花魁吉野畢生

翔子

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※第十七章 花房と吉野

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 天下の花魁がかつての間夫に誘拐されるという事件は忽ち吉原中のみならず、江戸市中にまで知れ渡った。しかしそれは、廓中の誰もが考える不安的な要素などではなく、却って吉原の人気を促進させた。

 「夕風屋」には、命からがら救い出された花魁を一目拝みたいというお客で溢れ返った。吉野の元に新規のお客の登楼が数多くあり、吉野は拒絶するでもなくお客たちを手練手管で迎え入れた。
 
 古納屋から救ってくれた大助とは、あれから気まずい空気が二人の間に流れていた。廊下ですれ違う度、大尽が登楼する旨を報告をしに来る度に、胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。当の大助はどう思っているのだろうか、吉野に分かる術はなかった。

───────────────────────

芒屋 ───────

 昼見世終わり、吉野は「芒屋すすきや」へ赴いた。今回は一人で出向いた。

『会所に助けを呼んでくれたんだって? 夕華が話してくれたよ』

 悠一郎に攫われたちょうどその時──。大助に言われて会所と面番所へ走って行った夕華は、息も絶え絶えに辿り着くと、同心たちが勢いよく建物から出て来る所に鉢合わせた。話を聞けば「団子屋の女将が知らせに来てくれた」という。後から聞いた吉野は、それが嬢香だと悟った。

『ありがとうね』

 吉野が礼を述べた。ふと嬢香の顔を見ると、腰に手を当てながら眉間に皺を寄せている、

「ほんとさ、あんたは不用心なんだよ! 自分の立場が分かってんのか! 天下の花魁だぜ!? 弁えて行動しやがれ!」

 そう言った後、嬢香は何度も何度も吉野の肩を叩いて来た。顔を歪ませて吉野は苦痛を訴えた。ようやく収まり、肩を摩りながらまた嬢香を見ると、徐に俯きだした。

「あたしは……怖かったんだよ。あんたがいなくなったりしたら……あたしは──」

 そう言って嬢香はふっと顔を上げて、目が合った。途端に口を噤み、店の奥に消えたかと思うとすぐに戻って来た。手には懐紙で包まれた何かを持っており、「ん」と吉野の前に差し出した。首を傾げると嬢香がつんけんと言った、

「これ、しず葉たちに渡してやれ。手ぶらで帰ったらあの子たちが可哀想だろ?」

 包みを開けてみると中には色とりどりの落雁が入っていた。慌てて懐から金子を取り出そうとすると、手で制した、

「ああ、いい! いい。また来た時に倍にして払っておくんな」

 嬢香はそう言って、そそくさと店に戻って行った。『ありがとう!』と吉野が再び礼を言うとこちらを振り向きもせずに、後ろ手を雑に振っただけだった。相変わらずだなと思いながら吉野は「夕風屋」へと戻った。
 
 嬢香から貰った落雁を禿たちに渡してあげると、飛んで喜んでくれ、思わず頬が綻んだ。

────────────────────

 その夜、花房からの呼出があった。
 吉野は重い腰を上げて準備をし「瓜葉楼うりばろう」へ向けて道中を張った。仲之町には、吉野を一目見たい客でごった返していたが、若い衆たちが行列の周りを囲んでくれたおかげで近づいて来る者はいなかった。

瓜葉楼 ─────── 

 前回の登楼で花房に嫌われてしまったのかと恐れた吉野は、ぎこちなく上座に座ったが、当人は気にしてる素振りもなく、相変わらず紙を広げて、じっと座る吉野を見やりながら黙々と筆を走らせている。その姿を見て、吉野は拍子抜けした。

 芸者の演奏がしばらく続いて片耳で聴いていると、「瓜葉楼」の女将が俄かに襖を引いて現れた、

「花魁、次の間に敷物を用意してございます」

 思ってもいなかった言葉だった。女将は続いて花房に向き直り「花房様もご準備をなされませ」と言った。内心たじろぎながら、吉野は先導する夕華に続いて座敷を出た。ふと花房を見ると、こちらを振り向きもせず、道具を片付け始めている。

 短い廊下を渡りながら、吉野は夕華に訊ねた。なにやらこの事を先刻承知だった様子だった。

『お前はこの事を知ってたのか?』

 夕華は冷静に言った、

「あちきは留新でござりんすゆえ、見世に入る前に手紙で知らせは頂戴しておりんした」

『ひどいじゃないか』
  
 そう言って夕華を小突くと、笑いながら吉野の腕を優しく払い除けた。次の間に入ると、三枚重ねの布団が用意され、伽羅の香りが鼻腔をくすぐった。

『お前は花房様を嫌っているのではなかったのかい。何故断ったりせなんだ?』

 帯を解く夕華に吉野は訊ねた。微笑みながら夕華は応えた、

「姐さんが、いたくあの旦那を気に入っておいででありんしたゆえ、今度こそ、本当の馴染みになって欲しいと思うたからでありんす」

 長く付き合ってきた新造より客を優先する。花魁や上の女郎ならきっと誰もがする当然の選択だが、胸の内を明かしてくれた夕華を吉野は心強く思った。ふっと夕華の頬を優しく撫でた、

『ありがとう。夕華』

 夕華は嬉しそうに笑った。

────────────────────

 橙の襦袢姿になって待っていると、花房が室に入って来た。薄暗がりな室内に一瞬後退ったようだったが、すぐに襖を閉めて、三枚重ねの布団の上に胡座をかいた。ふと吉野を見た後、手前にある煙草盆を引き寄せて、徐に吹かした、

「無事で何よりじゃ」

 先の誘拐事件の話をしているのだろう。江戸市中にまで知れ渡っている話なのだ、知らぬはずがないのは自然だ。
 
 吉野は両手を付いた、

『番頭から聞きんした。あちきがに会うていると仰ったそうな』

「悪いか?」

 吉野は首を振った、

『さいな事はござんせん。そのおかげであちきが救われたのでありんすから』

「それにしても、その想い人とやらに攫われるとは。お前は飛んだ不用心ものよのお」

 煙を吐きながら花房が唐突に放ったその言葉に、吉野は思わず肩を揺らして笑い出した。花房は首を傾げた。

「わしは何かおかしいことを申したか?」

 息を整えながら吉野は笑い涙を拭った、

『申し訳ありんせん、あちきの友にもそう言われんしたゆえ。──確かにあちきは、己の立場を忘れておりんした』

 己の立場という言葉で、吉野はあの廊下での出来事を思い出し、背筋を伸ばして再び両手を付いた、

『先日、無礼な振る舞いをしでかし、旦那様を傷つけてしまいんして誠に申し訳ござりんせんした』

 低頭すると、傷ついてなどない、と言って花房は顔の前で手を振った。吉野は安心するとともに、ゆっくりとにじり寄りながら、花房の太ももに手を置いた。途端に花房は身体をビクつかせた。

『なにゆえ此度、床に侍ろうと考えたのでござんすか?』

 花房の帯を手前に引きながら吉野が囁いた。花房はわずかに後ろへ身体を引いた。

「な、の儀をせねばならぬと……お、女将に急かされておってな……っ」

 花房の意外な反応に、吉野はふふっと艶然とした。確か歳は四十そこらだと聞いたが、女の誘惑には慣れていない様子だった。詳しく聞けば、妻や側女そばめを持ったことがないのだと言う。

初心うぶなんでござんすねぇ……かいらしい』

 首へ顔を近づけ、太い立派な耳朶を口に含んでみると、花房は身体を善がらせ上ずった声を出した。

 これまで様々な客と寝て来た吉野にとって初々しい反応は大して珍しくもなかったのだが、今までの強気な態度を思うと背筋がぞくぞくとするのを感じた。

「や、やはり今宵は、や、止めようかっ──」

 吉野の魅惑的な行動に臆したのか、腕を掴んで止めようとして来るが、吉野は優しくそれを振り払い、唇と唇を合わせて黙らせた。唇を離して目を見てみると、花房は今にも蕩けんばかりの瞳になり果てていた。

『ふふ、まだ始まったばかりでござんすよ』

 肩をとんと押して大男を仰向けにした。訳が分からないというような表情でこちらを見てきたが、吉野は気にするでもなく、花房の上に跨り両耳を手で塞いで唇を落とした。
 水音を花房だけにしか聞こえぬように響かせながら、恍惚の底に誘った。吉野はひと刹那、息継ぎで唇を離してもなお口付けをひたすら続けた。花房の下半身に膝を当ててみると、身体は正直なのか熱を帯び、大きくなっていた。

 耳から手を離し、舌を絡ませながら吉野は花房の着物の裾を捲り上げた。褌をずらすと木の幹を思わせる巨大な物が露わになった。唇を離せば、花房は今にも果てそうな目で見つめてくる。小さく喘ぎ続け、何かを訴えたげに口をパクパクさせていたが、吉野は何喰わぬ顔で、台から懐紙を取り出し自身の唇で咥えた。

 肩で息をしながら花房は「な、何をする……」とたどたどしく呟くが、吉野は不敵な笑みを浮かべるだけで、体勢を整えながらゆっくりと挿入れて行った。挿入って行く度に、花房は腰を浮き上がらせ、低い声で唸り出した。快楽から逃げるように、布団を力強く握っていたが、吉野は手を重ね合わせ逃れられないようにした。
 
 ますます溺れていく花房を見たいと思った吉野は腰を夢中で動かし続けた。

────────────────────

 翌朝、目を覚ますと、吉野は花房の胸に抱かれながら眠っていた。微かな寝息と胸の鼓動が心地よく、まだ寝ていたい気持ちに駆られた。しかし、間もなく夜が明ける。起こさなければ女将に叩き起こされて不快に思わせてしまう。それだけは避けたかった。
 
 甘い声を震わせながら花房の耳を噛むと、微かにビクついて目を朧げに開けた。吉野を見ると額に唇を落として来た。

「おはよう」

 しゃがれた声で花房は言った。
 昨夜の情事で、唸り声を絶え間なく上げていたから喉をやられたのだろう。吉野も挨拶を返し、喉を潤してあげようと、茶を入れに起き上がるが、腕を勢いよく引かれ、再び花房の胸に収まった。肩を撫でつけながら、花房は独り言のように呟いた、

「まるで夢でも見ているかのようであった。天女にほだされたような気分じゃった。花魁というのは斯様に素晴らしいものだったのか……。いいや……違う……。よし──」 吉野は目を見張った。よし、という言葉の波長がを彷彿とさせ、一瞬、心が揺れた。「そなたが成せる技なのだろう……。これからもわしを愛してくれるか?」

 少し不安げに、しかし力強い眼差しに吉野はふっと口角を上げて、口吸いをした。何も語らずとも、吉野は花房を愛おしく思った。

 最悪な出会いをしたにもかかわらず、どうしてもその素性を知りたいという思いは恋に似たような感覚だった。高尾花魁を間近で見ており、また、悠一郎との一件もあって、間夫として懸想をしないように努めつつ、この絵描きの旦那を生涯の旦那として受け入れようと心に決めたのだった。
 花房の熱い想いを知ってから吉野は、より一層彼のことを知りたいと思うようになった。自由が許されない女郎に、たった一筋の淡い光を花房を通して見てみたいと思ったのだ。

 それから、現在─── 花房与四郎は吉野花魁を身請けしたい旨を楼主と女将に伝えた。

 一度は通ったものの、吉野花魁がしでかした度重なる不調法な行いの因果か、花房に身請けされるのは年季明けまでお預けとなった。当初、花房は疑問に思ったが、「そなたらしいな」 と笑った。

 幸か不幸か、吉野はしず葉やひめ野たちの将来を見守ることが出来ると思いを改め、年季明けまでの間、花魁としての責務を全うしようと決意を新たにしたのだった。

────────────────────

 先代ご公儀大御所の薨去、そして菊葉の出産もあって慌ただしかった「夕風屋」はしばらく平和な日常を取り戻していた。
 しかし吉野花魁だけは違っていた。ひめ野の水揚げの準備に奔走していたのだ。

 八月の暑い盛り。しず葉に団扇を煽がせながら、指が痛くなるまで各茶屋への挨拶周りや贔屓客への登楼願いの文を書いていた。二十数枚ともなる封書を階下まで降りて若い衆に手渡すと、徐に広間で煙管を吹かしていた遊佐が吉野を呼び止めた。若い衆からその封書を奪い取り、「大事な話がある」と言って。

 楼主と女将の部屋・内証へ連れられると、封書の宛名を見やりながら、たった一枚の封書を吉野の前に投げつけて来た。それは、三橋屋さんばしやに当てた文だ。遊佐は衿を正しながら、こちらを睨め付けた、

「ひめ野の水揚げについてだが、喜兵衛様に頼むことにした」

『は?』

 吉野は呆然と立ち尽くしながら声にならない声で言った。

 喜兵衛とは、先の火事で仮宅営業を許してくれた空き家の持ち主だ。遊佐とは予てからの知り合いであり、こちらへも足繁く通い、女郎を買っているという話は吉野の耳にも届いている。 

 腹から込み上げて来る怒りに、吉野は気分が悪くなった、

『それは、どういう了見だよ。ひめ野の手ほどきについては三橋屋様にお願いしてんだ!  いまさら……いまさら三橋屋様になんと申し開きすれば……』
 
 封書を引っ掴んでは楼主の前に突きつけて吉野は訴えた。遊佐は依然こちらを睨み付けている。むしろ呆れかえっているようにも見えた。

「三橋屋様には水揚げの儀を務めさせることはできん。未だ四十いくつかの歳。水揚げにはその道に熟練した方でなければならんのだ!」

『勝手だよ……! あちきのすることにいちいち口を挟んで……そんなにあちきを邪魔して楽しいか!?』

 遊佐は膝立ちになって手を挙げようとした。だが、花魁の顔に傷を付けることは楼主には出来ないことはお互い分かり切っていた。遊佐は力なく腕を納め、神妙に語り始めた、

「ひめ野は夕顔の新造だった最後の一人なのだ。夕顔の代わりにひめ野の累進を祝いたいのだよ」

 遊佐の考えなど吉野の知ったことではない。夕顔が生きていたら、吉野の考えを尊重してくれていたはずだ。遊佐に掴みかかりたい気持ちを抑えながら、吉野は楼主を睨み返し、内証を出て行った。

 翌夜、書き直した文を受け取った三橋屋が登楼して来た。挨拶もそぞろに、吉野の口から事の経緯を説明した。頭をひたすら下げ続け、詫びを入れた。
 三橋屋は怒るでもなく、いつものように優しい声で顔を上げさせた、

「気にするでない吉野。楼主殿が決めたことに我ら客は抵抗することも出来ぬゆえな……」

『三橋屋様……』

 女郎の涙は嘘の花、と誰かが言っていた。だが今宵、吉野の頬を伝う涙は、三橋屋に対する申し訳なさからくる真の涙であった。

「だが、これからも通わせてくれ。そして花魁となるひめ野の艶姿あですがたを私にも見せてくれるか?」
 
 そう言って、三橋屋は吉野の肩を軽く叩いた。本来なら別の花魁を傍に置くことは出来ない決まりだったが、そんな先例を覆そうと考え、『もちろんでござんす』と言って承諾した。
 しかしその後、三橋屋が見世に来ることは、とんと途絶えてしまった。吉野は唇を噛み締めながら、楼主の勝手な振る舞いに歯向かう覚悟と意地を持ちたいと心を強く燃やしたのだった。

────────────────────

 暑い盛りが収まった九月、ひめ野が花魁となり、名を藤尾ふじおと改めた。
 この日は挨拶周りが行われると同時に、吉野の許を離れる日でもあった。出掛ける数刻前、吉野の部屋でしず葉たちと朋輩後輩の新造に見守られる中、藤尾は両手を付いていた、

「これまでご教育くださり、誠に幸せでござりんした。姐さんから学んだすべての事を、先のさきまで禿と新造らに教え込む所存でありんす」

 髪型をつぶし島田から勝山髷に替え、数多の簪で彩られた頭を垂れた。何枚もの着物を一人前に着、吉野から譲り受けた総刺繍のし掛けがよく似合っていた。もはや噂好きで吉野に叱られていたあの頃の振袖新造の面影はそこにはなく、花魁としての威厳を立派に備えていた。

 涙を堪えながら、吉野は先輩女郎としての最後の言葉を送った、

『あちきが教えしんしたことはすべてお忘れなんし』
 
 突然の言葉に、藤尾は思わず顔を上げた。傍らに控えていたしず葉と夕華も目を見張った。

『今後はお前さんの頭で考え、お前さんが心で感じたことを禿と新造たちに教えるのでありんす。先達の考えにとらわれては、たとえ悪い行いであったとしても、「先達がそうしたから」と言って良いことにされてしまうのは、あってはいけないことでありんすよ』

 藤尾に贈った吉野の言葉は、己を戒めるための言葉でもあった。

 姐女郎をその気にさせるためにお大尽の名を聞き出して褌を作ったこと。
 昔を懐かしむため、己を慰めるために見世を抜け出して他見世の女将に会いに身を偽って忍び込んだこと。
 その影響で禿と新造に、背負う必要のない罰を背負わせる形になってしまったこと。

 一年経った今でも吉野は悔いていた。十八の吉野にとって、忘れられない瞬間だったのだ。

『お前さんなら大丈夫さ。自信持って行きなんし』

「姐さん……」

『ほら、化粧が崩れるでありんしょう。 まったくこの子ったら』

 襦袢の袖で藤尾の頬に流れる涙を拭いながら、吉野は笑いかけた。巣立っていく姿を夕顔にも見て貰いたかった。吉野は心の底でそう思った。
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