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霧山優也の弔いを終えて、俺と利奈は屋敷に戻った。優也が死んだあの日、不穏な出来事はほかにも起きていたのだという。いや、そもそもこちらが発端だったのだ。
「ほら見て。ほとんどあの日のままにしてあるの」
利奈はアトリエの扉を開けて、俺を招いた。空調の電源が入って涼やかな風が流れ始める。庭に向かって大きく広がったガラス戸。高い天井。ちょっとした町の小売店規模の広さがある。
鼻先を掠めるテレピン油と絵具の匂い。懐かしさが痛みをともなって胸に湧く。だが、ひたすら思い出に没入することは困難だった。
「ひどいな」
俺は部屋中を見まわした。
凶暴で陰湿な悪意が通り過ぎていった痕跡……。
白っぽくて明るい木目の壁に、Xの傷がいくつも刻み込まれている。一つではない。小さなもの、大きなもの、十も二十も……。
鋭い刃物で切りつけたXの文字。
扉の内側にも一つ大きく。淡い焦げ茶のカーペットには無数に。イーゼルにかかったキャンバスにも、イスにも、テーブルにも、作業台にも、容赦なくXは刻まれていた。
「ひどいでしょ? 扉もこんなに削られちゃって。これじゃ修理もできやしない。扉ごと取り替えなきゃダメね。あの日から、ノブの調子まで悪くなっちゃって。ガチャガチャやらなきゃ開かないの。カーペットもぼろぼろ。春に優也と貼り替えたばかりなのに……。部屋中の荷物を全部運び出して、それをまた部屋に戻して。けっこう大変だったのよ」
利奈はカーペットのX印を隠すように、虚しくそれをスリッパで踏んだ。
「いったい何があったっていうんだ?」
「あの日ね、午前中から外で不用品を焼いていたの。今日と一緒よ。そしたら家の中から大きな物音がして。西の方向だったから、とっさにアトリエで何かが倒れたって思ったの。イーゼルかキャンバスか、ハシゴか何かがね。あわてて駆けつけてきたんだけど、扉があかなくて。カギはいつも優也がホルダーにつけて持ち歩いているのよ」
優也は数十分前に河原でスケッチをするといって、自転車で出かけたあとだった。
外のガラス戸が開いているかもしれない。
利奈は庭に出て、アトリエの正面に向かった。しかしガラス戸も開かなかった。遮光カーテンが閉め切られていて、中の様子もうかがえなかった。
「だから優也に電話をしたの。すぐ家に戻ってもらおうと思って。部屋の中でオイルが漏れていたりしたら大変。取り返しがつかないことになっちゃうから」
優也への電話はつながった。ただ受話器の向こうの様子がおかしい。『ううっ』と苦し気なうなり声だけが聞こえてくる。呼びかけても、まともな応答がなかった。
優也に何かがあったのだ。
利奈は急いで玄関にカギをかけ、愛車に乗って家を出た。河原にいくといっていたから、道筋はわかっている。崖の坂道を下っていった。狭くても車一台分の幅はある。
坂道の途中、自転車と一緒に倒れ込んでいる優也を見つけた。
見つけた時には手遅れだった。
「ほら見て。ほとんどあの日のままにしてあるの」
利奈はアトリエの扉を開けて、俺を招いた。空調の電源が入って涼やかな風が流れ始める。庭に向かって大きく広がったガラス戸。高い天井。ちょっとした町の小売店規模の広さがある。
鼻先を掠めるテレピン油と絵具の匂い。懐かしさが痛みをともなって胸に湧く。だが、ひたすら思い出に没入することは困難だった。
「ひどいな」
俺は部屋中を見まわした。
凶暴で陰湿な悪意が通り過ぎていった痕跡……。
白っぽくて明るい木目の壁に、Xの傷がいくつも刻み込まれている。一つではない。小さなもの、大きなもの、十も二十も……。
鋭い刃物で切りつけたXの文字。
扉の内側にも一つ大きく。淡い焦げ茶のカーペットには無数に。イーゼルにかかったキャンバスにも、イスにも、テーブルにも、作業台にも、容赦なくXは刻まれていた。
「ひどいでしょ? 扉もこんなに削られちゃって。これじゃ修理もできやしない。扉ごと取り替えなきゃダメね。あの日から、ノブの調子まで悪くなっちゃって。ガチャガチャやらなきゃ開かないの。カーペットもぼろぼろ。春に優也と貼り替えたばかりなのに……。部屋中の荷物を全部運び出して、それをまた部屋に戻して。けっこう大変だったのよ」
利奈はカーペットのX印を隠すように、虚しくそれをスリッパで踏んだ。
「いったい何があったっていうんだ?」
「あの日ね、午前中から外で不用品を焼いていたの。今日と一緒よ。そしたら家の中から大きな物音がして。西の方向だったから、とっさにアトリエで何かが倒れたって思ったの。イーゼルかキャンバスか、ハシゴか何かがね。あわてて駆けつけてきたんだけど、扉があかなくて。カギはいつも優也がホルダーにつけて持ち歩いているのよ」
優也は数十分前に河原でスケッチをするといって、自転車で出かけたあとだった。
外のガラス戸が開いているかもしれない。
利奈は庭に出て、アトリエの正面に向かった。しかしガラス戸も開かなかった。遮光カーテンが閉め切られていて、中の様子もうかがえなかった。
「だから優也に電話をしたの。すぐ家に戻ってもらおうと思って。部屋の中でオイルが漏れていたりしたら大変。取り返しがつかないことになっちゃうから」
優也への電話はつながった。ただ受話器の向こうの様子がおかしい。『ううっ』と苦し気なうなり声だけが聞こえてくる。呼びかけても、まともな応答がなかった。
優也に何かがあったのだ。
利奈は急いで玄関にカギをかけ、愛車に乗って家を出た。河原にいくといっていたから、道筋はわかっている。崖の坂道を下っていった。狭くても車一台分の幅はある。
坂道の途中、自転車と一緒に倒れ込んでいる優也を見つけた。
見つけた時には手遅れだった。
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