上げたら、貴方に会えるような気がして」
天音は、濃紺地の縞柄の浴衣を手にとり、しばらく感慨ぶかげに眺め、それから広げて腕を通した。
「ぴったりだな」
桜子は、洋服の上から浴衣を羽織った天音を見て微笑んだ。
天音が手を伸ばし、桜子もうっとりとその腕に抱かれた。
「長いこと、待たせてしまったね」
天音は桜子の髪に顔を埋め、つぶやいた。
「でも来てくれた」
「ああ。正直、諦めそうになったことが何度もあった。でもそんなときは桜子を思い浮かべて、自分を励ましたよ」
「よかった。天音が諦めてしまわなくて。ありがとう……本当に」
「それを言うのは俺の方だ。まさか、娘に会えるなんて思いもしなかった。たった一人で、よく春子を守ってくれたね。並大抵のことじゃなかっただろう」
「ええ。でも母が尽力してくださったの。ここに住む算段もしてくださって」
「そうか。では、伯爵夫人にもお礼を言わなければならないな」
その宵は、美津の心尽くしの夕食を皆で一緒にいただいた。
食事は大変おいしく、久しぶりに会った姉との会話も楽しかった。
けれど、なによりも、桜子は天音が今ここにいることのありがたみを噛みしめていた。
桜の下で天音に抱きしめられた瞬間、三年間の苦労は一気に霧散した。
本当にこんな日が訪れるなんて……
桜子はもちろん、天音と再会できる日を心の底から待ち望んでいた。
でも、それが夢でしかないと分かってもいた。
天音との愛の証は、愛娘の春子となって、この手の内に残った。
それで充分ではないかと思うようになってきた矢先だった。
天音がまた自分の目の前から消えてしまうのではないか。
そんな不安に囚われ、つい彼の姿を目で追ってしまう。
天音も同じ気持ちだったのかもしれない。
何度も目が合い、その度に少し照れくさそうな顔で微笑んでいたから。
春子も、あっという間に天音になついた。
「あなたの“とうさま”よ」と言っても、まだ幼すぎて理解はしていないようだ。
けれど、春子も天音が現れるのを待ち望んでいたように、ずっと彼のそばを離れようとしなかった。
そんな春子を天音は可愛くて仕方がないといった顔で見つめている。
食事のあとも、春子は天音の膝の上でずっとはしゃいでいたが、そのうちに眠ってしまった。
「寝床に連れて行こう。案内してくれるかい」
「ええ」
春子を抱いた天音と桜子が立ち上がると、姉が声をかけてきた。
「わたくしたちもそろそろ休むことにしますわ。忠嗣も長旅で疲れたみたいなので」
「そうですわね。お姉様、何かおわかりにならないことがあれば、美津に尋ねてください」
皆はたがいに挨拶をし、それぞれの部屋に下がっていった。
***
春子の寝床は美津の部屋にある。
天音は春子が目を覚まさないようにそっと、小さな布団に下ろした。
心配するまでもなく、春子はぴくりともせず、すやすや眠っている。
「お客様がいらっしゃることなんて、ついぞなかったので、はしゃぎすぎて疲れてしまったのでしょうね」
美津が微笑ましそうに、春子を見やる。
あまりにも可愛らしい春子の寝顔に、天音と桜子もしばらく唇に笑みをたたえて見入っていた。
「では美津、お休みなさい」
「はい、お休みなさいませ」
自室に戻ると、桜子は箪笥から男物の浴衣を出し、天音に渡した。
「どうぞ湯上りにお召しになってください」
「これは?」
「わたくしが縫いました。まだ春子がお腹にいるとき、よく眠れない時期があって。天音を想ってこの浴衣を縫っているときだけ心が安らいだの。縫い上げたら、貴方に会えるような気がして」
天音は、濃紺地の縞柄の浴衣を手にとり、しばらく感慨ぶかげに眺め、それから広げて腕を通した。
「ぴったりだな」
桜子は、洋服の上から浴衣を羽織った天音を見て微笑んだ。
天音が手を伸ばし、桜子もうっとりとその腕に抱かれた。
「長いこと、待たせてしまったね」
天音は桜子の髪に顔を埋め、つぶやいた。
「でも来てくれた」
「ああ。正直、諦めそうになったことが何度もあった。でもそんなときは桜子を思い浮かべて、自分を励ましたよ」
「よかった。天音が諦めてしまわなくて。ありがとう……本当に」
「それを言うのは俺の方だ。まさか、娘に会えるなんて思いもしなかった。たった一人で、よく春子を守ってくれたね。並大抵のことじゃなかっただろう」
「ええ。でも母が尽力してくださったの。ここに住む算段もしてくださって」
「そうか。では、伯爵夫人にもお礼を言わなければならないな」
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
私、夢の中でエベレスト先生に会ったんです
YHQ337IC
恋愛
校門を出ると、強い日差しが全身に降り注いだ。
手で影を作りながら空を見上げると、雲ひとつない快晴だった。
蝉の声が辺り一面から聞こえてくる。
「もうすぐ夏休みか……」
私は歩き出した。
システムバグで輪廻の輪から外れましたが、便利グッズ詰め合わせ付きで他の星に転生しました。
大国 鹿児
ファンタジー
輪廻転生のシステムのバグで輪廻の輪から外れちゃった!
でも神様から便利なチートグッズ(笑)の詰め合わせをもらって、
他の星に転生しました!特に使命も無いなら自由気ままに生きてみよう!
主人公はチート無双するのか!? それともハーレムか!?
はたまた、壮大なファンタジーが始まるのか!?
いえ、実は単なる趣味全開の主人公です。
色々な秘密がだんだん明らかになりますので、ゆっくりとお楽しみください。
*** 作品について ***
この作品は、真面目なチート物ではありません。
コメディーやギャグ要素やネタの多い作品となっております
重厚な世界観や派手な戦闘描写、ざまあ展開などをお求めの方は、
この作品をスルーして下さい。
*カクヨム様,小説家になろう様でも、別PNで先行して投稿しております。
【完結】私を虐げる姉が今の婚約者はいらないと押し付けてきましたが、とても優しい殿方で幸せです 〜それはそれとして、家族に復讐はします〜
ゆうき@初書籍化作品発売中
恋愛
侯爵家の令嬢であるシエルは、愛人との間に生まれたせいで、父や義母、異母姉妹から酷い仕打ちをされる生活を送っていた。
そんなシエルには婚約者がいた。まるで本物の兄のように仲良くしていたが、ある日突然彼は亡くなってしまった。
悲しみに暮れるシエル。そこに姉のアイシャがやってきて、とんでもない発言をした。
「ワタクシ、とある殿方と真実の愛に目覚めましたの。だから、今ワタクシが婚約している殿方との結婚を、あなたに代わりに受けさせてあげますわ」
こうしてシエルは、必死の抗議も虚しく、身勝手な理由で、新しい婚約者の元に向かうこととなった……横暴で散々虐げてきた家族に、復讐を誓いながら。
新しい婚約者は、社交界でとても恐れられている相手。うまくやっていけるのかと不安に思っていたが、なぜかとても溺愛されはじめて……!?
⭐︎全三十九話、すでに完結まで予約投稿済みです。11/12 HOTランキング一位ありがとうございます!⭐︎
雪を溶かすように
春野ひつじ
BL
人間と獣人の争いが終わった。
和平の条件で人間の国へ人質としていった獣人国の第八王子、薫(ゆき)。そして、薫を助けた人間国の第一王子、悠(はる)。二人の距離は次第に近づいていくが、実は薫が人間国に行くことになったのには理由があった……。
溺愛・甘々です。
*物語の進み方がゆっくりです。エブリスタにも掲載しています
利用されるだけの人生に、さよならを。
ふまさ
恋愛
公爵令嬢のアラーナは、婚約者である第一王子のエイベルと、実妹のアヴリルの不貞行為を目撃してしまう。けれど二人は悪びれるどころか、平然としている。どころか二人の仲は、アラーナの両親も承知していた。
アラーナの努力は、全てアヴリルのためだった。それを理解してしまったアラーナは、糸が切れたように、頑張れなくなってしまう。でも、頑張れないアラーナに、居場所はない。
アラーナは自害を決意し、実行する。だが、それを知った家族の反応は、残酷なものだった。
──しかし。
運命の歯車は確実に、ゆっくりと、狂っていく。
7年ぶりに私を嫌う婚約者と目が合ったら自分好みで驚いた
小本手だるふ
恋愛
真実の愛に気づいたと、7年間目も合わせない婚約者の国の第二王子ライトに言われた公爵令嬢アリシア。
7年ぶりに目を合わせたライトはアリシアのどストライクなイケメンだったが、真実の愛に憧れを抱くアリシアはライトのためにと自ら婚約解消を提案するがのだが・・・・・・。
ライトとアリシアとその友人たちのほのぼの恋愛話。
※よくある話で設定はゆるいです。
誤字脱字色々突っ込みどころがあるかもしれませんが温かい目でご覧ください。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる