千姫物語~大坂の陣篇~

翔子

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終章 父の涙

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京・二条城 ───────

 七カ月に渡った【大坂夏の陣】において、業火に焼き尽くされた大坂城を見届けた後、大御所・徳川家康はその夜の内に大坂を出て、京の二条城に入った。

 やがて、徳川の陣に加わった多くの大名衆の、戦場での功績を称える:論功行賞ろんこうこうしょうが執り行われた。
 その後、各国の諸大名を統制する策案を、臨済宗りんざいしゅうの僧にして、家康のまつりごとに際して相談役を担い、厚い信頼を置いていた・以心崇伝いしんすうでんと共に論議を重ねていた。

 そんな時に舞い込んだ、千代姫救出の報せは、家康を酷く憤慨させた。

「なんじゃと!! 秀頼の娘が何者かによって連れ去られたとな!!?」

 家康が声を荒らげると、家臣・本多正純は打ち震えながら続けた、

「は! 六条河原の場に突如として現れ、『大御所様の御言葉』だと称し、秀頼公娘御を抱え、颯爽とその場を去ったとの事でございます」

「然様な不届き者! 何故即刻ひっ捕らえんかったのじゃ!! わしの名を使いおって!!」

 家康は青筋を立てながら、庭に向かって目の前の物を手当り次第に投げて行った。正純は、落ち着かせるように大きく声を張り上げた、

「大御所様!!」

「なんじゃ!!」

「娘御を攫ったのは……千姫君様でございます」

「なっ……!」

 家康は、予想外な名を耳にし唖然とした。
 家康にとって千姫は可愛い孫だ。豊臣と徳川との争いに巻き込んでしまい、申し訳ない気持ちに浸っていた。しかし、家康の知らぬ所で行われた所業がよもや愛しい孫娘によって実行されていたとは、思いも掛けない事であった。

 するとそこに、阿茶局が伏見城から駆け付け、家康のいる御座所に入って来た。挨拶もそぞろに家康の御前に座り、単刀直入に言葉を述べた、

「お前様、秀頼公の娘御を、お許しになっては如何でございましょうか?」

「な、何故お前がその様な事を……」

「それは、姫君様を六条河原へ向かわせたは、この私だからにございます。これは姫君様たっての願いなのでございます。こちらをお読み遊ばしませ」

 阿茶局は懐から、千姫が書いた千代姫助命嘆願の書状を差し出した。家康はそれを乱暴に受け取り、その優しくも強い字に思わず目を潤ませた。

 しかし、たとえ可愛い孫からの願いと言えど、豊臣家の血筋は永久に絶やさなければならない。さもなくば、再び戦となり豊臣家の生き残りのために残党らが先陣を切って、公儀として力を得た徳川家を根絶やしにしてくるかもしれない。それだけは決して避けたい家康であった。
 未来永劫、子々孫々へと続く家にしたいという強い思いが家康にはあった。それ故に、大名たちをまとめ上げる策を今こうして講じようとしているのではないか。

 家康は阿茶局に対し、激しく首を振った、

「ならん!! 助けん! 即刻獄送りじゃ!」

「まぁ! なんと大人げないこと!」

 嘆願書を突き返され、阿茶局はわざと大袈裟な態度を取ってみせた。すると一部始終を傍で見ていた、以心崇伝が一言口を開いた、

「大御所様。恐れ入りますが、その娘御とやらを仏門に入れては如何でございますか?」

「仏門? 出家させるという事か?」

 家康が訊ねると、崇伝は笑みを湛えながら応えた、

「はい。出家すれば、嫁入りは出来ませぬし、血は絶えます。寺にて髪を下ろさせ、死ぬまでその場に留め置けば良いのです」

 崇伝の申し出に、家康はしばらく考え、次第に笑みを浮かべた。

「そうじゃな、そうしよう!」

「お前様! それでは、姫君様が悲しみまする!! せめて、姫君様の御傍に置いて差し上げるだけでも───」

「千には悪いが……この話、呑んで貰うしかあるまい」

 阿茶局は、千姫を再び悲しみの淵に陥れる事は避けたいと考えていた。一時は家康の為、不利な和睦を豊臣家に結ばせた事もあったが、血は繋がっていずとも、赤子の頃から知っている千姫を愛しい孫娘と思っている。哀しい顔はもう二度と見たくない。

 阿茶局は根気強く、家康にある案を持ち掛けた、

「では、秀頼公の娘御を、一度姫君様のご養女とし、それから寺へ入れる、という事にしては如何でございますか? 少しでも、千代姫君を、千姫様の御傍に置いて頂きたいのです」

「何故そこまで申すのじゃ……」

「姫君様は、秀頼公の若君が打ち首になった事をお知りになった折、母の様なお顔をされ、御手を合わせておられました。きっと、大坂のお城で、母としてお二人の御子を愛されたのだとお見受け致しました。生さぬ仲でありながら夫の御子を愛する、私も……同じでございました」

 家康には西郷局さいごうのつぼねと言う、見目麗しい最愛の側室がいた。徳川秀忠の実母であったが、秀忠が十歳の折、急な病で亡くなった。阿茶局は率先して徳川秀忠の養育を買って出た。生さぬ仲とは言え、秀忠を息子として大切に育て上げた。

「どうか、お願い申し上げます! 姫君様の思いを汲み取って差し上げてくださりませ!!」

 阿茶局が両手を付いて平伏すのを見て、家康は居心地が悪くなり、阿茶の肩を掴んで居直らせた。

「分かった、わかった……分かったから、わしに頭を下げるでない、みっともない」

「お聞き届け、頂けますね?」

 阿茶局が、家康の太ももに手を置きながら詰め寄ると、圧される形で家康は首を縦に振った。

 こうして、千姫の思いと、阿茶局の思いは家康に聞き届けられたのであった……が、千代姫を出家させるという事を千姫にどう認めさせるか、今一度試案しなければならなかった。

 阿茶局は、ある人物に力を請う事とした。

京・伏見城 ───────

 一方、伏見城にいる千姫はというと。六条河原から千代姫を救い出す事に成功し、安堵の思いに落ち着いていた。

 千姫は、お千代保ちょぼ早尾はやおの二人を千代姫付きとした。湯殿で身体を清めさせ、伏見城に置いていた幼い頃の小袖を着せた。
 綺麗な小袖に着替えた千代姫に、千姫は大坂城で過ごした頃を重ねた。逃亡を経て、やせ細ってはいたものの何処も怪我は無く、わずかながら菓子を食べられるまでになった。
 いつもの明るい笑顔を取り戻したように見え、千姫はほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、それも束の間、千代姫の心は予想以上に打ちひしがれていた。実母を目の前で斬殺され、つい数刻前までこの世を去る瀬戸際に立っていた事を思い返せば、想像を絶する不安の念が千代姫に伸し掛かってたとしても無理はない。

「姫様!! 大変にございます!!」

『如何したのじゃ。そなたらしゅうも無い』

 ある夜の事、侍女の早尾が珍しく千姫の部屋を大慌てで訪ねて来た。

「千代姫様が、いなくなりましてございます!」

 早尾が着替えを納戸に戻し、千代姫が眠る部屋に宿直とのいをしようとした所、布団がもぬけの殻だった事に気が付いたのだった。

『なんと……』

「お千代保殿が只今、奥御殿中を隈なく探しております!」

『相分かった、私も探す』

 千姫は打掛も着ずに颯爽と立ち上がった。

 千姫は、侍女たちが立ち入れない表御殿を捜索した。家臣詰所・御座所・書院を探し回り、千代姫の名を呼び続けた、

『千代!! 千代! どこにいるのじゃ!!』

 徳川家の家臣達が怪訝そうに見つめて来るのを無視し、千は千代姫の名を呼び続けた。庭の中も隈なく探し回ったが、小さな姫の姿は何処にも無かった。
 最後に、大広間の襖を開くと、大きい部屋の真ん中に小さく座る千代姫がいた、

『千代、勝手に居なくなってはならぬ!! 心配するではないか! ……千代?』

 千代姫は、床の間に掲げられた葵の御紋を見つめながら、虚ろな声で呟いた、

「義母上……? ははさまと父上さま……兄上は何処においでなのでございますか?」

『……?』

 千代姫は徐に立ち上がり、大声で父母と兄を呼んだ。

「母さまー!! 父上さまー!!! 兄上ーー!! う…うわぁ~~~ん!!!」

『千代……すまぬ……すまぬ……』

 千姫は、泣き叫ぶ千代姫を強く抱き寄せた。

 いっその事、千代姫を六条河原から救わずに、逝かせれば良かったのではないかという思いが、千姫の頭の中を駆け巡った。
 あの世で、秀頼と小石の方、国松と共に暮らす事が出来れば、千代はこの様な思いをせずとも良かったのではないか?

 千姫は考えたくもない考えを巡らせ、後悔の念に苛まれそうになった。

 その後、千姫は千代姫と共に床に就いた。出来るだけ傍に居て、傷心した心を慰めたいと考えたのだった。

 翌朝、伏見に戻って来た阿茶局から、家康に差し出した嘆願書の答えを聞いた。千代姫を養女にするという事以外、納得が行かなかった。どうして六歳の小さな幼児を、出家させなければならないのか。
 千姫は、祖父・家康に対しての恨みの念を強くした。

 伏見城で千姫と共に暮らしていた常高院は、努めて千姫の傍に寄り、心を落ち着かせようとした、

「千、家康殿に短慮な思いを持ってはならぬぞ? そのような事をすれば、そなたの身も心も壊れてしまうのじゃぞ?」

『さりとて、あんまりではありませぬか……。幼子を手に掛けようとして、更には俗世を離れさせるなぞ……酷過ぎます』

 千姫の心の訴えに、常高院は呟いた、

「今も昔も変わらぬな……」

『昔も……?』

 千姫が聞くと常高院は向き直り、昔語りをし始めた、

「私ら姉妹には、万福丸という兄がおった。しかし【小谷の戦】で父が自害した後、伯父である織田信長の命を受けた太閤殿下によって、串刺しの刑に処されたのじゃ」

『そんな……』

 千は思わず刑部卿局の方を見た。刑部卿がゆっくりと頷くのを見て、おぞましかったであろうその様を想像し、胸が痛くなった。

「そなたにとっては伯父上に当たるのう……。私はその頃、三つの歳であったが、良う憶えておるぞ。とても凛々しく、優しい兄上であった」

『そうだったのですか……』

「父の側室が産んだ子ではあったが、母上は我が子の様に兄上を大切にされた。今のそなたの、国松君と千代姫君を慕う様にのう」

 亡き祖母と同じ事をしていると知り、千姫は嬉しくなった。江戸城にいたおり、母・江から祖母・お市の話を良く聞かされていた。聡明で美しく、厳しくも優しかった祖母に、会わせたかったとしきりに話していた。

 刑部卿は、千姫と常高院の傍に寄りながら言った、

「お市様は、とってもお優しいお方でございました。私は民部卿様からご養育を受けましたが、それを認めたのは、お市様でございました。義姉上様や御台様方と共に教養を得られたは、幸せにございました」

『刑部卿……』

「お近……」

 密かな家族の憩いに、千姫は心が温まる思いだった。

 千代姫にも、このような温かな想いを知って欲しいと思った。しかし、豊臣家の血筋はもうこの世にはいない。

 太閤殿下の姉・日秀尼や正室・高台院に千代姫を会わせようと考えたが、千姫にとって面識もない二人に会わせるのははばかれた。それに、今は徳川の庇護を受けている身。六条河原へ行った事に、祖父が憤慨した事を受け、再び無断で城を出る訳にはいかなかった。

慶長二十年(1615)七月 ─────── 

 やがて時が経ち……二代将軍・徳川秀忠が、大坂城整備の指揮を終え、各国の諸大名を統制する【武家諸法度】を発布する為、伏見城へと入った。
 将軍の御成りという事もあって、千姫は父と会う事となった。

 【大坂の陣】終戦以来の対面に、千は複雑な気持ちになった。
 
将軍御座所 ───────

「久方ぶりじゃのう、千。暮らしぶりに、不都合などは無いか」

 秀忠は努めて平静に言葉を述べた。しかし、千姫は特に何も話さず、『はい』としか返事をしなかった。しばらくの沈黙が流れた後、秀忠は再び口を開いた、

「わしと祖父じい様が憎いか。先の戦の事はもう忘れるのだ。来月にはここを離れる、今からでも荷物を整えよ」

『……? 勝手な事を言わないでくださいませ!』

 ようやく口を利いてくれたものの、その言葉遣いは、きついものであった。

『私は江戸へは帰りません。このまま京に残り、いずれは大坂に屋敷を建てて住まいを移しまする!』

「何を言うておる。千、江戸では母が心待ちにしておるのだぞ。母には会いとうは無いのか?」

 千は口ごもった。母にはもちろん会いたい。会って、淀殿の死を甚く悲しんでいる心を慰めて差し上げたい……けれど秀頼が亡くなった関西を離れたくはなかった。この二か月の間、千姫は考えを新たにしていた。

『髪を下ろさせてください。私の様な言う事を聞かぬ娘は、徳川家には無用でございましょう! 大切な夫と家族を皆殺しにした、父上とお祖父様を……私は一生許しませぬ!!』

 千は声を大にして心の底からの思いを訴え、御座所を後にした。取り残された秀忠は娘の心の内を知り、胸が締め付けられる思いだった。

───────────────────────

慶長二十年(1615)七月七日 ─────── 

 京・伏見城において各藩の諸大名が集められ【武家諸法度】が発布された。

 四年前の慶長十六年(1611)四月、家康が諸大名に対し取り付けた誓紙三ヶ条に加え、以心崇伝が起草した十ヶ条、述べ十三ヶ条にもなる法令である。
 文武両道の姿勢と質素倹約を重んじ、大名同士の婚姻の取り決め、身なりの統一、更には、先月十三日に幕府が発令した、【一国一城令】にも関わる条例:『新たな城の普請を禁じ、修繕の許しは必ず幕府に届け出る事』も含まれていた。

 数々の裏切りや謀反を被った豊臣家の二の舞にならぬ様にする為の、所謂、家康のであった。

 やがて元号が【元和げんな】と改められると、再び新たな取り決めが公家衆にまで及んで行った。

七月十七日 ─────── 

 【公家諸法度】十七ヶ条が発布された。公家のみならず帝までを含む基本方針を確立させ、朝廷と幕府の関係を明確に定めた。

 将軍・秀忠、大御所・家康から突き付けられた【武家伝奏】は酷く戸惑った。しかし、家康に体よく言い含められ、やむなく諸法度は受け入れられた。
 武家のみならず、公家にまで手を掛けた家康の目論見に反発は多くあった。ところが、訴えを起こす公家衆は誰一人としていなかった。

 それは、今から六年前、慶長十四年(1609)に起こった後陽成天皇付きの女官らと公家衆が乱交に及ぶという密通事件が大きく関係して行く。

 宮中史上最大の不祥事に加担した公家衆の中には、上は正三位、下は従五位下という、やんごとなき位置にいる帝側近ばかりであった。この事を知った後陽成天皇は怒り心頭に達した。

 幕府の取り決めによって、関わった十四人の処罰は厳しいものだった。五人の公卿・五人の女官にはそれぞれ遠島流罪。主犯の公家と、手引きをした歯科医師、両名死罪。二人の公家は一度蟄居の身となったが、その二年後、皇子・政仁ことひと親王が践祚した事により、恩赦を受ける事となった。

 これらの事件によって、公家の乱脈ぶりが白日の下に晒される事となり、他の公家らは身をもって振る舞いを改めると共に、謹んで江戸幕府における朝廷の統制を受け入れたのだ。

 くして、徳川家による日本国全域の支配が実現され、徳川幕府、二百数十年に渡る、天下の礎が築かれたのであった。


千姫の部屋 ───────

 昼下がりの頃、以前より元気を取り戻した千代姫と、貝合わせをしていた千姫の元に阿茶局が訪ねて来た。

「ご免仕ります、姫君様」

『阿茶殿、如何なされましたか?』

「姫君様に、会わせたきお方がおりまして」

『会わせたい方?』

「どうぞ、こちらへ」

 阿茶が呼び掛けると、三之間から一人の女子が袿を翻して現れた。公家の雰囲気を漂わせながらも、何処か毅然としており、強さが滲み出ていた。
 袿の下には深紅の小袖を着込み、顔も何処か懐かしい様な風貌をしていた。阿茶局はその人物に会釈をしながら、紹介をし始めた、

「先の関白であられた、九条忠栄くじょう ただひで様の北政所様・完子さだこ様にございます」

「完子と申します。千姫様、どうぞお見知り置きの程、宜しゅうお願い申し上げます」

 千姫は完子に向き直り、両手を付いて軽く頭を下げた。

『千にございます。遥々はるばる伏見にご登城頂き、有り難く存じます』

 ふと顔を上げると、完子はニコッと微笑んで来た。その笑顔は、母・江に似ている事に千姫は驚いた。千姫は失礼だとは思いながら訊ねてみた、

『恐れ入りますが、浅井家のお血筋を引いておられますか?』

 千姫が言うと、完子は袿の袖で口元を隠し、クスクスと笑い出した。千姫は慌てて弁解した、

『も、申し訳ございませぬ。不躾な事を申しました』

「ふふ、大事ありませんよ? お察しの通り、私は、浅井家の血を引く者。貴方様のお母上の娘にございます。我らは父違いの姉妹きょうだいなのですよ」

 千姫はそれを聞き、心が和む思いがし、自然と笑みが零れた。

 場所を移し、侍女たちや阿茶局を人払いし、千姫、完子、千代姫の三人で菓子を囲んだ。

 太閤殿下・豊臣秀吉の養女であった江が、秀吉の甥である豊臣秀勝とよとみ ひでかつに嫁ぎ、かつて大坂城の三之丸にあった秀勝の屋敷で生まれた事。
 その頃、父・秀勝は文禄の役で朝鮮へと渡りそこで病死をしてしまった事。
 父の顔を知らずに育ったものの、江からの愛を受けて育った為、寂しさは一切感じなかった事。
 江が徳川秀忠と再々婚する事が秀吉の命によって定まった折、完子は淀殿に預けられ、豊臣家の猶子となった事。

 完子は話の流れで、自身が経て来たすべてを話してくれた。千姫は義姉の境遇を哀れに思い、涙を浮かべていた。完子は千代姫に菓子を差し出しながら言った、

「私は千代姫と同じく豊臣の血を引く者。たとえ太閤殿下の甥の子であったとしても罰せられる身じゃ」

『それでは、ここにいては危ないのではありませぬか? 今すぐここから去りませんと!』

「案ずるでない。私が伏見に参ったは、公方様にお会いする為じゃ」

『父に? それは何故?』

「徳川家の養女となるためじゃ」

 千姫は思いもがけない言葉を耳にし、唖然とした。

「徳川の養女となり、豊臣を恨む者どもが夫に手出しを加えぬように根回ししたのじゃ」

 千姫は完子のその行動が理解できず、戸惑いを見せていた。完子は茶を飲みながら訊ねた、

「信じられぬか?」

『信じられませぬ……何故、豊臣を滅ぼしたかたきである徳川家と、わざわざ縁戚になる必要があるのでございますか? 五摂家である九条家に嫁がれておられるのなら、朝廷にお仕えする方が賢明だと存じますが』

 完子はしばらく考えた後、千姫に向き直り口を開いた、

「豊臣が滅んだ今、世は徳川の物じゃ。ご公儀が定めた法度のおかげで朝廷も徳川に逆らっては生きていけぬようになった。生かされる御恩を返す為にも、徳川の縁戚となり、力になりたいと念じておる。母上が徳川家に嫁いでくれたおかげで、今の私は生きていける。──そなたもじゃぞ、千」

『え?』

「そなたが無事でいられるは、現将軍の娘であり、前将軍の孫娘であるが故じゃ。恵まれておるそなたの身の上を、努々ゆめゆめ恨むでないぞ」

 異父姉・完子と対面を果たし、千姫は感銘を受けた。自身の身の上がどれほど豊かで、恵まれているか。改めて知らされたのだった。

 しかし、千姫の、実家・徳川に対する恨みの念は深い物だった。

 その日の夕刻、秀忠が千姫の部屋を訪ねて来た。千姫は、千代姫を侍女らに預け、刑部卿達を下がらせた。御座所での一件で気まずい空気が漂う中、秀忠が急に今日の昼餉は何かと訊ねて来た、

『本日は鮎の煮付けを食しました』

 千が応えると、秀忠は大袈裟に反応して気を惹かせようとした、

「おお! 左様かぁ!! さぞ、美味かったであろう!! ガッハハハッ」

 しかしその声は空しく、部屋中を響き渡らせただけで、娘から冷めた視線を受けるだけの父の姿だけしかなかった。しばらくの沈黙が続いた後、千姫が口を開いた、

『公家衆に厳しい取り決めをなされたと聞きました。大名達も同様に。それは何故ですか?』

「徳川の世を盤石な物とする為じゃ」 

 秀忠は、真剣な眼差しで娘を見やりながら続けた、

「二度と無駄な争いを起こさせぬよう、武家、公家問わずまとめ、民を守る……それが徳川が目指すまつりごとじゃ。そちも、先の戦で思い知ったであろう」

『……』

 千姫は先の戦を持ち出され、父から顔を背けた。

『先の争いの事はもう、お話にならないでくださいませ……』

「そちの辛さは相当なものじゃ。江戸にいる江も、さぞ悲しみに暮れておるであろう……。のう、千、共に帰り、母を慰めぬか?」

『母上も私と同じ心持ちでおりましょう。父上やお祖父様を恨んでおるかと存じます』

 千姫は打掛の衿を固く握り締めながら、兼ねてより抱えていた恨みの念を言葉にしてしまった、

『争いを起こしたは、徳川にございます! 私は、徳川に生まれた事を悔やんでおりまする!!』 

「千!!」 

 秀忠は初めて千姫に怒鳴りつけた。千姫は驚きのあまり声を失い、父の顔を見つめた。 

「わしはそちを大事に思うておる……それ故、今ここにおるのではないか。万に一つでも、そちを失うたら、わしやそちの母はどう思う? 今頃、悲しみの底に落ちぶれておったのだぞ。『徳川に生まれて悔やんでおる』などと……軽々しゅう申すでない……」  

 千姫は初めて父の涙を目の当たりにした。将軍として威厳を見せていた父の姿ばかりを見て来たので、千姫は戸惑った。

 目の前にいるは、娘の為に悲しみの涙を流す父の姿だった。

 袖で涙を拭いながら秀忠は言葉を続けた、

「そちには生きる使命がある。生きて、亡くなって行った者達の分も背負って生きて行かなければならぬ。父はそうして、生きて参った。多くの者達に疎まれ、恨まれても、その者達の分まで生き、誰も死ぬ事の無い世の中が来るようにと……事を成しておるのじゃ……」 

『それ故に……武家と公家をまとめ上げようと?』 

「そうじゃ。誰一人、徳川に対し盾突かず、子々孫々が永遠とわに、幸福を得る為に」 

 千姫は異父姉・完子の言葉を思い出していた、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「そなたが無事でいられるは、現将軍の娘であり、前将軍の孫娘であるが故じゃ。恵まれておるそなたの身の上を、努々ゆめゆめ恨むでないぞ」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 千姫は、恵まれている事が当たり前だと思っていた。しかし、それは違う。徳川の娘で無ければ、今頃ここに存在し得なかったはずだ。
 あの世に行けば、苦しむことも、悩むことも無く済むと聞く。しかし、”生きている”  事を実感できるは、苦しみや悩みがあるからだ。

 望まず死んで行った者達の思いを汲み取り、苦しみや悩みを乗り越えながら、俗世に生きる事を誓った。

 凍った、父と娘の心はこの日をもって解かれ、親子の思いはようやく繋がる事が出来たのであった。




千姫物語 ~大坂の陣篇~ 終 
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みんなの感想(1件)

ふじまる
2023.08.09 ふじまる

ふじまるです。読ませていただきました。面白かったです。文章も読みやすく、私なんぞよりずっとお上手だと思いました。あえて難点を言えば、千姫のお話は何度も映画やテレビドラマになっており、お馴染みの内容すぎますので新鮮味に欠けました。千姫には豊臣家滅亡後も長い人生があります。もし私が千姫の物語を書くとすれば(書きませんけど)、豊臣家が滅亡した後の千姫を描きます。本作では千姫よりも淀殿の複雑な心情が印象的でしたので、翔子さんは淀殿を主人公にした小説を書かれた方がよろしいのでは、とも思いました。

翔子
2023.08.09 翔子

ふじまる様、お読み頂き、ありがとうございました!!

そうですね、お言葉を胸に刻み、検討していた続編の執筆の再開を進めたいと思います。
ご指摘感謝いたします。

淀殿が、印象的でしたか。

淀殿のほうこそ、様々な説と数多くの小説が世に溢れているので自分が執筆するのは難しいとばかり思っていましたが、そうおっしゃって頂けて嬉しいです。参考にさせて頂きます。

重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。

解除

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蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──

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