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勾当内侍との出会い
しおりを挟む呉服問屋「ふよう」 ───────
有子様の危機を知る由も無かった呉服問屋「ふよう」では、今朝方、母君から言付かった、三条家の奥方様の受け取りが滞りなく終った後は誰もお客様のご来店はありませんでした。
「おたあさん、遅いですわねぇ」
弟君の、綻びてしまった衣服を縫いながら、葉子さまはそう呟かれました。
葉子さまは母君の有子様から仕立てを教わっており、袿・袴・唐衣・束帯という貴族の装束から、小袖に至るまで多岐にわたる仕立てがお得意なのでございました。
「せやな……」
入り口から外を眺めながら、藤子さまが静かに言いました。
昼には帰ると言っていたのに間もなくその刻限になってしまう。言った事は必ず成し遂げる性格の母君であったので、何かあったのでは無いかと胸騒ぎが更に藤子さまの心を覆いつくすのでございました。
「ごめんくださいまし~」
しばらくすると、どなたかがもう一方の入り口から店に入って来られました。
店には換気の目的もありつつ、混雑を避ける為、二つの入り口を構えておりました。
「いらっしゃいまし……あ、九条様」
「いらっしゃいまし」
葉子さまも、藤子さまに続いて、九条家の奥方様に歓迎の言葉を発しながらお辞儀をなさいました。
「あら、藤子ちゃん。……おや、有子さんは?」
九条家の奥方様は店内を見渡しながら仰られました。
「今朝方、御所の縫殿寮へ西陣織を届けに参内しておりまして」
「あら、いつもご苦労ね」
ここにいない有子様に対し労いのお言葉を述べられた九条家の奥方様でした。
「あ、ご注文の承りですね?私でよろしければ、承りますが?」
勘定台へ向かいながら、藤子さまが案内しようとなさると、九条家の奥方様はお手を目の前にかざしながら仰いました、
「あ、あぁ。また来ますわ。午後と言うたのにちょっと早めに来ちゃったから」
藤子さまは一瞬寂しそうな顔をなさいました。
思えば、母君の手伝いと言いながら、初めて来るお客様ばかりを相手にして来られました。
古い顧客はほとんど、有子様を頼りにして来られる。新年の折、初めて顧客へ挨拶周りをし、紹介されても、お客様は藤子さまに見向きもせず有子様にばかり話しかける始末でございました。
その様な事が何年経っても変わらなかったのでございます。
「藤子ちゃん?」
「あ……い、いいえ、申し訳ございません。またのお越しをお待ちしております」
必死に取り繕い深々とお辞儀をすると、九条家の奥方様は店を出て遠くに停めさせた牛車に乗り込み、去って行かれました。
「何とも、失礼な方でございますなぁ、おねいさん」
奥方様が去ってしばらくしますと、葉子さまが言いました。葉子さまは姉君の事をおねいさんとお呼びになります。
「これ!大事なお客様にその様な事を言うのは控えよ」
「されど、おねいさんも、おたあさんと同じように知識が豊富でございますのに。公卿の皆さんはおたあさんを頼りにし過ぎですわ」
有子様が留守の折、ほとんどの顧客は帰って来るまで待っておりました。
藤子さまが何度も見本帳を渡そうとなさったり、話を伺おうとなさいましたが一向に振り向いてはくださいませんでした。葉子さまはそれを見る度に姉の虐げられようを不憫に思っているのでございます。
「いいや、私がまだ未熟者だからや。もっともっとおたあさんの様に、立派な主になれる様に努めなければならんのや」
藤子さまのご決意は並大抵のものではありませんでした。
後宮・座敷牢 ───────
ここは薄暗い後宮にある座敷牢でございます。
鼠の鳴き声が響き、地上からの水音が響き渡るこの場所は、かつて祖業の悪い女官や更衣様が閉じ込められた事がある場所でした。
漆塗りの鉄格子の中で有子様が目を覚まされました。気が付けば、裾を絡げていた袿は紐解かれていたのです。
「お目覚めになられましたか」
先刻、布で暗くなった視界から聞こえた威厳のある声がしました。辺りを見渡すと、こちらを凝視する大きな黒い影が目の前に立っていたのです。
「ここは、どこです!私をどうするおつもりです!!」
すっくと立ちあがり、鉄格子に手を掛けて怒り心頭に訴える有子様でしたが、その瞬間、窓から差す光で、その威厳のある声の主は女房装束の女官だとやっと分かったのです。
女官は怒る有子様に目もくれず、前を見据えて威厳と落ち着きのある声で言い放ちました、
「威勢のおよろしいお方であらしゃいますなあ。まぁまぁお鎮まれませ。別に貴方様を取って食おうとは思ってはおりませぬ」
女官の隣を見ると狩衣姿で刀と脇差しを差している体格の良い検非違使が立っていました。有子様はその恐ろし気な風貌に、ついつい恐れから後ずさりをしてしまいました。
「よくお聞き遊ばせ。貴方様がこの座敷牢に入られたは、御上よりのご勅命によるものでございます」
帝よりの御勅命に女子が囚われる。これは、”帝の妻” となる事を意味しておりました。
「帝が……?何故でございますか?憚りながら私は、帝に拝謁した事は一度もございませぬ」
すると女官は初めて有子様の目を見て、声色を一つも変えず、少し薄ら笑みを見せながら言いました、
「御上が、貴方様を御覧遊ばされたのでございますよ」
一瞬、時が止まった様な感覚でした。自分の様な決して美しくもない、平凡な私が……と信じられないような心持ちであったのです。
「御上が変わりに申すように仰せになられたので申し上げます。先月、貴方様が縫殿寮へ御生地をお届けに上がられた後、雨に打たれ、上東門の屋根の下で雨宿りされた所を陽明門からお出になられた御牛車から御上が貴方様を御覧遊ばされたのでございます」
事の真相を利かされたのにも関わらず、そこで有子様はなぜか疑問に思われました。長年縫殿寮へ通い続けて来た為か門の位置を把握していた有子様にとってはとても遠回りの様に感じたのです。
「な、何故わざわざ陽明門から御上がお出になられたのですか」
急な質問に、女官は嫌悪な顔をしながら冷たい声で言い放ちました、
「さあ?大方、雨で郁芳門や待賢門が開かなかったのでございましょう」
咳払いをして、女官は話を続けました、
「御上はどう遊ばされても、貴方様に参内して頂きたく、縫殿寮に言って生地の調達を貴方様にお願いする様にし向かれたのでございます。そして、今日、縫殿寮とここにおる小笠原と私のみに御上がご命令遊ばされ、現在に至りまする」
今朝、縫司の挙動不審だったあの行動にようやく説明が付きました。西陣織の調達など本当は無用だったのです。帝が有子様を後宮に入れさせたいが為に、嘘の注文をさせたのだと結論付けられたのです。
しばらく考えると真っ先に頭をよぎったのは家に残してしまわれたお嬢様方の事でございました。
「お願い致します!!どうか、私をここから出してください!」
鉄格子を揺さぶりながら、有子様は女官に涙を交えて訴えられました。
すると女官は平然とした態度でこう言いました、
「では、御上の御御願いをお聞き入れ遊ばされるのでございますね?」
有子様は涙しながら応えられました、
「私は、器量良しでも実家が公家という訳でもありません!ただの呉服問屋の主です!私には子供が四人もいるのです!」
「それで?」
熱心な訴えも空しく、女官の思わぬ冷静な返答に有子様は戸惑いました、
「そ、”それで” ?貞節の教えに背く事でございますよ!!貴方には分からぬのですか!!」
「ほう……儒教ですか。学がおあり遊ばします事。後宮では、学など必要無き事。御上のご勅命は絶対にございます」
何を言っても聞き入れてくれない、有子様は愕然とし、腰が抜けてその場で頽れたのでございました。
「まぁ、今日はお休み遊ばされませ。小笠原、よぉく監視しておくのですよ」
小笠原と呼ばれた検非違使は、承知しましたと返事をすると女官は女房装束の重たく引きずる衣擦れの音を響かせながら、去って行かれました。
その後は、物音は何もしませんでした。
有子様のすすり泣くお声以外は……。
─────────────────────────────
その日の午後、呉服問屋「ふよう」は大騒ぎになりました。
有子様がいつまで経っても帰って来ぬ故、ただならぬ事だと思い至った九条家の奥方様は心配し、夫であり、時の右大臣である九条忠香様に願い出、縫殿寮へ足を運び、有子様の行方を問い質されました。
「帰られたとはどういう事じゃ?!」
「せやから、右大臣さん、なんべんも言うたではあらしゃいませぬか。芙蓉殿は御生地をお届け頂いた後は丁重にお帰り頂きました」
縫司は有子様に起こった事は承知の上でしたが、墓場まで持って帰る様にとの女官の命に従い、偽りの事を述べていました。
「そんなはずは無い!!店では、子供らが心配して待っておるのじゃぞ!!帰って来てはおらぬ!!」
顔を赤くさせながら、右大臣は怒りを露わにして訴えられました。
「さぁ……もう間もなく帰って参るのではあらしゃいますまいか?」
「その方に問うても埒が明くまい!失礼する!!」
何度も同じ回答に嫌気が差し、右大臣はとうとうその場を立ち去って行かれました。
右大臣は今度は内裏に足を運び、帝に直に訴えようと考えられました。足早に、帝が政務を執り行う大極殿へ向かうとすると、何者かが右大臣の前に立ちふさぎ、制止しました、
「九条さん、お待ちなされ」
有子様を浚ったあの女官でございました。
「その方、今はご公務について話し合うている暇は無い!」
「どうぞ、この場はお引き取り下さいます様お願い致します」
「何故や!」
ちと、と女官は袿の広袖で隠しながら、右大臣に耳打ちをしました。
すると右大臣は顔を青ざめさせ、女官の顔を見やると、にやりと笑って来たのです。
呉服問屋 「ふよう」───────
店主が不在の店の「ふよう」では早い店仕舞いが施されました。
卓上を囲み、ご子息とお嬢様方は不安で仕様がありませんでした。
事故にでも巻き込まれてるのか?もしくは誰かにさらわれたのか?
そういえば、近頃の都では「御所荒らし」という輩が町を跋扈しているという噂がある。それに襲われたのか?と、様々な不安が藤子さまの心を襲いました。
昨夜からの胸騒ぎはこれの事なのかと、藤子さまは信じたくありませんでしたが、今のこの状況を鑑みると、そう受け取らざるを得なかったのでした。
子供の中で心配しているのは藤子さまと葉子さまだけで、まだ物心のつかない呉竹さまはこっくりと眠りに落ちそうになり、末のゆう子さまは既にぐっすりと籠の中で眠ってしまっておりました。
しばらくすると、店の戸を叩く音がしました。
「藤子ちゃん!私や!」
九条家の奥方様でございました。
藤子さまは奥からすぐさま立ち上がり、店の戸を開けました。
「九条様……。それで……母は?」
「……ふ、藤子ちゃん?今日はなんも心配せず、休みや?もう夜やし……な?」
母君の安否が分かったのかと思いきや、笑顔を見せて、心配せずに寝ろ?藤子さまは思わずお得意様である、奥方様に向かい、血相を変えて怒鳴り付けられました、
「何故ですか?母が襲われてるやもしれん言うのに、なんでそんなに平気で笑うていられるんどすか?!!」
いつもは平静な姉が珍しくこんなに怒号を響かせるとは、と葉子さまは驚かれました。
「おねいさん、落ち着きや?お得意さんにそないな口の利き方はあきまへんって、おねいさんが良う言わはった事やないの!」
葉子さまは、必死に藤子さまを落ち着かせようとなさいました。
藤子さまはいままで顧客から受けていたいじめに対し、九条家の奥方様に向けて怒りを解き放したのでした。
「大丈夫よ、葉子ちゃん。とにかく、明日、御所よりの使いが来ますよって、お待ちくださいます様にとの事や」
「……御所よりの?」
何故、明日御所から使いが来るのか?と藤子さま達が疑問に思っている間に、失礼致しますと深々と頭を下げて奥方様は店から出て行かれました。
九条様は何を御所へ問い質したのか、とても知りたかったのです。母は本当に無事なのか?無事であって欲しいと心から祈る藤子さまでございました。
後宮・清涼殿 夜 ───────
日が沈むと、帝はすべてのご政務を内裏の大極殿で終えた後、本来は清涼殿の御帳台の中で過ごされていました。しかし、帝は簀子縁にお立ちになり、月を眺めておいででした。連れ去らせた呉服問屋の女主の事が気がかりの御様子であられたのでございます。
時の帝の御名は冷徳。歴代の天皇の中では珍しく、ご公務を熱心に執り行われた都の主導者でございます。大臣や関白に政務を任せきりにされず、都のみならず様々な国にまでも視野を広め、政策に取り掛かられている御方でございました。
しばらくすると、遠くから重い衣擦れの音がしました。手燭を持ったあの女官でございます。
女官は帝の前に両手を付きながら名乗られました、
「御上、勾当内侍でございます」
帝は柔らかく、お優しい御声でお応え遊ばされました、
「おお、そなたか。どうや、あの女主は」
帝が清涼殿の中に入ると勾当内侍という女官も後に続きました。
帝が御帳台に入られ、お座り遊ばすのを確かめた後、勾当内侍は下座に座して事の子細を申し上げました、
「依然頑なでございますが、この勾当内侍、何としてでも後宮へ入る様認めさせまする」
「なんとか頼むぞ。その者に、最高の食事と着替えを与えるのや。なんとしてでも後宮に入れさせ、朕の妻にしたいのや」
「承知仕りましてございます」
帝は檜扇を広げられご自身の身を扇ぎ遊ばされ、妻となられる有子様の事を思うておいででございました。
後宮・座敷牢 ───────
泣き疲れた有子様はいつの間にか眠ってしまっておりました。
夢の中で、藤子、葉子、呉竹、ゆう子が路頭に迷い、泣き崩れていた。呉服問屋「ふよう」も荒れ果てた状態だった。今すぐ助けなくては、と手を伸ばすも届かず、どんどんと離れて行く、そして、御所の門が固く閉ざされ、得体の知れぬ者に後ろから拘束させられると突然鋭い痛みが全身に広がった直後、はっと起き上がり目を覚まされました。
気付けば、夜になっておりました。窓からは月の光が差し込み、虫の声が微かに聞こえて来ます。
顔に掛かった汗を袖で拭き取りながら窓から月を見やると、この困難な時なのに、何故か月が美しいと感じてしまうのでした。これが人の性という物なのであろうか……と有子様は心が洗われる様でございました。
夢が現実とならない様にと有子様は月に向かい手を合わせました。
それと同時に入り口の錠が開いた音がし、勢いよく振り返られました。
「お元気そうで何よりでございます」
勾当内侍でした。いつもの威厳と冷静な声で二人の女官を従え、皮肉を言いながら座敷牢に入って来たのです。
勾当内侍が、小笠原に目で合図をされると小笠原は座敷牢の錠を開けました。
思いがけない行動に驚き、有子様は逃げるという判断が途端に思いつかず、部屋の隅へ後ずさりしてしまいました。
「お逃げにならないんですね。まぁ、その様なご気力もありませぬか」
この女官の言う通り、言い返す気力も、抵抗する気力も失くしていたのだ。
月に祈りを捧げた瞬間、空腹が有子様を襲っていたのでした。
「あぁ、申し遅れました。私、勾当内侍と申します。御上御付きの尚侍にして、本日より貴方様付きの女房として相勤めさせて頂きまする」
有子様の前にひれ伏し、両手を付いて自己紹介をなさいました。
何故、今になって?と有子様は思われました。
有子様は空腹で倒れそうになると、新しい着替えを持っていた女官が後ろから支えて来ました。
食事を載せた黒漆塗りの四方の懸盤を有子様の目の前にもう一人の女官が勾当内侍との間に置きました。
「とにもかくにも、お召し上がりなさいませ」
有子様は辛い程空腹だったが、そんなに簡単に屈するまいと断固として食す事は出来ませんでした。
「頑なにならずに、どうぞ。お人は食事をせねば生きては行けませぬ……。囚われの御身とは思わず、一人の人間として、目の前のお食事をお召し上がりになられませ」
有子様は、渋々箸を掴み、一口、魚の身を口に運ばれました。
「美味しい……」
余りの美味に有子様は無心で出された食事を口に運び続けられました。汁物、強飯、香の物、鮑、煮物と手当たり次第にお食べになられました。
女人が一心不乱に食事を口にするなど、あってはならない事でした。しかし、その様な事も気にならない程、とても空腹だったのでした。
同時にこの姿を、ここにいる高貴な宮中の四人、勾当内侍、小笠原、2人の女官に見られる屈辱と、店に残して来た藤子さま、葉子さま、呉竹さま、ゆう子さまの事など忘れて黙々と食すその口惜しさに涙が止まらなかったのでした。
しかし、有子様のお考えになっている事とは裏腹に勾当内侍らは黙って見守っておりました。
少しでも、有子様の壮絶とも言えるこの人生に同情するかのように。
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