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病室にて
記憶喪失について
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それから彼はリンゴを剥いてくれ、俺が事故で記憶を失ってしまっていること、俺のことを教えてくれた。しゃくしゃくと蜜がたっぷり詰まったそれを咀嚼しながら、彼の話に相槌を打っていく。
「それ、美味いか?」
「うん…?普通に美味しいけど」
「ならよかった」
彼によると、俺は彼と遊びに行っている途中に自動車に突っ込まれて事故に遭い、ここ一ヶ月ほど目を覚まさなかったようだ。たいした怪我はなかったが倒れた際の打ち所が悪かったらしく、かなりの年数の記憶がまるっきり飛んでいる。隔離性健忘。いわゆる、記憶喪失。
だから、俺のことが分からなくて正しいと彼は言う。
ベットの右側に存在する窓ガラスに目を向けると、そこには確かに頭を包帯で巻いた記憶より少し年を重ねたように見える俺が映っていた。
どうやら、彼と俺は親友だったようで事故に遭う前からよく会っていたらしい。出会ったのは大学の入学式で隣で、それからずっと仲良くしていた。
所々言葉を詰まらせながら教えてくれる彼に、申し訳なさが降り積もっていく。
今の俺の年齢はどうやら二十四らしい。大学を卒業してから二年。計算すると、彼とは五年以上の付き合いがある。なのに、今の俺は彼と積み重ねてきたはずの思い出がひとつも思い出せない。五年以上共にいた親友を突然失うというのは、計り知れないほどの寂しさがあるのだろう。
そんなこちらの心境を感じ取ったのか、彼は強い口調で言い放った。
「お前が悪く思うことはひとつもないからな。今はお前が無事社会復帰することが一番だ」
「でも、俺たちの大切な思い出を君しか覚えてないなんて寂しくない?」
「…別に、たいした思い出なんかないさ」
また眉を崩した笑い方をする彼に、とりつく島もなくて途方に暮れる。彼はきっと、俺のことを思ってわざと突き放すような発言をしている。どこまでも優しい人だなと思った。
「…なら、新しい思い出をたくさん作っていこう」
「え?」
きょとんと目を丸くする彼に、語りかける。大きくなった黒い瞳は、こちらを飲み込むような独特な煌めきを持っていた。
「俺が忘れちゃった分より、たくさんの思い出を作ろう」
彼はしばらく目を見開いていたが、瞬きを数回繰り返してようやく表情を変えた。
「はは、お前らしいよ」
からりと笑った彼は、どうにも俺の言葉を信じているようには見えない。俺の言葉には答えずに、また彼は笑ったのだ。そんな彼の様子になんとも言えない気持ちが溢れたが、それが音になることはなかった。
どうにかして、この重い沈黙を切り裂こうと模索する。しばらくシーツと俯いた彼の横顔とを視線を行き来させて、ようやく出てきた言葉。それが今の現状に完全に不相応であることはわかっていたが、それ以外思い付かなくて、引きつりながらもとうとう口にしてしまう。
「君の、名前を教えてくれる?」
彼は先程とは少し違う笑みを浮かべる。まるで、今年も蕾を開かせた桜を見つめる時のような、自然な笑顔。その笑顔の方が彼にはよく似合っていて、彼の本当の姿を垣間見たような気がした。
くしゃりと笑いながら、彼は丁寧に言葉を紡ぐ。
「俺の名前は―――」
「それ、美味いか?」
「うん…?普通に美味しいけど」
「ならよかった」
彼によると、俺は彼と遊びに行っている途中に自動車に突っ込まれて事故に遭い、ここ一ヶ月ほど目を覚まさなかったようだ。たいした怪我はなかったが倒れた際の打ち所が悪かったらしく、かなりの年数の記憶がまるっきり飛んでいる。隔離性健忘。いわゆる、記憶喪失。
だから、俺のことが分からなくて正しいと彼は言う。
ベットの右側に存在する窓ガラスに目を向けると、そこには確かに頭を包帯で巻いた記憶より少し年を重ねたように見える俺が映っていた。
どうやら、彼と俺は親友だったようで事故に遭う前からよく会っていたらしい。出会ったのは大学の入学式で隣で、それからずっと仲良くしていた。
所々言葉を詰まらせながら教えてくれる彼に、申し訳なさが降り積もっていく。
今の俺の年齢はどうやら二十四らしい。大学を卒業してから二年。計算すると、彼とは五年以上の付き合いがある。なのに、今の俺は彼と積み重ねてきたはずの思い出がひとつも思い出せない。五年以上共にいた親友を突然失うというのは、計り知れないほどの寂しさがあるのだろう。
そんなこちらの心境を感じ取ったのか、彼は強い口調で言い放った。
「お前が悪く思うことはひとつもないからな。今はお前が無事社会復帰することが一番だ」
「でも、俺たちの大切な思い出を君しか覚えてないなんて寂しくない?」
「…別に、たいした思い出なんかないさ」
また眉を崩した笑い方をする彼に、とりつく島もなくて途方に暮れる。彼はきっと、俺のことを思ってわざと突き放すような発言をしている。どこまでも優しい人だなと思った。
「…なら、新しい思い出をたくさん作っていこう」
「え?」
きょとんと目を丸くする彼に、語りかける。大きくなった黒い瞳は、こちらを飲み込むような独特な煌めきを持っていた。
「俺が忘れちゃった分より、たくさんの思い出を作ろう」
彼はしばらく目を見開いていたが、瞬きを数回繰り返してようやく表情を変えた。
「はは、お前らしいよ」
からりと笑った彼は、どうにも俺の言葉を信じているようには見えない。俺の言葉には答えずに、また彼は笑ったのだ。そんな彼の様子になんとも言えない気持ちが溢れたが、それが音になることはなかった。
どうにかして、この重い沈黙を切り裂こうと模索する。しばらくシーツと俯いた彼の横顔とを視線を行き来させて、ようやく出てきた言葉。それが今の現状に完全に不相応であることはわかっていたが、それ以外思い付かなくて、引きつりながらもとうとう口にしてしまう。
「君の、名前を教えてくれる?」
彼は先程とは少し違う笑みを浮かべる。まるで、今年も蕾を開かせた桜を見つめる時のような、自然な笑顔。その笑顔の方が彼にはよく似合っていて、彼の本当の姿を垣間見たような気がした。
くしゃりと笑いながら、彼は丁寧に言葉を紡ぐ。
「俺の名前は―――」
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