伏線回収の夏

２５

「わたし、元気になったでしょう？」
　
　亜沙美が右腕に力こぶをつくって見せた。彼女は事故の後遺症に苦しんでいたけれど。

「よくなったの。利奈のおかげ。腎臓を一つもらっちゃった。血液型ほか、体の相性もバッチリでさ。おかげで今は絶好調。入院してるなんて嘘だよーん」

「俺もだ」
　
　十文字はぽりぽり頭を掻いている。

「俺はあれから実家に帰って、家具屋を引き継いでいるんだけどさ、ここに敷いたカーペットは俺の仕立て。Ｘを消すリニューアル工事も、すべて任まかせてもらうことになってんだ。最近は不景気だから、ホント助かるよ。岡滝利奈様様だ。この屋敷の建て替えの時もよろしくな」

「あたしと優也もよ」
　
　真利亜はどこから取り出してきたのか、二冊の本をテーブルの上に置いた。

「利奈のおかげで、好きな作品を、好きなように発表させてもらってるの」
　
　真利亜の横で、優也がうんうんと頷いている。
　
　その二冊のハードカバーには見覚えがあった。ベストセラーミステリー作家、成木鷹男の最新の二冊だった。俺も以前に本人から署名つきの献呈けんていを受けている。

　見たこともないアングルの街なみの油絵と、厳おごそかな天の光に満ち満ちた白い氷原ひょうげんの写真を、表紙に使った二冊だった。

　それがまさか……。

「そう、油絵が優也、写真はあたしのよ」

「な、な、な、なんで……」
　
　驚きで俺の息は詰まった。

「なんで、きみらが、成木さんと……」

「成木鷹男さんの名前を逆さにしてみな」
　
　含み笑いで真利亜がいった。
　
　逆さ……。俺は頭の中で文字の並びを思い浮かべた。
　
　ナリキタカオ→オカタキリナ。
　
　成木鷹男→岡滝利奈。

「な、な、成木鷹男って、まさか利奈、きみのことだったのか……」

　驚愕きょうがくのあまり声が震える。

　照れか、興奮か、利奈は頬を赤らめている。

「あなたの作品を読んだ時からミステリーにはまっちゃって。自分であれこれ書いてみたの。せっかく書き上げたんだから、そのままにしておくのももったいないじゃない？　賞に出したら受賞しちゃって。あなたの一回後輩だけど、色々サポートさせてもらっているわ」
　
　昔から、みんなの頼れるリーダー。人一倍、面倒見のいい利奈だった。おかげで俺は大助かりだ。なんとかミステリー作家としてやっていけている。俺が十年かけて受賞した賞を、たった一回のチャレンジで取られてしまったのは悔しいけれど。

「じゃあ今回のシナリオも？」

「そう、私、成木鷹男の書き下ろし新作よ。まともな物証なし、伏線だけでも、あなたなら真相にたどり着いてくれると信じていたわ。ラストは多少イレギュラーだったとはいえね」
　
　ベストセラー作家の最新作。どおりでよくできていたはずだ。俺は脱帽だつぼうするしかなかった。

「あなたの伏線回収だってすごかったじゃない？　最後の最後まで息をつかせない、怒涛どとうの推理に感動したわ。伏線回収も洩もれなし。洩れたのはそれくらいじゃないかしら？　わたしのアドリブではあったんだけど」
　
　利奈はテーブルの皿の上の桃を指差した。

　ああ、そういうことだったのか……。桃は初めからみんなで食べることを想定して、皿に山盛りだったんだ！
　
　そんなのわかるかっ！　
　
　シナリオの完成度も高かったが、今にして思えば、さらに強烈だったのは、岡滝利奈の演技力だ。さすがは元女優志望。純真な驚き、素直な感嘆、ひそかな怒り、困惑とあきれ。細やかな目と眉の表現力が、指先が、口元が、俺を幻惑し続けた。

　完璧。俺はなんの疑惑を抱くことなく最後まで騙され続けた。

「たくさんびっくりさせてごめんなさいね」
　
　みんなの思いをまとめるように、利奈があらためて、俺に向かって頭を下げた。

「頑固なあなたをここに呼ぶにはこうするしかなかったの。みんなで知恵をしぼったわ。結論がコレ。優也が死んだとなれば、さすがのあなたも顔を見せずにはいられないでしょ？　だけど、今までのあなたの不義理は許せないわ。ちょっとは驚いてもらおうってことになったのよ」

　これのどこがちょっとなのか。
　
　でもよかったよ……。優也と十文字が生きていてくれて……。利奈が殺人犯人じゃなくて……。

　俺はなんとか涙をこらえて、昔とちっとも変わっていない、みんなの笑顔を見まわした。了