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【Lesson.3】
過去の男2
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付き合い始めたのは、多希が二十歳を過ぎた頃だったからもう十年以上も前のことだ。多希がアルバイトをしていたのは、所謂ゲイバーと呼ばれる店だった。
多希の地元では身近に性事情を相談できる相手がいなかったため、上京してから客として通い始めたのがきっかけだった。調理師の専門学校に通っていることを話したら、そこのママに手伝いを頼まれたのだ。
まだ二十歳になったばかりの多希は、言わずもがなゲイバーの常連の中では最年少だった。「若いねー」と言われるのは嫌ではなかった。
菅原という男と出会ったのは、多希が働き始めて数週間経ったときだった。
ママが数十分ほど、用事で外に出ていたときだ。「本当は多希ちゃん一人にしたくないんだけどごめんね」と謝られたが、多希は大丈夫ですと答えた。常連客もいたし、少しくらい粗相をしても笑ってくれるだろうという甘えもあったからだ。
ママが出て行くと、常連客の一人が多希にしつこく絡み始めたのだ。他の客もそこそこに酔っていて、嫌がっているのを分かっているはずなのに、わざと囃し立てられた。
ママなら上手くあしらって窘められただろうが、多希にはそういうスキルはない。「すみません」と泣きそうになりながら縮こまる多希を助けたのが、菅原だった。菅原は多希が始めて告白して、始めて付き合った男だった。
菅原はそのとき三十歳で多希とは十も離れていたけれど、堅苦しさはなかった。都会に来たばかりの多希の初な反応を見るのが楽しいと、菅原はいつも口にしていた。生涯で好きになるのも、添い遂げるのもきっとこの人だ。多希だけは、そう信じていた。
「今はもう別れました」
「……え」
「家族がいたんです。奥さんと、小さな子供が」
彼は仕事の関係でアパートに住んでいると言っていた。合鍵を渡されていた多希は、菅原の忘れ物を届けようとアパートまで行ったときだった。
アパートの廊下には女性と小さな子供がいて、菅原と玄関口で談笑している。すぐに二人を部屋に招き入れると、鍵を回した音がした。
「最低ですね」
「彼には開き直られました。問い詰めたら、聞かれなかったから答えなかっただけって。そのうえで、俺とも付き合いたいって」
裏切られたことにも傷付いたが、何よりも彼がヘテロであることが一番のショックだった。そういう人も世の中にはいると知っていたし、別に否定するつもりもない。けれど、男しか好きになれない自分とは、交わることはないと、多希は安心しきっていたのだ。
妻子がいることが分かっても、彼への恋愛感情はなかなか消えてはくれなかった。多希に向けられた笑顔も、優しくしてくれたことも、二人の時間を過ごしたことも、全て間違いだったと割り切れなかった。十年経った今でも、連絡先はずっと消せずに眠ったままだ。
「すみません。こんな話を。どうか忘れてください」
「由衣濱先生……」
「あの、俺。もう行きますね……」
どう考えても久住に話す内容ではなかった。今さらながら多希は身勝手なことをしてしまったと反省する。立ち去ろうとすると、手首を強く握られた。
「俺は女性を好きになったことがありません。男も特に気になるような人はいませんでした」
「は、はあ」
「由衣濱先生が俺の初恋です」
「……慰めてくれて、ありがとうございます」
多希は笑い泣きの顔で冗談を言うと、久住は少し赤らんだ顔にむっとした表情を足した。久住の言葉を全く信じていない訳ではないが、多希は一度相手を信用して大失恋しているのだ。真っ直ぐな思いは重すぎて答えられない。
まだ何か言いたげな顔をしている久住の腕を振り切り、多希は講義室へ戻った。そして、スマホから菅原の連絡先を検索すると、ひと思いに消去した。心を雁字搦めにしていた鎖がぼろぼろと崩れたみたいな音が、脳の奥で響いたような気がした。
……────。
どうしてあんな話を久住にしてしまったのか。初めて失恋話を人に話して、心が軽くなったのは確かだが、久住は多希の生徒だ。もちろん、久住が軽薄に言いふらさないとは多希も承知している。
過去の恋愛の傷を埋めるには、新しい恋が必要だと頭では分かっている。けれど、深く溺れるような恋愛をするのが、怖い。人を好きになることに、すっかり臆病になってしまっていた。
「あっ。先生お疲れさまです! 本日もありがとうございました。ふふ、早速先生に教わった料理、家でつくってみたんです。旦那も娘もすっごく褒めてくれて……」
「……そうなんですか。お役に立ててよかったです」
菅原 美月という女性は、先月から多希の講義に参加してからというもの、毎週顔を合わせている。美月には一切悪気がないことは分かってはいるが、通りかかっただけで何分も引き止められてしまうと、内心で面倒だとつい思ってしまう。
そして、久住ならきっとそんなことを思わないだろうな、とも。
多希の地元では身近に性事情を相談できる相手がいなかったため、上京してから客として通い始めたのがきっかけだった。調理師の専門学校に通っていることを話したら、そこのママに手伝いを頼まれたのだ。
まだ二十歳になったばかりの多希は、言わずもがなゲイバーの常連の中では最年少だった。「若いねー」と言われるのは嫌ではなかった。
菅原という男と出会ったのは、多希が働き始めて数週間経ったときだった。
ママが数十分ほど、用事で外に出ていたときだ。「本当は多希ちゃん一人にしたくないんだけどごめんね」と謝られたが、多希は大丈夫ですと答えた。常連客もいたし、少しくらい粗相をしても笑ってくれるだろうという甘えもあったからだ。
ママが出て行くと、常連客の一人が多希にしつこく絡み始めたのだ。他の客もそこそこに酔っていて、嫌がっているのを分かっているはずなのに、わざと囃し立てられた。
ママなら上手くあしらって窘められただろうが、多希にはそういうスキルはない。「すみません」と泣きそうになりながら縮こまる多希を助けたのが、菅原だった。菅原は多希が始めて告白して、始めて付き合った男だった。
菅原はそのとき三十歳で多希とは十も離れていたけれど、堅苦しさはなかった。都会に来たばかりの多希の初な反応を見るのが楽しいと、菅原はいつも口にしていた。生涯で好きになるのも、添い遂げるのもきっとこの人だ。多希だけは、そう信じていた。
「今はもう別れました」
「……え」
「家族がいたんです。奥さんと、小さな子供が」
彼は仕事の関係でアパートに住んでいると言っていた。合鍵を渡されていた多希は、菅原の忘れ物を届けようとアパートまで行ったときだった。
アパートの廊下には女性と小さな子供がいて、菅原と玄関口で談笑している。すぐに二人を部屋に招き入れると、鍵を回した音がした。
「最低ですね」
「彼には開き直られました。問い詰めたら、聞かれなかったから答えなかっただけって。そのうえで、俺とも付き合いたいって」
裏切られたことにも傷付いたが、何よりも彼がヘテロであることが一番のショックだった。そういう人も世の中にはいると知っていたし、別に否定するつもりもない。けれど、男しか好きになれない自分とは、交わることはないと、多希は安心しきっていたのだ。
妻子がいることが分かっても、彼への恋愛感情はなかなか消えてはくれなかった。多希に向けられた笑顔も、優しくしてくれたことも、二人の時間を過ごしたことも、全て間違いだったと割り切れなかった。十年経った今でも、連絡先はずっと消せずに眠ったままだ。
「すみません。こんな話を。どうか忘れてください」
「由衣濱先生……」
「あの、俺。もう行きますね……」
どう考えても久住に話す内容ではなかった。今さらながら多希は身勝手なことをしてしまったと反省する。立ち去ろうとすると、手首を強く握られた。
「俺は女性を好きになったことがありません。男も特に気になるような人はいませんでした」
「は、はあ」
「由衣濱先生が俺の初恋です」
「……慰めてくれて、ありがとうございます」
多希は笑い泣きの顔で冗談を言うと、久住は少し赤らんだ顔にむっとした表情を足した。久住の言葉を全く信じていない訳ではないが、多希は一度相手を信用して大失恋しているのだ。真っ直ぐな思いは重すぎて答えられない。
まだ何か言いたげな顔をしている久住の腕を振り切り、多希は講義室へ戻った。そして、スマホから菅原の連絡先を検索すると、ひと思いに消去した。心を雁字搦めにしていた鎖がぼろぼろと崩れたみたいな音が、脳の奥で響いたような気がした。
……────。
どうしてあんな話を久住にしてしまったのか。初めて失恋話を人に話して、心が軽くなったのは確かだが、久住は多希の生徒だ。もちろん、久住が軽薄に言いふらさないとは多希も承知している。
過去の恋愛の傷を埋めるには、新しい恋が必要だと頭では分かっている。けれど、深く溺れるような恋愛をするのが、怖い。人を好きになることに、すっかり臆病になってしまっていた。
「あっ。先生お疲れさまです! 本日もありがとうございました。ふふ、早速先生に教わった料理、家でつくってみたんです。旦那も娘もすっごく褒めてくれて……」
「……そうなんですか。お役に立ててよかったです」
菅原 美月という女性は、先月から多希の講義に参加してからというもの、毎週顔を合わせている。美月には一切悪気がないことは分かってはいるが、通りかかっただけで何分も引き止められてしまうと、内心で面倒だとつい思ってしまう。
そして、久住ならきっとそんなことを思わないだろうな、とも。
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