初戀

槙野 シオ

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第三十三話 山に躓かずして蟻塚に躓く

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「…え、いや、今日はバイトが入ってたので」
「ああっ、疲れてるところごめんなさい! もう少し待ってみるから!」
「あの、オレ心当たり探してみます」

とは言ったものの、久御山くみやまが思い付くのは自分の家と図書館だけだった。まさか0時を過ぎて図書館にいるわけがない。とりあえず自分の家で待っているかもしれないという淡い期待を頼りに、久御山は走り出した。


── バイトが終わった帰り道でスマホが鳴った。こんな真夜中に誰だろう、と普段なら気に留めない着信の相手を確認した瞬間、久御山は嫌な予感しかしなかった。そしてその予感は見事に当たる。

「遅い時間にごめんなさい…湊、久御山くんと一緒にいる?」
「まだ帰ってないんですか?」
「そうなの……久御山くんと一緒なら、と思ったんだけど」
「…え、いや、今日はバイトが入ってたので」

心配させまいとしているのだろうが、久御山は遥の無駄に元気な声が逆につらかった。中学生のとき変質者に切り付けられた湊を、つい過保護気味に扱ってしまう遥の心中を思えば空元気であることは容易に伝わる。

自宅マンションの周りをぐるりと一周したあと、久御山はそのまま大通りまで走った。




「3,480円です」

タクシーの扉が開くまでの時間さえもどかしく、転がるように車から降りた久御山は湊の家のインターホンを鳴らす。

「…久御山くん」
「ケータイに連絡付かないんで……まだ帰ってないですか」
「ええ、まだ……いまれんさんと宗弥むねひさが探しに出るところで」
「悪いな賢颯けんそうくん…こんな時間に」
「いえ、あの、警察に届け出とかって」
「うん、事件にもなってないからいま届けても動いてくれないんだよね」

家族や身近な人間が家に帰って来なかったとき、警察に行方不明者届を出すことを真っ先に思い付くかもしれないが、帰って来ない者が「特異行方不明者」に該当しない限り、警察が捜索に乗り出すことはほぼ期待できない。

特異行方不明者とは小さなこどもや認知症を患っている高齢者など、「ひとりで戻って来れない、ひとりで生活する能力がない者」のことで、健康な男子高校生はこれに当たらない。誘拐など、命に危険が差し迫っている場合も特異行方不明者に分類されるが、いまはまだ事件性が立証できない状態だ。

「闇雲に探し回っても無意味かもしれませんが」

悲痛な面持ちで漣がつぶやくと、「待っているのも変わらんさ」と宗弥が漣の肩を叩く。確かに、全員が不安に満ちた顔でここにいると、遥の不安な気持ちに拍車を掛けるだろう。探しに行くことで、見つかる確率が少しでも上がると思わせることも一種の優しさかもしれない、と久御山は玄関の扉に手を掛けた。

そのとき、漣の携帯の着信音が鳴り、さほど大きな音でもないのに全員の肩が緊張で跳ね上がった。慌ててスマホの通知画面を確認した漣の顔が一瞬で落胆の色を覗かせる。

「申し訳ありませんが、いま取り込んで…」

きっと職場の関係者だろう、と宗弥も遥も溜息を吐いた。

「……湊くん?」

漣の問い掛けに全員が息を飲んだ。


──


漣に促され車に乗り込んだ久御山がたどり着いたのは、漣の勤める大学だった。「あとから追い駆けるよ」と言った宗弥と別れ、漣とふたり車を降りると胸がざわついた。真夜中の構内で仄暗い外灯に照らされた建物は、お世辞にも居心地が良さそうとは言えない。

研究棟にある小規模な書庫に近寄る学生はおらず、真夜中ともなれば職員ですら立ち寄ることもない。便宜上、書庫と呼ばれているその場所は、膨大な紙仕事を扱う教職員が "捨てるには忍びないが部屋にあると邪魔な書類" を保管しておくための倉庫のようなものだった。

漣が書庫の扉を開くと、背後から久御山が中を覗き込む。窓を照らす外灯と頼りない月明かりがぼんやりと作る影を捉えた漣は、のどに張り付きカラカラに乾いた声を絞り出した。

「…西條くん」

振り向きざまにハラリとひるがえった白衣目掛けて久御山が部屋に飛び込み、西條のみぞおちを蹴り抜くと、大きな音を立てて西條は背後のロッカーを身体で揺らした。白衣の襟を掴み、久御山は西條を締め上げる。

そのとき、キイッ…とドアの軋む音が耳をかすめ、久御山は振り返ろうとした。

「久御山、しゃがめ」

声の主を確認したり指示の意図を把握したり、そんなことをする隙はないのだ、と久御山は本能で嗅ぎ取り慌ててしゃがんだ。その瞬間、ドンッという重く鈍い音が頭上で響き、目の前に矢尻の潰れた矢が落ちて来た。そっと振り返ると矢を放った桜庭と、となりで苦笑する宗弥が見えた。

硬直したまま身動きひとつ取れずにいる西條の右耳にはわずかに血が滲み、背後にあるスチール製のロッカーはちょうど西條の耳の真横部分が激しく潰れていた。正気か、桜庭……久御山は背筋を凍らせた。


「…次は当てる」

矢を弦につがえ、桜庭は静かに弓を構えた。入口から目標までの距離はせいぜい7、8メートルだ。普段28メートル先にある36センチの的の中心に的中させる桜庭にとって、難しいことは何ひとつなかった。

「十数える間に人質を返せ」
「オニーチャン、おとなしく言うこと聞いたほうがいいよ? こいつ、冗談でこんなこと言わないから」
「…五、六、七、八」
「…っ!! ごめんなさい!!」

西條はカタカタと震えながら土下座の姿勢で頭を地面に擦り付けた。




「…間違えた!?」

全員が素っ頓狂な声をあげる中、久御山は解放された湊を膝に抱え肩をさする。書庫にあるソファで眠っていた湊は見たところ無傷で、最悪の事態を想定した久御山を安堵させた。薬で眠っているという話だが……久御山は浅い溜息を吐きながら、湊の肩をさすり続けた。

「……そっくりだったので…まさか息子さんだとは…」
「関係ねえ…間違えてなかったらここにいるのが遥さんだったってだけだろ」

久御山の声はどこまでも冷たかった。

「西條くん……なぜこんなことを?」

妻と間違えて息子を拉致された憤りか、信頼していたはずの助手に裏切られた寂寥感せきりょうかんか、漣はどちらとも取れるような曖昧な口調で西條に訊ねた。

「……悔しかったんです」
「悔しかった、というと?」
「藤城教授が……あまりにも無防備に学生を受け入れるので」
「西條くん、誤解を招きたいとしか思えない発言は遠慮してください」
「だってそうじゃないですか! 期限を過ぎたレポート、結局何件受け取ったか憶えてますか!?」
「…八件ですね」
「その内、女子はひとりのみであとの七名はすべて男子学生ですよ!?」
「…はい、そうでした」
「学生に押し倒されてヤられる寸前だったじゃないですか!」
「西條くん、家族の前でその話は」

話を聞きながら宗弥は首を傾げ、隣の久御山と桜庭に「……痴話喧嘩?」と確認を取った。久御山は苦笑いをしただけだったが、唯一の常識人である桜庭は「いえ、壮大な愛の告白では」と成り行きを見守る姿勢で答えた。

「藤城教授は危機感がなさ過ぎるんです! 僕がいなければいま頃どうなっているか……」
「ないわけではないのですが、西條くんには感謝しています」
「だから……危機感を持って欲しかったんです…」
「そのために…妻を拉致しようと考えたのですか?」
「そうです、間違えて息子さんを連れ去ってしまいましたが…」

── サクっと連れ去って、しばらくどこかで放置したのち帰すつもりでした。愛妻家である藤城教授なら事態を重く捉えると思いましたし、連れ去ったのを学生の仕業だと言えば、もっと学生を警戒するんじゃないかと思ったんです。そうすれば藤城教授が学生に甘い顔をすることもなくなるんじゃないかって……

研究棟のこの書庫なら危険もないですし、数時間ここにいてもらおうと思いました。口にガムテープを貼ったままで皮膚がかぶれたりするのは申し訳ない、とテープを剥がしました。多少大声を出されても平気だと思ったので。そこで……連れて来たのが息子さんだと気付いたのです…

さすがに未成年を拉致するのはマズいんじゃないかと動揺した僕は、息子さんに事情を話し家に帰そうとしました。息子さんは黙って話を聞いてくれたのち、協力する、と言ってくれたんです。お父さんの曖昧な態度が引き締まればいいですね、と笑顔で快く……

あ、眠っているのは暴れた時のためにと用意していた眠剤入りのお茶と、新しく淹れたお茶を間違えて飲んだからで、何かしようと思って眠らせたわけではありませんから…

「申し訳ありませんでした……」

目に涙を浮かべ肩を落としながら、西條は深く謝罪した。「…なんだか気持ちはわかるような」とつぶやいた桜庭を、宗弥は二度見した。何か、思い当たる節でもあるんだろうか、と久御山は宗弥から目を逸らす。


「お父さんが悪いんだよ」

全員の視線が久御山に注がれ、その膝の上で目を覚ました湊はうーんと両腕を伸ばして起き上がった。

「…湊」

膝の上から降りようとした湊を抱き締め、久御山は大きく溜息を吐いた。「お父さんも宗さんも見てるけど」と小声でたしなめられ、久御山は慌てて湊から腕を離した。が、いままで膝の上で湊の肩をさすり続けていたことを彼らがどう思っているのか、想像した久御山の顔から血の気が失せた。

「湊くん、体調はどうですか」
「大丈夫だよ、西條さんによくしてもらったから」
「そうでしたか……無事で安心しました」
「どうして学生に好きにされてるの?」
「あの、湊くん……好きにされてるわけではありませんよ…」
「でも押し倒されたりするのは、大問題じゃないの?」
「そうですね……西條くんに迷惑を掛けてばかりではいけませんね」

えっ? と湊は漣を見上げたが、久御山も、宗弥も、桜庭も、もちろん西條も同じように「えっ?」という顔で漣を見た。この話の着地点は「漣に危機感を持ってもらい、学生を厳しく突き放す」という部分で相違ないが、西條の思惑としては自身に降り掛かる迷惑を削減したいわけではない。

「ただ……どうすれば僕を怖がってくれるのでしょうか」

どこまでも果てしなく人畜無害を思わせる、気が弱そうで人の良さそうな優男。身長こそ高いが薄い身体は組み敷きやすそうで、狙ってくださいと言わんばかりの容姿の漣は溜息を吐く。

「そういうところじゃないか…?」とつぶやく宗弥に、全員が首を縦に振る。


「とりあえず、見た目から変えてみれば?」
「見た目を? 赤い髪とかパンクファッションは無理ですよ…」
「久御山みたいに、意地の悪い笑顔って作れない?」
「おう、あんちゃん喧嘩売ってんのか」

漣は久御山の顔をじっと見つめ、表情筋の動きがどうなっているのか、を考えた。しかし、そもそもの顔の造りがまったく違うのだから、同じ表情になったからといって同じ効果があるとも思えない。

「片眉上げて、目は据わってる感じで…口角も片方だけ上げて」
「急にはできませんよ、片方だけって…」
「あくまでもひとを見下すような雰囲気で」
「湊? おまえにはオレがそんな風に見えてんの?」

その日から漣の表情筋強化訓練が始まることとなった。


──


結局湊は、別の友人の家でうっかり寝てしまい、スマホのバッテリーも切れてしまったため連絡ができなかった、ということにして遥の不安を少しばかり軽減した。何より久御山も、漣も、宗弥も口裏を合わせているのでその嘘がバレることはなかったが、その日を境に湊の態度が若干軟化したことを遥はいつか問いただそうと思った。




「失礼します……藤城教授、ちょっといいですか?」
「はい、どうしましたか?」
「単位の評価基準なんですが…教授は何を重視してますか?」
「試験、提出物、講義の出席率、授業態度、すべて重要ですが」
「……それ以外の貢献度を評価していただけませんか」
「それ以外、ですか?」

藤城の部屋に来た男子学生が、ジャケットとシャツのボタンを外し藤城の顔を上目遣いで見つめる。藤城は椅子から立ち上がりその学生の前で浅い溜息を吐いた。

「ぼく……藤城教授を悦ばせることができると思います…」
「悦ばせる…ね」

藤城は学生の後ろの壁をドンッと手のひらで押さえ学生の逃げ道を塞ぐと、片眉を上げ据わり気味の目で学生を見下ろした。高身長がこういう形でしか活かされないのも不憫な話である。

「もし僕が満足しなかったら……その場できみの評価は不可、GPAはゼロになるけど」
「え……」
「自信、あるのかな」

そう言って藤城はネクタイを緩めた。学生は涙目で藤城を仰ぎながら他の方法を必死で乞う。

「じゃあこれを読んでレポートを提出してください。期限は来週の木曜日です」

藤城が学生に本を渡すと、学生はひったくるように本を受け取り部屋から走り去って行った。藤城はネクタイを締め直し、なるほど、片眉と据わり目の威力の高さに驚いた。片眉を上げる練習、頑張って良かったな、と藤城は小さな手応えを感じていた。




部屋の入口で走り去る学生とすれ違った西條は、その学生が頬を紅潮させていたことを目敏めざとく見抜き、ライバルを大量生産させるだけじゃないか、と意識が遠くなって行くのを感じた。
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