初戀

槙野 シオ

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第九十一話 砂上の楼閣

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はじめての時はさすがに右も左もわからなかったけど、ディレクターとフォトグラファーがちゃんと指示を出してくれることを学習したオレは撮影に戸惑うこともなく、言われるがまま手を上げたり組んだり、しゃがんだりシャツをめくったり、順調に、というよりは従順に事を運べるようになった。


撮った写真の確認は相変わらずプロに任せ、オレはずらっと写真の並んだディスプレイをチラ見するだけだった。オノレの写真を見たところで、その善し悪しなんぞわかるはずもない。

鏡を見て「イケメンだな」と思ったこともなければ、雑誌に掲載されてる自分を見て「カッコイイな」と思ったこともない。写真の構図やコントラスト、光の当たり方なんかは綺麗だと思うが、被写体に興味はなかった。だって自分だし。

「じゃあ、お先に失礼しまーす」
「お疲れさまでしたー」
「今日もありがとう! 次もよろしく!」


メイク室で着替えて顔を洗い、その際に濡れた髪を気にもせずボディバッグを担いだオレを見て、鷹栖たかのすさんは「本当に大雑把な子ね」と大笑いした。


───


スタジオのロビーには、ちょっとしたひとだかりができていて、関係者以外の出入りってそこまで自由じゃなかったよな、ってことは出版社関係かモデルなのかな、と思いながらそれを横目に通り過ぎようとしたとき、「賢颯けんそうくん!」と呼ばれ足を止めた。

ああ、そういえばロビーで待ってるって言ってた子か……用があるならとっとと終わらせたいんだけど、と立ち止まったまま沙羅さらとそのひとだかりを眺めていると、ソファから立ち上がり近付いて来た沙羅はオレの腕にしがみ着き、いままで沙羅に群がっていた十人くらいのヤツらは驚いた顔でオレを凝視した。

「ね? 嘘じゃなかったでしょ?」
「でも沙羅、つい最近まで別のモデルと付き合ってなかった?」
「えー、相手が勝手にそう思ってただけで、付き合ってなんかないし」
「じゃあ、本命はこの彼ってこと?」
「そうだよー、あ、賢颯くん、この子たち同じ学校のお友達なの!」
「……はあ」

まったく話が見えねんだが、オレを魔除けとか虫除けに利用したい、ってことか?

「嘘じゃない、ってわかったんだからもういいでしょー? わたしたち、これからデートなの」
「ああ、うん……じゃあ、また学校でね」
「またねー!」

沙羅はオレの腕にしがみ着いたまま、いまいち納得できてない面々に笑顔で手を振り、お友達のみなさんは半ば追い立てられるように、スタジオから出て行った。

「ほんと、しつこいんだから……あ、ありがとう賢颯くん」
「どういう状況かサッパリわからないんだけど、用事ってのは以上?」
「まさか! この近くにね、新しいカフェができたから一緒に行きたいなーって思って」
「せっかくのお誘いだけど、オレ付き合ってる子いるから」
「あ、そうなの? まあ彼女のひとりやふたりいるだろうなーと思ってたから、別にいいわよ?」
「……いいかどうか決めるのは、きみじゃなくてオレだと思うけど」
「賢颯くんて、見た目に似合わず随分と真面目でお堅いのねえ」

いや、別に真面目でも堅いわけでもないが、得体の知れないモデルの女と一緒に過ごす時間があるなら、とっとと帰ってイケメンをなぶり倒しながらよがらせて鳴かせたいだけだ。

「まあ、三十分くらいならいいでしょ? お近付きの印に」
「お近付きになるつもりもないし、忙しいから」
「……ふうん」

不満気な顔を隠すこともなく、鞄の中からスマホを取り出し何やら探していた沙羅は、「ああ、あったあった」と言いながらクルッと画面をこっちに向けた。

「賢颯くんが付き合ってくれないなら、この子に頼もうかなー」
「……んだ、てめえ」

スマホには、明らかに隠し撮りされたであろう、スタジオのソファで本を読んでいるみなとが写っていた。多分、以前オレの撮影に着いて来た時のものだと思うが、一体なんのために湊を?

ここで「それ、オレの彼氏だから」と言うのは簡単だが、付き合ってることを隠してるわけではないにしろ、素性の知れない相手にアウティングするような真似は、さすがに躊躇ためらわれるな…

「この前スタジオで見かけた子でね、おとなしそうだけどカッコイイなーって思って」
「偶然見かけただけなら、逢うチャンスなんてないに等しいじゃん」
「メンズ担当の誰かに訊けばわかるんじゃない? 中にいるってことは単なる一般人じゃないでしょ?」
「……随分下調べが行き届いてるみたいだけど、目的はなんなんだよ」
「ふふっ、賢颯くんとデートしたいだけ」

嘘くさ……いぶかし気なオレの視線などお構いなしに、沙羅はオレの手を握り締め、そのまま歩き出した。


***


「お母さん、ちょっといい?」

キッチンで洗い物をしていた母に声を掛けると、一度振り返って僕の顔を見たあと、手に付いていた洗剤の泡を洗い流し、キッチンペーパーで手を拭いた。

「え、別にそのまま聴いてくれればいいのに」
「紅茶と煎茶、どっちがいい?」
「……煎茶」

ダイニングテーブルの椅子に腰をおろし、こう、「あらたまって話をしましょう」みたいな雰囲気になるのを避けたかったから、わざわざ手を動かしてる時に声掛けたのに…と、僕は小さく溜息を吐いた。


目の前に湯呑みを置いた母は、僕の正面に座ると膝の上に手を置き背筋を伸ばした。

「あの……そんな風にかしこまられたら、話しにくいんだけど…」
「お小遣い欲しい、とか何か買ってくれ、とかって話じゃないんでしょう?」
「うん、まあ……そうだけどさ…」
「……家を出てそうちゃんと一緒に住みたい、とかそういう話?」

普段おっとりしてるってのに、こういう部分の勘の鋭さは、母親としてなのか女としてなのか……言おうとしていたことをいとも簡単に言い当てられ、僕は飲み掛けのお茶を噴き出しそうになり、盛大にむせた。

「ちょっと湊、大丈夫?」
「…うん、大丈夫……って、なんでわかったの?」
「なんで、って……いまだって寝るとき以外、ずーっと颯ちゃんの家にいるじゃない」
「う、うん、まあ、そうなんだけど……」
「住む場所とか、もう決めてるの?」
「いや、まだ……賢颯とも話してないし」
「え、そうなの? 湊がひとりで考えてるだけ?」
「うん……合格したら、話そうと思って」
「……うちに住めば?」
「は?」

母は "いいことを思い付いた" みたいな楽し気な声でそう言うと、ニコニコと嬉しそうに僕を見た。

「お部屋は余ってるんだし、ふたりで使えばいいじゃない?」
「いや、ちょっと待って」
「賃貸だとお家賃だって高いでしょう? うちならお家賃要らないし」
「そういう問題じゃなくて、生活に関わることを他人に頼るの、あいつ絶対いい顔しないから」
「……他人なの?」

あ、いや、そういう意味でもなくて、なんていうか……自分のことは自分で、っていうか、生きて行くうえで必要なことを安易に与えられることを良しとしない、っていうか……間違いなく恐縮するし、辞退すると思うんだよな…

「前に、むねさんから使ってないテレビもらうことすら、申し訳なさでいっぱいって感じだったしさ」
「タダで、っていうのが気になるのなら、光熱費を折半するとか」
「うーん……じゃあ、一応話はしてみるけどさ……」
「お二階にシャワールーム増設して、寝室は防音工事すればいいじゃない」
「…っ…お母さん!? 何考えてんの!?」

お風呂の増設は耐荷重も考えて床の補強工事が必要になるけど、シャワールームならクローゼットをリフォームすることもできるみたいだし、別に浴槽要らないでしょう? とお気楽な母に対し、ここまで理解があり過ぎると、一体何を想像されてるのか恐怖心すら覚える……いや、うん……防音は確かにね…必要だとは思うけど……

「話はしてみるけど、家を出ることも考えておいて」

こういう方向で答えが返って来るとは思ってなかった、と半ばこっちが呆れる展開に眉をひそめながら、そろそろ撮影も終わってる頃だろうし賢颯の家に戻ろうかな、と立ち上がったとき、パタパタッという小さな音と、母の驚く声が聞こえた。うつむくと、シャツに点々と赤い染みができている。

── 鼻血……?

「ちょっと湊、動かないで!」

慌ててティッシュを取りにリビングに向かった母の背中を眺めながら、まさかシャワールームや防音工事の話で鼻血垂らすほどのぼせてるつもりのなかった僕は、なんだか急に恥ずかしくなった。そこまで餓えてないはずなんだけど……

それから、ボックスティッシュを片手に戻って来た母は、さっきより大きな声で僕の名前を呼んだ。


着ていたシャツとカーディガンが真っ赤に染まっていることに気付いた僕は、薄れて行く意識の中で「鼻血って、こんな大量に出るものなんだ」「着替えないと電車に乗れないな」「賢颯、もう帰ってるかな」と、ただ繰り返し思っていた。


***


「姉ちゃん」

救急外来の処置室の前で、俺に気付いた姉ちゃんは待合いの椅子から立ち上がった。

「いまどういう状況?」
「救急車呼んで……しばらく待たされたから、さっき処置室に入ったところなの」
「湊は? どんな状態?」
「家で話してたんだけど、立ち上がったときに鼻血が出てね」
「鼻血程度で救急車って呼んでいいもんなのか…」
「ティッシュ取って振り返ったら……服の前面、血塗れで」
「……鼻血で?」
「そのあと倒れちゃって、呼んでも返事なくて」

まあ、鼻血の出る原因はひとつじゃないし、大量に出血する場合もあるみたいだけど、いままで病気らしい病気をしたことのない湊が目の前で倒れた、ともなればさすがの姉ちゃんでも落ち着いていられないんだろう。さっきから処置室の入口付近まで行っては椅子に戻り、また思い出したように立ち上がっては入口付近で中の様子をうかがう、ということを繰り返した。

れんさんには? 連絡したの?」
「ううん……わたし以上に取り乱す気がして、まだ…」
「……ああ、うん……あ、賢颯くんには?」
「それも、まだ……何を置いても湊を優先するだろうから、何もわからない状態で連絡するのは、ちょっと…」

確かに、賢颯くんならどこで何をしてても駆け付けそうだ。

「……俺は? 俺なら取り乱さないし慌てないって思ったわけ?」
宗弥むねひさが一番、修羅場にも悲惨な状況にも慣れてると思ったから」
「俺だって、こういう状況には全然慣れてないんだけど」
「浮気現場に踏み込まれたり、浮気相手と愛人とセフレが目の前で大喧嘩したり、それを笑って見てられる図太い神経持ってるの、あんた以外知らないから……」
「……まったくもって状況が異なるんだが」

一体、何をどこまで把握してんだよ……怖ろしい……背筋に冷たい汗が流れたその時、処置室の扉が開き「藤城ふじしろさん、どうぞ」と看護師に案内された。

処置室のベッドに横たわっている湊は、顔色こそ良くはないもののしっかりとした口調で「ごめん」と姉ちゃんと俺を見て苦笑いを見せた。

「出血はもうおさまってますから大丈夫ですよ」

首から聴診器をさげた医師は優しい声で姉ちゃんに言葉を掛けた。

「受験勉強が忙しくて、疲労が溜まっていたのかもしれません。先ほど本人に伺ったところ、睡眠時間も普段より短かったようですし、失神自体は長くても2~3分で回復していたでしょうが、そのあと朦朧もうろうとしていたのは、眠気によるものかもしれませんね」

血圧が若干低いようですし出血もありましたので、いまから少し点滴をしましょう、と医師が言うと、姉ちゃんは少し安心したように「よろしくお願いします」と頭をさげた。

「……ご兄弟の方ですか?」
「いえ……叔父ですが…父親が忙しいものですから、代理で」
「ああ、そうなんですね! 失礼しました、お若く見えたので」

医師は慌てて取り繕ったが、姉ちゃんと湊は楽し気に笑った。はいはい、どうせ童顔ですよ……三十四にもなるってのに、十八の湊と兄弟に見えるとか、不幸以外の何物でもないわ。

「わたし、着替え取りに戻るから、あとは任せていい?」
「え、俺がここにいてできることなんて、なんもないと思うけど」
「時間、大丈夫なら少しそばにいてあげて」

姉ちゃんはそう言うと、もう一度「よろしくお願いします」と頭をさげ、処置室から出て行った。時間はどうとでもするけど、俺がいたところで役に立つとも思えないんだが……


───


点滴室には六台のベッドがあったが、他はすべて空いていた。ベッドの横に椅子を置いて腰をおろすと、湊が申し訳なさそうな顔で俺を見上げた。

「ごめんね、宗さん……仕事、忙しいんじゃないの?」
「そんなこと気にしなくていいけど……賢颯くんに連絡は? おまえいまスマホ持ってないだろ?」
「あー、うん……あのさ、おばあちゃんの家に行ってる、って連絡してもらっていい?」
「うちの? それとも漣さんの?」
「お母さんのほうでいいかな……そっちのほうが近いし」
「ああ、じゃあ卒業祝い取りに行ったってことにしとくわ」
「うん、夜には行くからって伝えといて」

一般的には祖父母のほうが卒業祝い持って来るんじゃないか? それより、大学の合格発表控えてるわけだし、この時期に卒業祝いって若干無理があるような……普通は合格祝いを兼ねて卒業祝いもするよなあ。

横になっている湊の頭をクシャっとなでて立ち上がったとき、ちょっとした違和感を覚えた。

「じゃあ、電話して来るわ」と湊に伝え点滴室を出た俺は、そのまま病院の受付へ向かい、処置室で湊を診てくれた医師か、点滴を担当している看護師のどちらかに逢いたい旨を伝えた。


───


「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそお忙しい中、無理を申しまして」

受付の前にある待合いで座っていると、十五分ほどで看護師に声を掛けられ、二階にある小さなカウンセリングルームを案内された。中に入ると、さっき処置室で湊の診察をしてくれた医師が、変わらず優しい声で「どうぞ」と椅子を勧めてくれた。

「それで、お聴きしたいというのは」
「あの……腕に巻かれていた包帯のことなのですが」
「……採血をしたものですから」
「通常、採血程度なら止血用の……こう、小さな絆創膏を貼りませんか?」
「そうですね、通常はそうします」
「もうひとつ……点滴用のカテーテルが刺さってる部分って、そんなにすぐ痣になりますか?」
「あの……お母さまはいつ頃お戻りになられますか?」
「着替えを取りに戻っただけなので、そろそろ戻ると思いますが」

向かい合って座っていた医師は、カウンセリングルームのテーブルに置いてあるPCのキーボードをカタカタと打ちながら「お母さまが戻られたら、説明させていただきます」と、優しい声にそぐわない硬い表情で、ディスプレイから目を離さなかった。
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