大奥~牡丹の綻び~

翔子

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第十二章 愛する人の死 前篇

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────六年後─────

 あれから六年の月日が経った。

 大奥総取締・右衛門佐えもんのすけが猛威を振るった厳しい改革は功を奏し、幕府の財政は見事立て直り、大奥も普段通りの生活が許される様になった。

 右衛門佐の度重なる強硬手段を批判していた古参の女中たちは一転して右衛門佐を支持し始め、不安ばかりの日々だった右衛門佐は時を経てようやく、大奥総取締としての立場が盤石の物となったのだった。

 更に、改革に従わざるを得なかった下級の奥女中たちは、右衛門佐を嫌悪するどころか、新しい法度に順応し、木綿やお召、羽二重の打掛や小袖を気に入り、様々な着こなしを工夫したりなど、普段通りに戻る事を許されても尚、節約倹約を楽しんだ。

 ところが、危機は刻一刻と迫って来ていた。

────────────────────

 十五年前、京都の寺田屋で集結していた幕府を解体し天皇を崇め奉る策略をめぐらせていた四人の若い公家衆・【尊皇倒幕】が本格化していた。

 〈尊皇倒幕〉を率いる主導者・久我道成くがみちなり高倉清麿たかくらきよまろ勘解由小路資篤かでのこうじすけあつ冷泉為勇れいぜいためいさら一行は、佐幕派の公家衆らの手が掛かった武士によって尊皇派が暗殺される事件が横行したのを機に、自らの命の危険を感じ、公家の身分を捨てて奈良、大坂と、それぞれに拠点を分けた。

 久我は、帝から頂戴した直筆の御宸翰しんかんを大切に手元に置きながら、志ある者を集めてその数を増大させた。毎日、冷や飯を食わされ、慣れぬ商人としての苦悩を経て十年、〈尊皇倒幕〉はようやく日の目を見ることが出来た。
 御所で力を持っていた岩倉具視いわくらともみの子息、岩倉具経いわくらともつねの手引きによって、一度捨てた公家としての身分に返り咲き、御所へ参内する事が許されたのだ。

 久我の事を記憶に留めていた時の帝は〈尊皇倒幕〉を迎え、京に駐在する幕府の役人や佐幕派の公家衆から気取られぬ様に、倒幕の思案を講じた。
 およそ二十年にも上る、幕府の暴虐を、帝も酷く口惜しくお感じになり、権力を意のままにする幕府から御所へ助けを求めて来ようならば、拒絶しようとさえ思し召されている。

 久我道成は再び公家として、奈良、大坂、そして京都を周って行くに従い、公家のみならず様々な同志達と出会った。その中には、武家も少なからずいた。

 幕府は各藩大名に対し、参勤交代の廃止、外様・譜代大名関わりなく、幕府への意見言上を特別に許すなど、武家平等の社会を確立させ、平穏な暮らしを約束されていた。

 ところが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後に、外様大名として徳川家に臣従しんじゅうさせられた過去を持つ、薩摩藩・長州藩・土佐藩が久我の〈尊皇倒幕〉の思想に賛同した。

 幕府から信頼を寄せられていたこの三藩は、様々な思惑を巡らせ、徳川滅亡の計画を目論んだ。その策略は逐一、京都へ早馬を走らせて密書を送り合った。

 主従を約束されているはずの大名が禍々まがまがしいはかりごとをしているとは露知らず、遠い江戸城では、小さな悲劇が起きていた。

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英弘えいこう八年(1926)七月十五日 

 御台所・藤子が産んだ二男・徳松が急な病により八歳で夭折した。

 折しも、藤子の三女・順姫よりひめが保科家へ嫁いだ後の事であった。

 藤子は身も世もなく泣き崩れた。傍には右衛門佐が肩を抱いて慰めている。六年の時を経て、二人は姉妹として心を通わせるようになっていた。

「三十路過ぎて産んだ故か? 私の乳が悪かったのか……私の育て方が悪かったせいかっ!」

 藤子は、二度と動くことのない徳松が横たわる新御殿の御小座敷で激しく取り乱し、自責の念に駆られた。

「そんな事はない……。これは、運命さだめだったのじゃ……そなたのせいではない」

 右衛門佐は自分を責める妹を涙ながらに励ました。

 二人は抱き合い、夜通し泣き明かした。

 子を亡くすことは親にとって、身体の一部が削ぎ取られたように辛い事だった。お腹を痛めて産んだ我が子に先立たれる事は、いつの世もその悲しみは計り知れなかった。

 例によって葬儀は三十日後の八月十四日、増上寺にて、家正、家英いえひで、藤子、右衛門佐、若君付きの奥女中らの涙と共に執り行われた。
 豊姫、敏姫すみひめ、順姫もそれぞれの夫と共に参列していたが、母・藤子に会う事が許されぬまま、各々屋敷へと戻って行った。

 葬儀の後、藤子は自身の御殿にある仏間に籠った。食事も喉を通らなくなり、着る物も、簡素な小袖の上に被布を羽織り、御台所としてのかつての美しさは失われてしまったのだった。松岡ら御付きの女中は、龍岡が亡くなった頃が思い起こされた。この六年で、ようやく元気になったと思った矢先に若君の急死。大奥中が藤子を案じた。

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中奥・将軍御座所 ───────

 徳川家正は徳松を亡くした悲しみに暮れる暇も無く、政務に専念した。

 とうとう表向きにも、若い公家衆らが将軍家に対しただならぬ策を講じているとの報せが京都・大坂両町奉行所からの報告によって知り得、家正の耳にも届いた。

 老中たちは、直ちに弾圧すべし、と将軍に提言したが、実行に移すべきかどうか、家正は「よくよく思案すべきだ」と老中らを落ち着かせた。

 大御所・家達以来のこの国の一大事に、平和な世の中しか知らなかった家正はかつてのような争いごとが起きない事を願い且つ考慮して来た。よくもそんな自分が将軍になれたものだと、今更ながら思うこともあるが、自分には国を治める責任がある。武力を持って抑えようとする老中らの考えに容易に頷く訳には行かなかった。

 二年前から家正は長男で将軍世子である、家英に政について学ばせようと常に同席させた。老中が辞去した後、息子はふいに「何故、公家衆らを押さえつけぬのですか」と一丁前に進言した。家正は厳しく咎めた、

「争いの種を撒いてどうする。武力を持って事を荒立てるのは、〈新たな平安〉と呼ばれたこの時代を幕府が覆すことになる。民たちの生活を大事にし、かの者らの気持ちを汲み取るのも、政を動かす者として必要なのだ。良く覚えておくがよい」

 家英は父の思惑とは裏腹に、公家を抑え込むという考えを持っていた。断絶に追い込むのではなく、根絶やしにして朝廷をも牛耳るほどの強大な力が幕府にあると信じている。

 家正は、父であるからか、息子の考えていることが手に取るように分かった。悶々とし、今にも京へ上り、刀を振り回しかねない勢いが感じられた。政に若い考えも必要ではあるのは分かっているが、後先のことをよく考えずに強引な手段に出れば取り返しのつかぬことにもなりかねない。

 そして、三日後、家正の不安が的中した。

 京都に駐在する幕府の用人や譜代大名が、次々と不審な死を遂げているということが知らされた。それは、帝が尊皇派を勅許したという証であり、一種の幕府に対する牽制と捉えることが出来る。

 帝が一派を後押しているという報告を得た表向は、家正の考えに同意せざるを得なった。武力も金も無い公家の企てを捻り潰す事は簡単なのだが、帝も関わっている以上、二千年の歴史を持つ天皇家に手出しをする事は平治の乱を彷彿とし、同じことが繰り返されるのは避けなければならない。

 齢二十四の家英は、浅はかな考えだったと思い知ったのだった。

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大奥・御座之間 ───────

八月二十日 朝

 西で起きている情勢の事など気にも留めず、大奥では各々の役目を果たしていた。江戸幕府が滅びる事は無いであろうという確信に縋っているのもまた事実であった。

 しかし一方で、右衛門佐は〈尊皇倒幕〉の一派がこれからどう出るのか、戦々恐々としていた。

 それは十五年前のこと、元夫・二条定兼にじょうさだかねが生前、倒幕派に加担し、密かにその事を知り得ていた右衛門佐は徳川家が滅びる事を望んでいた。
 後悔ばかりしかなかった短慮な時代を呼び起こし、顔を両手で覆い、消し去りたい記憶を頭の中から追い払った。今はただ、神仏に祈り、徳川将軍家の安泰を願うばかりだった。

 御台所不在の朝の総触れが六日も続き、家正は右側を気にしながら右衛門佐の挨拶に耳を傾けている。

「八月も中ごろとなり、より一層暑さが厳しゅうなって参りまする。女中の間で、暑さで倒れたりする者が現れぬよう、最善の注意を払い、御勤め仕る所存でございまする。公方様におかれましても夏の御対策宜しく、御健康第一に御政務に御励み遊ばされまするよう、一同祈っておりまする」

 締めの挨拶を終え、右衛門佐並びに御目見得以上の女中たちが一斉に深々と頭を下げた後、家正は上段から立ち上がり、御座之間を去った。

 入側に出ると、涼しい風が頬を払った。たとえ襖を開け放っているとは言え、一番奥まった上段之間で数刻座っているだけなのは蒸し暑くて辛い所であった。扇で自身を煽ぎたかったが、それは右衛門佐の報告を上辺だけ訊いていると思われてしまう。歳を取り、周りからどう思われるかの気遣いを家正は心得るようになっていた。

 しばらく立ち止まるので、御錠口まで案内を勤める、御客会釈おきゃくあしらいと御坊主が案ずるように見つめる。家正ははっと気付いて、軽く手を上げて再び歩みを進めた。


大奥・御錠口 ───────

 御鈴廊下に差し掛かると、後ろから打掛の引き摺る音がし振り返った。するとそこには先ほど総触れを率いていた右衛門佐が真顔で近付いて来る。御鈴廊下まで見送るとはどういう風の吹き回しかと家正は思ったが、全くの見当違いだった。

「公方様、少しお話がございます。よろしゅうございましょうか。皆の前では話せぬ事ゆえ、こちらにて」

 右衛門佐は御客会釈、御坊主、御錠口の女中に聞かれぬよう、御小座敷の御寝所を通り、中庭の縁側へ案内した。

「如何した、わざわざここまで連れて参る程の大事な話か?」

「はい」

 右衛門佐は急にもじもじとし出すのを、場所も場所で家正は身体中が熱を帯びていくのを感じた。四十を過ぎても尚、未だに男としての機能は健在であったが、右衛門佐を最後に側室を儲ける事もせず、ただ自分自身で慰めることで気を落ち着かせていた。
 
「御台様の事でございまするが」

 悶々とした感情は流れ去った。

「ん? あ、あぁ……御台が如何した?」

 少し残念な声を零して、気を取り持った。

「徳松君様を亡くされてこの幾日……御台様はひたすらに御仏の前で御手を合わし、食事もままならず弔っておいでにござりまする。一度、御見舞い差し上げては如何でございますか?」

 然様に藤子が苦しみ嘆いているとは知らず、いつの間にか徳松の死を忘れてしまうほど、幕府に迫る危機に悩まされ続けていた。酷い父親で軽薄な夫だと自責の念に駆られた。

「分かった。折を見て御台に会いに参ろう」

 家正がそう応えて御小座敷から立ち去ろうとすると、右衛門佐は袖を掴んで囁いた、

「恐れながら、政の件につきましても御伺い申し上げたいのです……。誠に……幕府は安泰なのでございましょうか? 斯様な騒ぎは一度ではござりますまい……若き公家衆らは次第に大きく増長し、公方様の御命おいのちを狙う恐れもありまする……。どうか、何としてでも御収め下さりますよう、大奥一同、願っておりまする……」

 右衛門佐の目をまっすぐ見つめた後、家正は諭すように言葉を掛けた、

「案ずるでない。老中らと寄合よりあいを重ね、争い無く、平和を持って幕府を護ると誓おう」

 家正は右衛門佐の肩を優しく叩いて軽く笑いかけ、足早に大奥を去った。


────────────────────

浜御殿 ───────

八月二十三日

 夫と息子からの誘いを受け、藤子は将軍の別邸・【浜御殿】へ遠出した。

 ここには江戸湾から海水を取り入れており、その潮の満ち引きで景色の変化を楽しむ潮入りの御庭がある。元々は、一面にあしが生い茂っていた浜辺で、将軍の鷹狩場だったが、承応三年(1654)に甲府藩の下屋敷と改められ、御殿や庭園が整備された。
 やがて宝永元年(1704)には、六代将軍となった元甲府宰相・徳川家宣によって、長年将軍家の別邸として使われるようになった。

 庭園内には鴨場、潮入りの池、茶屋、御花畑や牡丹園などを有し、他に類を見ない美しい眺めが広がる。家宣以降の歴代将軍たちは、御台所や側室、女中たちを連れて思い思いの和やかな時を過ごした。

 現在は浜御殿奉行が管理し、誰も住んでいない屋敷や御庭の手入れを毎日してくれている。そのおかげか、庭の草花が青々と輝いている。
 
 一行は中島之茶屋に入った。家正と家英は、釣り道具を携えてほとりまで向かった。親子が並んで釣りの準備をしている傍ら、藤子は茶屋の縁側から二人を見守った。潮の香りを嗅ぐのは初めてだったが、どこか安らぎを感じさせてくれた。

 徳松の悲しみが未だ拭い切れておらず、最初は乗り気ではなかったのだが、わざわざ新御殿まで訪ねて来てくれた家英の懇願するような眼差しに根負けして参ったのだが、来てよかったと思えて来た。

 藤子には御付きとして、松岡と中川が同行し、部屋の隅で控えている。出された茶を一口啜ると、藤子はその冷たさに驚いた。

「これは……?」

 驚きの余り松岡の方へ振り返ると、松岡は両手を付いて得意げに応えた、

「冷えてございましょう? 江戸市中では、冷やす術を見出したご様子にて、そうした冷たいお茶を用立てする事が叶いましてございます。こうした暑い日々が多い季節の折には、冷たいお茶が涼を誘うことでございましょう」

 聞く所によると、江戸市中では様々な開発が成されていた。不純物を取り除いた製氷技術が三年前から開発され、簡単に火を付ける事が出来るマッチなる物や、自動機織り機──ジャガード織機という舶来品も輸入研究のうえ独自で開発され、多くの町民や庶民たちの生活を豊かにしていた。
 藤子は感心しながら松岡に言った、

「素晴らしい発展じゃ。では、大奥にもその技を献上するよう申し伝えておくれ」

 茶の湯を嗜む藤子は興味を持ち、その方法を学びたいと思った。松岡は恭しく「承知仕りました」と応えた。

 再び夫と息子を見やると静かに池を眺めながら、ゆったりと釣りをしていた。城には無い静かな時間が、二人にとって一時いっときの安らぎを与えているのだろう。城を出る時、汗が滲むほど暑い日だったのだが、海水が引く湖のおかげもあってか、涼しい風が頬を包み込んでくれる。

「母上!」菓子に手を伸ばそうとすると家英に呼ばれた。顔を上げるとこちらに向かって手を振っている。「よろしければ、こちらへ! 共に釣りを致しませぬか?」

 急な誘いに藤子は戸惑ったが、せっかくの家英との憩いの時間を無下にすることは出来ない。そう思い「今、参る」と応じた。中川に目配せし、身軽な姿に着替えた。腰巻にしていた打掛と、その腰巻を支える堤げ帯を解き、帷子の裾を絡げて帯を文庫に結んだ。

 中川に支えてもらいながら二人の方へ向かうと、藤子は今度は家英の手を取った。握るといつの間にやら息子の手は、漢らしい骨ばった手つきになり、時の経過を感じた。

「母は一度も釣りをしたことはないが、出来るであろうか?」

 藤子の不安をよそに家英は母を潮入りの池の畔ギリギリまで誘導し、後ろから覆い被さるように釣りの仕方を教えてくれた。

「すでに釣り餌を付けております。池に釣り糸を垂らし、魚が引っ掛かるのをお待ちくだされ。引きが入ったら私にお声がけください」

 汗を首まで滴らせながら、その表情は爽やかだった。藤子は身体を強張らせながら釣り糸をぎこちなげに池に放り込んだ。
 しばらくすると、家英が簡易椅子を組み立てて藤子の後ろへあてがい、揺ら付かないかを確かめてから座った。母を気に掛けつつ、家英は自身の釣り竿を手に取った。

 一方、家正は釣りに集中し、ちらとこちらを見るだけで言葉は発しなかった。四十路を迎えてから、家正は釣りを趣味とし、政の合間や余暇に吹上ノ庭へ赴いて釣りを楽しんだ。家英に釣りを教えたのも無論、家正だ。

 釣り糸を池の中へ垂らして数刻、一向に引かない糸にやきもきしていると、俄かに強い引きが入った。水面がバシャバシャと波しぶきを立てている。あっという間の出来事に藤子は勢いよく立ち上がり、右往左往したがとりあえず、竿を引いた。しかし、魚は釣られまいと必死にもがいて抵抗してくる。危うく竿を取られそうになり、手放そうとしたところで家英が慌てて駆け付け、後ろから母の握る釣り竿を握り締めた。そしていとも簡単に引き上げた。

 藤子は初めての釣りでスズキの若魚・セイゴを釣り上げた。初体験で歓喜に震えた藤子は息子と顔を見合わせて笑った。傷心していた気持ちが晴れるような心持ちだった。


浜御殿・松之茶屋 ───────

 釣りがお開きとされ、一行は着替えて浜御殿を一望できる、松之茶屋で休息した。

 三人並んで、縁側で潮入りの池を眺めながら、冷たいお茶を飲んで菓子を口にする。この時間が永遠とわに続けば良いのにと藤子は思った。

「釣りは如何であった」

 藤子の方を見ながら、家正は訊いた、

「とっても楽しゅうございました。家英、手伝ってくれてありがとうな?」

 藤子が家正の顔を見てから家英に視線を移し、礼を述べると、息子は満面の笑みで頷いた。身体つきも殿方になってはいるものの、その笑顔は竹千代の頃を彷彿とさせ、愛らしく思った。

「元気そうで何よりじゃ。右衛門佐から『食が細うなった』と聞いておったからのう」

 家正の言葉に藤子は少し俯きかけたが、再び池を眺めた、

「徳松を亡くしてしばらく、立ち直れませなんだ。しかし、何度御仏に手を合わせても生き返る事はございませぬ……それは重々承知しております」

 二人は藤子を哀れむ様に見つめた。二人にとっても子と弟を亡くし、悲しんでいないわけではなかった。木に留まっていた鳥が、勢いよく羽を広げて飛び去った。自由気ままに空を飛べる鳥を羨ましく思いながら、藤子は続けた、

「今日、私は考えを改めました。先にこの世を去った徳松の分まで生きようと。何があろうとも……上様と、そして家英のために生き続けると、そう決めました」

 子の後を追う親は多いと聞く。

 藤子も例外ではなく、一度は懐剣を帯から取り出そうと考えた。しかし、死んでどうなる? 藤子はそう思った。死んで徳松に会ってもそれは本当の徳松ではないのかもしれない。極楽浄土にいる祖母の魂に叱られることであろう。何度も思い直し、御仏に許しを請いながら、夜になれば懐剣を握っている自分がいる。その繰り返しの日々であった。
 
 しかし、今日、初めての釣りをして心が躍った。”生きている” と実感したのだ。生きていることへの尊さを身に染みて分かったのだ。

 藤子は、夫と息子、そして長年付き従ってくれた松岡と中川に向けて、自分は死ぬことは決してないという決意表明を示した。家正と家英は、心の内では安堵し、明るく笑って藤子の手を握った。藤子も微笑み返し、四半刻のこのわずかな間、何気ない話を交わしてから江戸城へと帰って行った。     

────────────────────

 浜御殿での家族との憩いの時間は、藤子を元気づけさせてくれ、公の場にも顔を出せるようになった。いつもの御台所としての生活が出来るようになり、松岡も中川も心の底から安心した。

 家英と時間を設け、氷を用いた茶の湯を振る舞ったり、琴の演奏を披露したり、庭を歩いたりと親子の幸福なひと時を過ごした。

 ところが……

英弘八年(1926)九月二十八日

 将軍世子として政に関わり始めた徳川家英が、敗血症で逝去した。享年・二十四。早すぎる死だった。

 御匙おさじの見立てによると、残暑厳しい九月なのにも関わらず、何枚も着物を着重ねるほど寒気を感じていた。頭も上げられなくなり、頭痛、腹痛、咳などの症状が出始め、家英付きの側用人の顔も分からぬようになり、次第に発熱を起こした。とうとう今朝方、苦悶の表情を浮かべて息絶えた。

 家英逝去の報せを、右衛門佐から受けた藤子は不思議と涙が出なかった。ただ、その場で気を失ってしまい、三日三晩、寝床から起き上がれなくなった。

増上寺 ───────

 十月十四日、増上寺にて葬儀が執り行われた。

 藤子、右衛門佐、松岡、中川、そして家英付きの奥女中らが参列し手を合わせた。家英の妹である、豊姫とよひめ敏姫すみひめ順姫よりひめの三人も弔問し、兄の死を悼んだ。
 徳松の頃のように母の元へ慰めようと考えたが、藤子は娘たちのことすらも頭になく、与えられた休息部屋に閉じ籠ってしまった。

 豊姫たちは母に気遣い、会わずに居ようと再び努めた。

 白の単衣から普段着の小袖に着替える事なく、ただただ家英を亡くした絶望を感じた。病状を御匙から伺った折、どれほど辛った事か、出来る事なら変わってあげたかったと、何も出来ずにいた我が身を恨んだ。

 しばらくして右衛門佐が部屋を訪ねた。

「御台様。公方様がお部屋にてお待ちにございます」

 返事もせずに、藤子は松岡に目で合図をした。着替えを済ませたのち、家正の待つ控之間へと渡った。

増上寺・控之間 ───────

 松岡が変わりに挨拶を述べた後、藤子が部屋に入った。上段には無論、家正が座っており脇息に手を掛けていた。その面差しは悲嘆に暮れている様子だった。

「御台……」

 藤子の顔を見て側に来るよう手招きした。静々と家正の方へと歩み寄り二人は黙ったまま抱き合った。

 夭折する事の無い年齢で襲った突然の息子の死に、悲しみが徐々に込み上がった。

 家英がこの世に生を受けてから、日々御仏に手を合わし、女中を代参させるほど、健やかに暮らせるよう気を遣って来た二人だったのに、元服を過ぎた辺りからは安心しきり、油断してしまった節があった。二人に残ったのは、後悔と絶望だけであった。

 藤子と家正はお互い見つめ合い、今後の事について話し合った。

「御台、豊の嫡男・菊次郎を徳川家へ養子に迎えたいと思うておる」

「於豊の子を……養子に?」

「そうじゃ。豊と松平家にはもう話を進めておる」

 二人の長女・豊姫は会津松平家・松平正雄まつだいらまさたかへ嫁いでいた。二人の間には、菊次郎という長男がおり、現在、六歳になったばかりの若君であった。徳川将軍家にとっては次期将軍として世子を迎える、またとない幸甚こうじんの機会なのだが、藤子は複雑な思いだった。

「されど……於豊にとって余りに酷い仕打ちではありませぬか? 子を手元から放すなぞ、例え娘だとしても──」

「豊は構わないと言ってくれておる。それに豊には、他に二人のおのこを儲けておる。将軍家の一大事、力になりたいと申しておったのじゃ。わしにとっても、徳川宗家を守るためにも、必要不可欠の養子縁組なのじゃ」

「左様でございますか……」

 藤子はそう言った後、手元を見つめて俯いた。

 「将軍家の一大事」この言葉で、藤子は家英をが亡くなった事を、ひしひしと感じたのだった。

 僧侶の唱えるお経の最中、手を合わせながら熱心に祈るも、信じ難い思いに打ちひしがれていた。しかし、四半刻が経った今になって、二度と話す事も爽やかな声を掛けられる事も永遠になくなったと実感した。

 この後、家英が横たわる棺が葬られるのを見届けた後、一堂、江戸城へと戻った。

江戸城・大奥・御切形之間 ───────

 その夜、藤子は家英の位牌を抱きながら眠りに着いた。嗚咽を抑えて、枕を濡らす日々がこれ以降続いた。宿直の御中臈に気取られない様に、口に袖を含ませながら、大事な息子二人の死を、声を上げたい苦しみに喘いだ。

 乳母を設けず、手ずから乳を飲ませた家英は立派に成長し、勇ましい青年へと育って行った。

 父と母の事を大切に想い、妹弟きょうだいとも仲良く過ごし、政についても熱心に学び、文武両道に長け、将軍家を継いでも申し分ないと老中たちから言わしめる程の将軍世子の死は、その後の人々の悲しみを長引かせる結果となって行った。



後篇へつづく

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