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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)

41.麻痺した痛み

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 部屋に戻ってからしばらく経って、騒動に至るまでの経緯を聞いた。肇くんの方から話してくれた。きっと安心して気が緩んだんだろう。

 実はうちの職場が入っているショッピングモール内で、三ヶ月ほど前から肇くんの友人も働き始めていたらしい。

 名前を聞いて思い出した。前に一度だけ会ったことがあるけど顔までは覚えてない人だ。でもあちらからすると私は印象に残っていたらしくすぐにわかったという。
 同じアパレル関係なら競合店とのやり取りで関わる機会もあったかもしれないが、薬局勤務では接点もない。

 その人が千秋さんと私が一緒にいるところを見かけたそうだ。よりによって恋人のフリをしたタイミングだった。それで心配になって肇くんに連絡をしてきたという訳だ。

 悩んだ肇くんは後日、その友人に「トマリと一緒にいた男の様子を見ていてほしい」と頼んだ。それでなんとか苗字と大体の役職まで辿り着いた。多分、休憩室とかでうちの職場の誰かが“千秋マネージャー”と呼んでいるのを聞いたんだろう。

 スカウトマンに付きまとわれていた件に関しては、私のメッセージアプリを覗き見した以外は考えられないだろうな。肇くんも私も、お互いそこには触れなかったけど。


 私を腕の中に包み込んだまま、彼は寂しそうに笑った。ただ君を信じていれば良かったのに自分は愚かだ、などと呟いた。

 したたかだと思った矢先に弱ったところを見せてくるなんて、この人もなかなかズルい。
 でも今はお互い様と言えるだろう。
 私はすっかり冷えてしまった彼の背中をそっとさするのだった。


 彼が愚かだというのなら私は更に愚かだ。人を傷付けていることにさえ気付かないのだから。
 肇くんも、千秋さんも、きっと私のせいで……。

 その日の帰り道は、私にも自嘲の笑みが浮かんだ。


 翌日は出勤日だった。
 店舗に入って早々、空気が変わっているのがわかった。噂が広まったときとは比べものにならないくらい過ごしやすい。

 私はすぐにストックルームの作業に入ってしまったけれど、ちょうどお客様がいなくなったタイミングだったのか、スタッフたちの話し声がドア付近まで届いてきた。

「ね~! ホントもうびっくりしたわよ。まさか千秋マネージャーがそんなことするなんてって思ったけど……」

「相原店長も事情を知ってたなら言ってくれれば良かったのに~!」

「やっぱ兄妹だね、あの二人。お兄ちゃんが怖い人から妹を守ってあげる構図?」

「うんうん。やっぱそっちの方がしっくりくるよねぇ。色っぽさとかあの二人には似合わないもん」


 効果はあったようだ。
 そう、これこそが昨日立てた作戦。

 駅前の喫煙ブースで私は電話ごしに頼んだ。


――千秋さんと恋人のフリをしたあのとき、相原店長も一緒にいたことにしてもらえませんか?――


 本当は嘘なんて嫌いだ。ましてや人に協力させるなんて。だけどもうこれくらいしか手段が残ってないような気がしたんだ。

 これに対し、相原店長の返事は実に冷静かつ鋭いものだった。


――いえ、もし目撃者がいたら「間違いなく二人きりだった」と論破されて終わりよ。一緒にいたのではなく、私がひと通りの事情を聞いた上で許可していたことにします――


 確かにこちらの頼みよりも確実な提案に感じたけれど、“許可”なんて言葉を聞くと緊張してしまう自分がいた。

 それでは相原店長にとってもリスクが高いのではないかと心配した。
 でも彼女はあくまでも落ち着いた口調で言ったのだ。


――私がいま恐れているのは上に伝わってしまうこと。スタッフの間の噂で留まっているうちに手を打たなければならないわ。まずはみんなに納得してもらうところからよ。それなら万が一話が漏れても笑い話として伝わるでしょうから、リスクはいくらか軽減されるかも知れないわ――


 実にわかりやすい解説だと思った。

 騒動の後、肇くんの言動を受けて私はすでに確信していたのだ。
 千秋さんに社会的なダメージを与える。それこそが彼の狙いなのだと。だから権力を利用して女性スタッフ、つまり私に迫ったなどというシナリオを作ったんだろう。

 伝わり方は重要だ。同じ内容でも全く違う状況に聞こえたりするのだからな。
 相原店長には負担をかけてしまうだろうけど、ここで食い止められるならそれに越したことはないと思った。


「それにしてもさ、トマリンの彼氏さん束縛やばいね。思い込みも激しいっていうか」

「ね~! 職場に乗り込んで来るなんていくらなんでも愛が重過ぎるわ。私だったら付き合えないかなぁ」

 ……肇くんにも申し訳ないことになってしまって胸が痛いところなのだが、一応目的は果たせているようだ。
 私はストックルームのドアにもたれ、ふぅと短く息を吐いた。

――そうかしら?

 でもすぐに緊張が訪れた。あの人の声だったから尚更だ。


「本当に思い込みなのかしらね。必死になるくらいの理由があったのかもよ」

「理由って、何か思い当たることがあるの? 山崎さん」

「だって恋人のフリなんて普通する? わざわざ千秋マネージャーに頼らなくても彼氏に迎えに来てもらえばいい話じゃない。桂木さんだってスカウトマン怖い~! とか言いながら本当はまんざらでもなかったんじゃないのかな~……なんて」

 含み笑い、してるんだろうな。目はきっと軽蔑の色で。そんな想像が容易に出来てしまった。

 でもいいんだ。千秋さんだけが悪く言われるなんて不公平だから。二人で問題になったんなら私もこれくらい我慢しなければと思って目を閉じた。

「あの~……」

 遠慮がちに思えたるみさんの声が衝撃の一言を放つまで。


「山崎さんって、自分がトマリンを追い詰めたっていう自覚ないんですかぁ?」


 …………

 …………え?


「…………は?」

 私の内心と同じくらいの間を置いて山崎さんも反応した。理解が追いつかなかったのだろう。
 他のスタッフたちの声は完全に止まってしまった。
 それでもるみさんは平然とした口調で続ける。


「スカウトマンを怖がってるトマリンのこと、山崎さんが散々バカにしたんですよ。忘れたんですかぁ?」

「あれはアドバイスをしただけで……っ!」

「だからトマリンは千秋マネージャーを頼るしかなくなったんでしょ。可哀想に。逃げ道を塞いだ立場の人が性懲りも無くまたバカにするなんてさすがに引くわぁ~」

「はぁぁ!? なんなのあなたその言い方!」

 もはや店内で出すべきではないヒステリックな声が上がったとき、今度はあすか先輩の声が被さった。

「るみ! 今のは言い過ぎよ。謝りなさい。山崎さんも落ち着いて」

 私も……今のはマズいと思う。というより、るみさんらしくもない言い方だった。確かにたまに毒を吐く子ではあったけど、あえて波風立てるようなことは今までしなかったのに。

「いい加減にしてよ! みんな私を悪者扱いして!」

「山崎さん、ちょっと場所を変えましょう」

「ほっときましょうよ、あすか先輩」

「るみ! あんたは大人しくしてて!」

「いいんですよ~、るみはもう何言われたって痛くも痒くもないんで!」

「あっ、ちょっとるみ、何処行くの!」


 何処行くのって、今聞こえた。みんながるみさんを呼び止めようとする声も。

 私は居ても立っても居られず、ついドアを開けてしまった。


「るみさん!?」

「わっ、聞いてたの桂木さん」

「るみさんは何処行ったんですか?」

「あっちの方へ歩いてっちゃったけど……」

 何故かすでに息が切れているような感覚。それでも私は後を追った。
 このままではいけない……というより、これが最後になってしまうような予感がしたんだ。


「るみさん、るみさん! 何処ですか」

 何も持たずに出ていったるみさんはきっとスマホもロッカーに置きっぱなしだろう。
 私は従業員用の通路を進む途中で休憩室やトイレに立ち寄った。その度に彼女の名を呼んだ。

「るみさん……」

 私を庇ったばかりに。私に関わった人はみんなこうなるというのか。ダニエルも千秋さんもるみさんも。

 壁にもたれて息を整える。悔しさで唇を噛み締めていた。
 そのときふと、ある場所が思い浮かんだんだ。


――るみはね、お客様と話すの好きだよ。でもどんなに楽しく過ごしたって赤の他人じゃん。むしろお互いに割り切ってるから成立してる関係じゃん。だからるみの気持ちわかってほしいとも思ってないの――

――でもね……たま~に、ちょっとだけ、寂しいんだ――


 いつか彼女が本音をちらつかせた。メイクや髪型だけでなくキャラクターまで完璧に作り込んだ彼女がだ。

 そう、あれは二人で大量のストック作業をしていたとき……

 次第に早足になる。廊下の薄暗い方へ向かっているはずなのに、希望の光が見えた気がした。


「るみさん……良かった」

「へへ……鍵閉まってるってわかってたのに馬鹿だよね、私」

 るみさんがそう言って苦笑したのは夏の催事のときに使った倉庫の前だった。彼女が今言った通り、必要なとき以外は開いてない場所だ。

 しん、と静まり返ったこの場所で何を思っていたんだろう。私にはわからないけれど、彼女からとてつもない切なさが伝わってくるようだった。

「ねぇ、トマリンは痛みに慣れないでね。痛いときはそう言っていいんだよ」

「痛み、ですか」

「るみは我慢しすぎて麻痺しちゃった。でも心はしっかり傷付いてたんだなって最近わかったの」

 彼女が身体ごとこちらを向いた。薄い微笑みは何を意味するのか。
 小さく首を傾げるとさらりと可愛らしく揺れるハーフツインの髪。

「トマリンたちが気付かせてくれたんだよ。素直でいいなって思った」

「私たち……って、すみません、私と誰ですか?」

「もう、トマリンは相変わらず鈍いなぁ」

 クスクスと笑うるみさん。
 そして後ろからヒールの足音が近付いてくる。

「こんなところにいたの、馬鹿るみ。もう大人なんだからしっかりしなさいよ」

「はぁい。ごめんなさい、あすか先輩」

「お説教は後。とにかくお店に戻るわよ」

「待って、その前に」

 るみさんはあすか先輩の袖を指先で掴むと、耳元まで唇を寄せ何か囁いていた。
 なんだろう、今のドキッとする感覚は。二人が仲良しなのは前から知っているはずなのに。不思議に思った。

 やがて横目でこちらを見たあすか先輩がそのまま小さく頷いた。るみさんに答えた。

「わかった。いいよ、桂木さんになら言っても。誠実な人だからね」

 私に……? 何を伝えるつもりなんだろう。
 戸惑っていたのは束の間のことだ。

 二人の指先が触れ合う。ゆっくりと手を繋ぐ。それはまるで私の理解の速度に合わせてくれてるみたいだった。

「あすか先輩、遠くに行っちゃうの。るみは着いていくことにしたの。だからこの職場もそのうち辞めちゃう」

「るみさん……」


「大切な人なの。ずっと一緒に生きていきたいの」
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