あたしが大黒柱

七瀬渚

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第2章/恋人時代はこんなんで

7.独りで頑張らなくていい

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 同日。葉山実家から帰って来たのは大体夕方18時頃だ。

 レンタカーは蓮の最寄駅のすぐ近くの店で借りていたから、返し終わった後そのまま徒歩で彼のアパートに向かった。

 電気をつける前からチラチラと輝いてあたしたちを迎えてくれるネオンテトラたち。もう見慣れたもんだ。

 靴を脱いで速攻、蓮は室内に駆け込んだ。後ろ姿だけでも既に嬉しそう。ピョンピョン飛び跳ねるようにして魚たちの元へ駆け寄る無邪気な白ウサギ。ほんっと可愛いなこいつ。マジで悶絶するぐれぇ可愛いんだけどよ……


 あたしには言っておかなきゃならねぇことがある。


――蓮。


 彼の背中がぴくりと跳ね上がった。多分思いのほか野太く出てきたあたしの声のせいだろう。

 いや、あたしだってな、もっと優しく声をかけるつもりだったんだよ。だけど簡単には治せない性分っていうのかな、こう声色とか表情に現れちまうってのは。

 恐る恐るといった様子でこちらを振り返った蓮の表情がまぁ見事に引きつった訳だ。ぎく、っていう効果音がバッチリ当てはまりそうなわっかりやすい仕草。ついでに両手をパーカーの袖ん中にしゅっと引っ込める。

 あたしは努めて口角を上げた。これでも空気を和らげようとしたつもりなんだけど


「お前、通院サボってたんだってな」

「!」


「あっ、こら待て!!」


 多分却って怖かったんだろう。どうしても抑えられない感情に無理矢理作った笑顔。結果的にラスボス級の邪悪な笑みになってたんじゃないかと思うぞ、うん。

 蓮は頭から布団の中へと突進した。その動作の素早さにあたしは唖然とする。普段のおっとりした仕草は何処行った。ちょっとしたアクションシーンじゃねぇか。

「怒ってねぇから出てこいやぁぁ!」

 隠れてるつもりが丸見えになってる蓮の尻を掴んでこんなことを言ったんだけど説得力皆無だな。

 そうだ、あんま怖がらせちゃいけねぇぞ、あたし。優しく、優しくだな……!


「おい、蓮。聞け。あたしはお前が心配だから言ってんだ。今後のことをちゃんと話し合いたいから…………あっ」

 布団を剥がそうとしたとき、なんと蓮の奴があたしの腕を引っ張って布団の中へ引きずり込みやがった。そのままあたしをぎゅうっと抱え込む。痩せた胸に顔面押し付けられて苦しいなんてもんじゃねぇ。

 あたしが抵抗すれば蓮もこそばゆい抵抗をしてくる、さっきからその繰り返し。


「蓮、ちょ、まっ……あはっ、駄目、だって……あっ」


 って乳繰り合ってる場合じゃねぇだろ! アホか!!


 わざとなのか偶然なのか際どいところをまさぐられたあたしは、ふやけそうな意識を振り払うべく蓮の両手首をがっちりと抑えつけた。彼に覆い被さってしっかりと見下ろす。

「葉月、ちゃ……ごめ、なさ……」

 頰を染めて目を背けるな。あたしが襲ってるみたいじゃねぇか。



 夕闇が濃さを増して、繊細な彼に印影をつける。互いに息が整う頃、彼は罰を受ける覚悟を決めたみたいに瞼を固くつぶっていた。

 そしてあたしはというと……

「あたしこそごめんな、蓮」

 彼の頰をそっと撫でながら反省の意を伝えていく。そう、責められるのは何も彼ばかりではない。

「ここへ何度も通ってたのに気付いてやれなかった。言われてみればお前、薬飲んでる様子も無かったもんな」

 馬鹿だな、あたしも。そう思った。

 病や障害は精神論だけじゃ乗り越えられない。ただ側に居るだけで支えになれるなんて、そんな甘いモンじゃないだろうと。


 気が付けば蓮が首を横に振っていた。動きに合わせて涙がはらりと枕へ伝い落ちる。

 小さな唇が何か伝えようとしているみたいに見えたから、あたしはそっと耳を寄せた。そして確かに届いた。紛れもない彼の声で。


「独り……頑張れな……かっ……」


 相変わらず凄く小さくて細い声なんだけど、それは切実な悲鳴としてあたしの中へ響いた。



 それからあたしらは筆談で会話をした。今夜は泊まり込んでもいいと思ってちゃっかり準備しておいたし、蓮は甘えたいオーラ全開だけどイチャコラすんのはまた後だ。

 どうもこいつは依存体質で現実逃避気味だから、締めるとこ締めてかないとキリのないことになっちまう。ぶっちゃけあたしも理性と本能の戦いなんだけどな。


 そんでいくつかわかったことがある。

 蓮は既に精神障害者手帳(現在は3級)を所持していて、自立支援医療制度も受けられる状態にあったが、もう3ヶ月程前から精神科への通院を一方的に絶っていた。

 そうなった原因の一つに担当医との信頼関係が上手く築けていない可能性が考えられた。発達障害との診断を下した当時の担当医は別の病院へ移ってしまって、後任となった医者が今の担当らしいんだが、どうもその人とは筆談でも会話が上手く噛み合わないらしい。

「担当医は変えてもらうことも出来るんだぞ? あっちだって仕事と割り切ってやってるんだ。こっちは生活がかかってる。必要なことなら伝えなきゃな」

 蓮の頭を撫でながらそう言ってやったが、まぁこいつのことだ。面倒見てもらってるのに申し訳ないとか思っちまうんだろうな。上手く伝わらないのは自分のせいだと勝手に結論付けちまうんだろう、きっと。こいつはそもそも反省の仕方を間違ってる。


 実はこれこそが蓮の母親から提示された条件なんだな。


――あの子、ちゃんと病院に行ってます?――


 この質問をされたとき、あたしは答えられなかった。いや、答えたことは答えたけど、すっごい気まずい思いで「すみません、わかりません」とか言えなかったんだ。

 ほんの一瞬ばかりしか素顔を露わにしなかった白薔薇夫人は、実際んところ呆れていたかも知れない。そんなことも把握してない状態でよく結婚の話なんて持ちかけられたものね、と。


 しかしとげはあれども彼女はやはり謙虚だった。


――本来は私がしっかりしていなければならなかった。息子の心も開けないくせに、条件ばかり押し付けてくる嫌な母親と思って下さっても構わないわ――

――だけど私も、本当に、心から、貴女を信頼したいから――


 つまり蓮ママが言いたかったのはこうだ。

 病院嫌いですぐ逃げ腰になる蓮をちゃんと通院できるようにサポートしてほしい。何故なら、母親がいくら言っても大丈夫の一点張りで言うことを聞かないから。


 先月、蓮が自殺未遂の騒動を起こした後、このアパートを訪れた母親は気付いていたんだそうだ。精神科で貰っているはずの薬が何処にも無いことを。

 更にこんなことも言ってきた。


――履歴書セットが3つも買い置きしてあったの。一緒に顔写真もあったんですけど、何枚も使われた形跡があったわ。自殺未遂の原因はそれかも知れません。仕事が続けられなくて絶望してしまったのかも……――

――でもね、私が深くまで探ろうとするとあの子は尚更心を閉ざしてしまうの。実家を出たいと強く願ったのも蓮自身だった――


――いま最もあの子の心の近くに居るのは、葉月さん、貴女なのよ。厚かましいのは承知の上です。だけど、本当にあの子のことを想ってくれているのなら、どうかお願いします……!――


 やっぱりさすが母親だよ。よく見てる。こいつやべぇ可愛いと悶えてただけのあたしとは雲泥の差だ。

 母親の真剣な眼差しを受けて、あたしは思いのほか頼られているんだと感じた。まさにわらにも縋る思い。

 縛り付けておく訳にもいかない、雁字搦めにしては傷付けてしまう。苦しんでいるであろうことに気付いていながら何も出来ないというのは凄く辛かっただろうと想像するだけであたしも胸が締め付けられた。涙を抑えるので精一杯だった。


 知り合ったばかりのあたしを信頼しようと努めてくれている彼女にも、これからは出来るだけ心労をかけたくない。

 そして何より蓮の生きやすい環境を作りたい。

 やっぱあたしが惹かれたのはこいつだから、どうしてもこいつ優先の思考になっちまうみてぇだな。だけど母親も蓮の幸せを第一に願っているなら目的は一致してる。あたしは必ずやってみせるよ。



「蓮、あたしが病院に予約の電話を入れる。一緒に行こう」

「……ん」


「もう独りで頑張ろうとしなくていいんだ。あたしが付いてるから、一緒になら、きっと出来るさ」


「あり、がと」


 やっと本当に、蓮の為になる一歩が踏み出せるんだな。あたしはそう思っていたんだけど……


「葉月、ちゃ……」


 蓮がいつものメモ紙に書いて寄越してくれた。パーカーの裾をぐいぐい引っ張りながらもじもじしてるから、多分堅苦しい話じゃないんだろうなってすぐわかったけど。

 そこには今のあたしにとって救いになる言葉が綴られていた。



『葉月ちゃんのおかげで僕は生きていこうと思うことが出来ました。お医者さんも凄いけど、葉月ちゃんも凄いです。だから葉月ちゃんが謝ることはないです』

『葉月ちゃん、大好きです』



「馬鹿……こんなこと言われたら待てねぇよ」


 だって“好き”から“大好き”へランクアップしたんだぜ。たまんねぇだろ。これもう一回押し倒していいんじゃね? いいよね。


 だけど結婚はちゃんと待つ!

 涙目のあたしは内心で気合いを入れ直す。なんたって仕事のプロジェクト以上に本気で取り組みたいと思ったのなんて初めてなんだからな。

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