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第四話「アイリッシュコーヒー」
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夢ヶ丘での新しい生活は着々と達也は疲弊させていった。
父と母との家族会議によって議決された家事当番制、夜は早く寝て朝も早く起きる規則正しい生活リズム。2LDKのアパートでの三人暮らしプライバシー概念は希薄しており、達也はおちおち自分を慰める行為すら行えずにいる(年頃の実家暮らしはこれが一番キツいよね)。
母は病気に効果的な新薬を飲んでいた。一週間、毎食後に内服しては、一週間それをストップするというルーティーンを繰り返している。薬は母の病状を抑える上でとても効果的な薬ではあったが、それによる副作用もまた強烈なものだった。
内服している一週間は手や足がとてつもなく浮腫み、歩くだけで足先へ痛みを走らせていた。
薬の副作用に弱った母の姿は達也に大きな衝撃を与えた。パンパンに浮腫んだ母の足首から足先は「もうこれドム(ガンダムの)の足じゃん!」と達也の目を脅かせたし、ひどく悲しませた。
そして東京に出るまでは家事や食事など、自分に身の回りの必要なことの百パーセントを与え続けてくれていた母に対し、時としては自分が与えなければならないという状況から貰う切なさは何よりも達也にとって耐え難いものだった。
そんな三人で暮らすアパートの中という小さな世界に疲れた達也は外に出歩くことが多くなっていった。
運動不足解消のための散歩、ハローワークでの求人探しなど出歩く理由はいくらでもあったし、それが無ければ錬金術のように無理にでも作り出していった。
賑やかな駅前の通りはもちろん、迷路のような住宅地の路地もRPGゲームのダンジョンのようで迷い込むことに楽しみを感じれていたし、少し離れたエリアには、樹木が多くあり散策路も整備された大阪府営の大きな都市公園もある。
夢ヶ丘は意味もなくふらふらと歩く達也にはもってこいの街だった。
夢ヶ丘に来て三週間ほどが経ち、家から抜け出して練り歩いた甲斐もあって達也は街の地理にはどんどん詳しくなっていった。
初めて夢ヶ丘に来た日に見つけた「pig tail」は変わらずに街のメインストリートにみすぼらしく存在していた。
看板代わりの豚の置物も相変わらず生々しいフォルムのまま出入り口の前に置かれている。
朝方に店の前を散歩してみれば朝まで飲んでいた酔っ払いにでも蹴られたのか、豚の置物は横になって転がっていることもあった。
ひどい時には油性ペンのような物で「豚野郎」という文字や女性器のマーク(中学の時に男子が書くあれ)といった下品な落書きをされていることもある。
しかし、そんなイタズラの矛先となっていても夕方前にまた店の前を通れば豚の置き物は元の位置に戻っていたし、落書きは綺麗に消されていた。
そこまで治安の悪い土地でもないはずなので、きっと店の人間が誰かしらから恨みを買っているか、嫌われているのだろう。達也にもそれはすぐに分かった。
達也は何度か店の中に入ろうとは思ったのだが、躊躇して結局諦めてしまっていた。彼女の思い出に触れることは、乾き始めた瘡蓋を剥がしてしまうことになりかねない。
十一月を迎えた。
テレビやネット広告のCMでも冬服や、クリスマス商品が登場するようになってきた。
達也は相変わらず街をふらふらして探索はするも、特に仕事を探すわけでもなく不毛な時間を過ごしていた。両親も達也のことを只々心配しながらも見守っているようだった。
十一月の夢ヶ丘は達也が来た時よりも少しずつ寂しく切なげに色付いていった。大切な人との別れの歌のような金木犀の香りは達也に小さな決意を手渡し、pig tailの前まで足を運ばせていた。
どうしてこの店に入りたいと思ったのか、理由など達也にもよく分からなかった。もう桃子とは連絡さえも長く取っていない。
やり直したいという気持ちも、彼女と過ごした日々に付け足したい「もしも」や「たられば」なんてものさえ、もう浮かぶわけでもないのに。
達也は店の前でただぼうっと豚の置物を見ていた。相変わらず無駄にリアルで迫力のある置物で、目が合うと今にも「ぶひぶひ」とでも言いながら動き出しそうだと達也は思った。
「いらっしゃい。今来たとこでね。これから準備するんですが冷えるといけない。中へどうぞ」
ぼうっとして置物を見ていたせいで、後ろに人が立っていたことにも達也は気付いていなかった。店の店主らしき壮年の男は買い物袋を片手に提げながら、入口のドアの鍵を開けて達也を店の中に招き入れた。
中に入るとカウンター九席とボックス席一つのみの長方形型の小さなカジュアルバーだった。
カウンターや酒のボトルやグラスを置いてある棚には邪魔にならない程度にアメコミヒーロのフィギュアが並んでおり、店内の壁には海外のロックバンドの古いポスターが貼られていた。
達也は外観通り敷居の高そうなバーでは無かったことに安堵したと同時に、桃子が何故ここを行きつけにしたのかという理由が早くも少し分かったような気になる。
達也は入口から見て一番奥のカウンターチェアに座った。年季の入った椅子に座ると少しだけ高さが沈んだ。高さ調節の部分がいくらか馬鹿になっている。
しばらく待っているとのれん越しの小さなキッチンから買い出ししてきた材料を片づけ終えた店主が現れた。
「お客さん、うちは初めてですかね?」
綺麗な標準語だった。夢ヶ丘に来てから、他人に標準語で声を掛けられることなどほぼ無かったので達也にはとても新鮮に感じられた。
店主の顔を見るとほうれい線と額の皺が少し目立っていて、おおよそ四十代半ばぐらいの年齢であることは分かるが、顔立ちは童顔で髪の毛には張りもあり、少し離れて見れば三十代のようにも見える。
「は、はい。はじめてです」
達也が答えると店主は目を細めてふっと笑った。
「何を飲まれますか? あとこれはお通しです」
店主はそう言うとビスタチオを乗せた小皿を達也の前に置いた。
「えっと・・・。おすすめので」
<うちはな、絶対に初めてのバーではおすすめの酒を頼むねん!>
「おすすめですか・・・」
店主は達也の顔を一瞬だけ強い目力で見つめた。達也さえもがそれに気づかないほどの僅かな一瞬だった。そして店主は懐かしむような表情を浮かべて、優しくほころぶ。
「寒くなってきたのでホットカクテルなんてどうでしょう?」
<そこのマスターがなぁ。『おすすめで』言うたらおもろい酒作んねん。そういうのってセンスやん?>
「あ、はい。任せます」
「お客さん、コーヒーは大丈夫でしたか?」
そう言うと店主は後ろを振り返って棚から酒のボトルを探し始めた。
「はい。コーヒーはむしろ好きです」
「かしこまりました。少し待っていてください」
暫くすると店主は一本のウイスキーのボトルを手に取ってカウンターに置いた。すると少し考えるようにしてダブルウォールのコーヒーグラスを選び、ボトルの横にすっと置く。
グラスにザラメを入れ、ウイスキーを入れてステアする。カジュアルな長袖のバンドTシャツを着ている姿からは想像できないぐらいにその手際は美しいものだった。
「もう、この店って長いんですか?」
「うちは開いて五年ほどになります。この近所界隈は古い店が多いんでね、うちはまだまだぺーぺーですよ」
そう言って店主はホイップクリームを冷蔵庫から取り出して泡立てていく。
「お客さんはどちらのご出身ですか?」
「あぁ、出身は瀬戸内の方です。少し前まで東京にいました。今は家族の事情でこっちに越して来たんですが・・・」
ホイップクリームが泡立つと、店主はアルコールランプを用意し、ライターで火を点けた。ザラメが混ざったウイスキーが万遍無く暖まるようにグラスを火にかけて回していく。
「やっぱりそうでしたか。訛りのない標準語で喋るから、そうかなぁとは思いました」
「はぁ」
「実は俺も東京の出身なんですよ」
そう言うと店主はコーヒーメーカーを使って淹れた暖かいコーヒーをウイスキーの入ったグラスに注ぎステアする。狭い店内に香ばしいコーヒーの薫りが広がっていく。
そして、ホイップクリームをグラスのすりきりいっぱいまで乗せてホットカクテルは出来上がった。
<それでマスターが私に初めて作った酒がな、アイリッシュコーヒーっていうねん>
「アイリッシュコーヒーというカクテルです。どうぞ」
そう言って店主はグラスをカウンターの上で静かにスライドさせて達也の前に運んだ。そしてポケットから出した名刺入れからスッと一枚の名刺を取り出し、丁寧に両手で縁を持って達也に差し出す。
「ここpig tailのマスターの早川と言います。どうかご贔屓に」
達也が受け取った名刺には「早川創志」という名前が書かれていた。
名刺を財布に入れて、達也は創志が作ったアイリッシュコーヒーを一口、口の中に含んで、飲み込んだ。
味が立つコーヒーの渋み、後から追いついてくるザラメとホイップクリームの優しい甘さ、そして立ち昇る湯気と共にウイスキーとコーヒーの薫りと温もりがの口と鼻から全身へ広がっていく。
達也は創志が淹れたアイリッシュコーヒーを心から美味しいと思った。
<アイリッシュコーヒーっていう酒はできた理由がおもろいねん>
「とても美味しいです」
「お口に合いましたか。ありがとうございます」
創志はウイスキーボトルをクロスで拭きながら語り始める。
「このアイリッシュコーヒーというカクテルが開発されたのにはある理由があるんですよ」
達也はまたグラスの縁に唇を当て、アイリッシュコーヒーを口に含んだ。そして飲み込む。体が芯から温もっていく。
「実は僕、知っています。”兵士の休息”ですよね」
達也がそう言うと創志は少しだけ驚いたような顔を浮かべ、笑った。
「お客さん、詳しいですね」
「いえ、たまたま知り合いから聞いただけです。世界中で戦争してた頃、連合軍の燃料補給地だったアイルランドのパブで働いてたバーテンが、兵士の英気を養うために作ったカクテルだって」
「よくご存じで。今までこれを最初に出したお客で知っていたのはお客さんが初めてです」
そう言うと創志は何かを思い出そうとするかのように斜め上に視線を向け、クロスで磨き終えたウイスキーを元にあった棚へ戻した。
「お客さん、もしよかったらお名前を伺ってもよろしいですか?」
そう言うと達也は少し悩んで「達也といいます。藤崎達也」と答えた。
「なるほど」
そう言って創志は、笑った。
創志は酒のボトルが並ぶ棚の端へつかつかと何歩か歩いた。端に数枚並べられたCDを取り出しプレイヤーの中に入れて曲を流し始めた。
店内にカントリー調なアコースティックギターの心地良いアルペジオの音が鳴り響く。
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
「達也君にもし会えたとしたら、ずっとこの曲を聴かせたいと思っていました」
創志はそう言ってCDのケースを達也に渡した。
そのCDはボブ・ディランの「THE FREEWHEELIN'」だった。
「達也君にはこのアルバムと、アイリッシュコーヒーが必要だったんだと思います」
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind
〈Blowin' in the Wind / Bob Dylan〉
父と母との家族会議によって議決された家事当番制、夜は早く寝て朝も早く起きる規則正しい生活リズム。2LDKのアパートでの三人暮らしプライバシー概念は希薄しており、達也はおちおち自分を慰める行為すら行えずにいる(年頃の実家暮らしはこれが一番キツいよね)。
母は病気に効果的な新薬を飲んでいた。一週間、毎食後に内服しては、一週間それをストップするというルーティーンを繰り返している。薬は母の病状を抑える上でとても効果的な薬ではあったが、それによる副作用もまた強烈なものだった。
内服している一週間は手や足がとてつもなく浮腫み、歩くだけで足先へ痛みを走らせていた。
薬の副作用に弱った母の姿は達也に大きな衝撃を与えた。パンパンに浮腫んだ母の足首から足先は「もうこれドム(ガンダムの)の足じゃん!」と達也の目を脅かせたし、ひどく悲しませた。
そして東京に出るまでは家事や食事など、自分に身の回りの必要なことの百パーセントを与え続けてくれていた母に対し、時としては自分が与えなければならないという状況から貰う切なさは何よりも達也にとって耐え難いものだった。
そんな三人で暮らすアパートの中という小さな世界に疲れた達也は外に出歩くことが多くなっていった。
運動不足解消のための散歩、ハローワークでの求人探しなど出歩く理由はいくらでもあったし、それが無ければ錬金術のように無理にでも作り出していった。
賑やかな駅前の通りはもちろん、迷路のような住宅地の路地もRPGゲームのダンジョンのようで迷い込むことに楽しみを感じれていたし、少し離れたエリアには、樹木が多くあり散策路も整備された大阪府営の大きな都市公園もある。
夢ヶ丘は意味もなくふらふらと歩く達也にはもってこいの街だった。
夢ヶ丘に来て三週間ほどが経ち、家から抜け出して練り歩いた甲斐もあって達也は街の地理にはどんどん詳しくなっていった。
初めて夢ヶ丘に来た日に見つけた「pig tail」は変わらずに街のメインストリートにみすぼらしく存在していた。
看板代わりの豚の置物も相変わらず生々しいフォルムのまま出入り口の前に置かれている。
朝方に店の前を散歩してみれば朝まで飲んでいた酔っ払いにでも蹴られたのか、豚の置物は横になって転がっていることもあった。
ひどい時には油性ペンのような物で「豚野郎」という文字や女性器のマーク(中学の時に男子が書くあれ)といった下品な落書きをされていることもある。
しかし、そんなイタズラの矛先となっていても夕方前にまた店の前を通れば豚の置き物は元の位置に戻っていたし、落書きは綺麗に消されていた。
そこまで治安の悪い土地でもないはずなので、きっと店の人間が誰かしらから恨みを買っているか、嫌われているのだろう。達也にもそれはすぐに分かった。
達也は何度か店の中に入ろうとは思ったのだが、躊躇して結局諦めてしまっていた。彼女の思い出に触れることは、乾き始めた瘡蓋を剥がしてしまうことになりかねない。
十一月を迎えた。
テレビやネット広告のCMでも冬服や、クリスマス商品が登場するようになってきた。
達也は相変わらず街をふらふらして探索はするも、特に仕事を探すわけでもなく不毛な時間を過ごしていた。両親も達也のことを只々心配しながらも見守っているようだった。
十一月の夢ヶ丘は達也が来た時よりも少しずつ寂しく切なげに色付いていった。大切な人との別れの歌のような金木犀の香りは達也に小さな決意を手渡し、pig tailの前まで足を運ばせていた。
どうしてこの店に入りたいと思ったのか、理由など達也にもよく分からなかった。もう桃子とは連絡さえも長く取っていない。
やり直したいという気持ちも、彼女と過ごした日々に付け足したい「もしも」や「たられば」なんてものさえ、もう浮かぶわけでもないのに。
達也は店の前でただぼうっと豚の置物を見ていた。相変わらず無駄にリアルで迫力のある置物で、目が合うと今にも「ぶひぶひ」とでも言いながら動き出しそうだと達也は思った。
「いらっしゃい。今来たとこでね。これから準備するんですが冷えるといけない。中へどうぞ」
ぼうっとして置物を見ていたせいで、後ろに人が立っていたことにも達也は気付いていなかった。店の店主らしき壮年の男は買い物袋を片手に提げながら、入口のドアの鍵を開けて達也を店の中に招き入れた。
中に入るとカウンター九席とボックス席一つのみの長方形型の小さなカジュアルバーだった。
カウンターや酒のボトルやグラスを置いてある棚には邪魔にならない程度にアメコミヒーロのフィギュアが並んでおり、店内の壁には海外のロックバンドの古いポスターが貼られていた。
達也は外観通り敷居の高そうなバーでは無かったことに安堵したと同時に、桃子が何故ここを行きつけにしたのかという理由が早くも少し分かったような気になる。
達也は入口から見て一番奥のカウンターチェアに座った。年季の入った椅子に座ると少しだけ高さが沈んだ。高さ調節の部分がいくらか馬鹿になっている。
しばらく待っているとのれん越しの小さなキッチンから買い出ししてきた材料を片づけ終えた店主が現れた。
「お客さん、うちは初めてですかね?」
綺麗な標準語だった。夢ヶ丘に来てから、他人に標準語で声を掛けられることなどほぼ無かったので達也にはとても新鮮に感じられた。
店主の顔を見るとほうれい線と額の皺が少し目立っていて、おおよそ四十代半ばぐらいの年齢であることは分かるが、顔立ちは童顔で髪の毛には張りもあり、少し離れて見れば三十代のようにも見える。
「は、はい。はじめてです」
達也が答えると店主は目を細めてふっと笑った。
「何を飲まれますか? あとこれはお通しです」
店主はそう言うとビスタチオを乗せた小皿を達也の前に置いた。
「えっと・・・。おすすめので」
<うちはな、絶対に初めてのバーではおすすめの酒を頼むねん!>
「おすすめですか・・・」
店主は達也の顔を一瞬だけ強い目力で見つめた。達也さえもがそれに気づかないほどの僅かな一瞬だった。そして店主は懐かしむような表情を浮かべて、優しくほころぶ。
「寒くなってきたのでホットカクテルなんてどうでしょう?」
<そこのマスターがなぁ。『おすすめで』言うたらおもろい酒作んねん。そういうのってセンスやん?>
「あ、はい。任せます」
「お客さん、コーヒーは大丈夫でしたか?」
そう言うと店主は後ろを振り返って棚から酒のボトルを探し始めた。
「はい。コーヒーはむしろ好きです」
「かしこまりました。少し待っていてください」
暫くすると店主は一本のウイスキーのボトルを手に取ってカウンターに置いた。すると少し考えるようにしてダブルウォールのコーヒーグラスを選び、ボトルの横にすっと置く。
グラスにザラメを入れ、ウイスキーを入れてステアする。カジュアルな長袖のバンドTシャツを着ている姿からは想像できないぐらいにその手際は美しいものだった。
「もう、この店って長いんですか?」
「うちは開いて五年ほどになります。この近所界隈は古い店が多いんでね、うちはまだまだぺーぺーですよ」
そう言って店主はホイップクリームを冷蔵庫から取り出して泡立てていく。
「お客さんはどちらのご出身ですか?」
「あぁ、出身は瀬戸内の方です。少し前まで東京にいました。今は家族の事情でこっちに越して来たんですが・・・」
ホイップクリームが泡立つと、店主はアルコールランプを用意し、ライターで火を点けた。ザラメが混ざったウイスキーが万遍無く暖まるようにグラスを火にかけて回していく。
「やっぱりそうでしたか。訛りのない標準語で喋るから、そうかなぁとは思いました」
「はぁ」
「実は俺も東京の出身なんですよ」
そう言うと店主はコーヒーメーカーを使って淹れた暖かいコーヒーをウイスキーの入ったグラスに注ぎステアする。狭い店内に香ばしいコーヒーの薫りが広がっていく。
そして、ホイップクリームをグラスのすりきりいっぱいまで乗せてホットカクテルは出来上がった。
<それでマスターが私に初めて作った酒がな、アイリッシュコーヒーっていうねん>
「アイリッシュコーヒーというカクテルです。どうぞ」
そう言って店主はグラスをカウンターの上で静かにスライドさせて達也の前に運んだ。そしてポケットから出した名刺入れからスッと一枚の名刺を取り出し、丁寧に両手で縁を持って達也に差し出す。
「ここpig tailのマスターの早川と言います。どうかご贔屓に」
達也が受け取った名刺には「早川創志」という名前が書かれていた。
名刺を財布に入れて、達也は創志が作ったアイリッシュコーヒーを一口、口の中に含んで、飲み込んだ。
味が立つコーヒーの渋み、後から追いついてくるザラメとホイップクリームの優しい甘さ、そして立ち昇る湯気と共にウイスキーとコーヒーの薫りと温もりがの口と鼻から全身へ広がっていく。
達也は創志が淹れたアイリッシュコーヒーを心から美味しいと思った。
<アイリッシュコーヒーっていう酒はできた理由がおもろいねん>
「とても美味しいです」
「お口に合いましたか。ありがとうございます」
創志はウイスキーボトルをクロスで拭きながら語り始める。
「このアイリッシュコーヒーというカクテルが開発されたのにはある理由があるんですよ」
達也はまたグラスの縁に唇を当て、アイリッシュコーヒーを口に含んだ。そして飲み込む。体が芯から温もっていく。
「実は僕、知っています。”兵士の休息”ですよね」
達也がそう言うと創志は少しだけ驚いたような顔を浮かべ、笑った。
「お客さん、詳しいですね」
「いえ、たまたま知り合いから聞いただけです。世界中で戦争してた頃、連合軍の燃料補給地だったアイルランドのパブで働いてたバーテンが、兵士の英気を養うために作ったカクテルだって」
「よくご存じで。今までこれを最初に出したお客で知っていたのはお客さんが初めてです」
そう言うと創志は何かを思い出そうとするかのように斜め上に視線を向け、クロスで磨き終えたウイスキーを元にあった棚へ戻した。
「お客さん、もしよかったらお名前を伺ってもよろしいですか?」
そう言うと達也は少し悩んで「達也といいます。藤崎達也」と答えた。
「なるほど」
そう言って創志は、笑った。
創志は酒のボトルが並ぶ棚の端へつかつかと何歩か歩いた。端に数枚並べられたCDを取り出しプレイヤーの中に入れて曲を流し始めた。
店内にカントリー調なアコースティックギターの心地良いアルペジオの音が鳴り響く。
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
「達也君にもし会えたとしたら、ずっとこの曲を聴かせたいと思っていました」
創志はそう言ってCDのケースを達也に渡した。
そのCDはボブ・ディランの「THE FREEWHEELIN'」だった。
「達也君にはこのアルバムと、アイリッシュコーヒーが必要だったんだと思います」
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