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 一面の白い花畑の中で、私は誰かと倒れていた。

 むせかえるように濃厚な花の香り。その甘い香を不快に感じ、頭が重く痛む。

 起きあがろうとしたが、それは叶わなかった。
 私の上には、誰かが覆い被さっている。 ちょっと苦しい。
 その上マントで包まれて、口元にはハンカチが当てられている。私はハンカチを口元から離し、深呼吸した。更に新鮮な空気を求め、抱き締められた腕から脱れようと抗った。
 しかし抜け出す事が叶わず、力尽きそうで目眩がした。


「おおーい、大丈夫か~?」
 少し離れた所に馬車が止まり、口元を布で覆ったおじさんが話しかけてきた。

 私は動けずに手だけ出して振ると、おじさんが助けてくれた。


 私と『誰』かは親切なおじさんに、街まで連れて来られて治療を受けた。
 私達は打撲と、花粉を吸い込んだ症状の治療をされた。

 助けてくれたおじさんは、行商であの道をよく通るらしいが、あの花畑の側道は、花の開花時期10日ほど危険な場所だと説明された。

 時々この土地以外の旅人が倒れていることがあって、助けることがあるそうだ。


「あなたの名前は?」
 街医者が、私に質問した。

 ーー私の名前…?

「連れの人の名前は分かるかい?」

 私と一緒に倒れていた人の事を聞かれた。

 一緒に倒れていた人は、若い男性で今はベッドに寝かされていた。

 頭が重く、視界も少し歪んでいる気がした。まともに何か考えられる状態ではないようだ。そのせいなのか、彼の顔を見ても全くピンと来ない。 

 私は自分の名前も、彼の名前も分からなかった。

 街医者の先生が言うには、彼は私を庇って私よりも花粉を吸ってしまったので、暫く目が覚めないのだろう、という診断だった。

 私達が倒れていた花畑は「忘れ草」と呼ばれる見た目は可愛い小さな花の群生地で、花粉を吸った人の記憶を強烈な眠気と共に奪ってしまう、花が開花する期間だけではあるが、地元では有名な危険なスポットだったらしい。

 特に夜は一斉に花が開き花粉が撒き散らされるので、通ってはいけない。
私達はそんな夜に、その花畑に踏み込んでしまったらしい。

 花が咲く頃は誰も近づかないようにしているのだが、時々不用意に入ってしまった旅人が被害に合うそうだ。
記憶が戻るのは、吸った量の違いや個人差で一定しないらしい。

 こういう人が時々いる為に、この街には花畑の被害にあった人を、受け入れる用意があった。

 私と誰かは空いている家を借りて、街の仕事を手伝いながら生活をして、記憶が戻るのを待つことになった。

 見知らぬ男女かもしれない2人が、ひとつの家? と思ったが、空いている家が一軒しか無かったことと、私達を助けてくれたおじさんが言うには、私達は夫婦ではないか?という。

 兄弟と言うには似ていないし、他人と言うには倒れていた時の密着度が他人では無い! とても大事そうに、私を包んで倒れていた彼を見るに、絶対に夫婦だろう、そこに愛がある。とおじさんは自信を持って言うのだ。
 違っていたら無責任この上ない発言なのだが、おじさんの言葉に強く推されて、気が付けば話がまとまっていた。

 私は夫(仮)と1つの家で暮らすことになった。

 彼は1日ほどで目を覚ましたが、やはり何も覚えていないようで瞳は虚だった。
 私と彼は、街の人達にお世話になりながら、生活をしていく事になった。 
 度々様子を見に来てくれ、気にかけてくれる街の人は優しく、面倒見の良さはこの街に住む者の気質なのか、温かさや気遣いが嬉しかった。

 最初は私も彼も花粉の影響なのか、会話も無くぼーっと過ごしていたが、数日すると徐々に意識がはっきりしてきた。

 意識がはっきりしてくるにつれ、私は彼を異性として、意識して行くようになった。
 よくよく見ると彼はとんでもなくイケメンだった。かっこいい。記憶はないが私の好みにとても合致しているのかもしれない。物凄く好みだ。好き。

 長身で手足も長く、筋肉質だが細身な体躯にサラサラ赤銅色の髪。瞳も同じ色で鼻筋の通った端整な顔立ち。意識してしまうと、彼の一挙手一投足、全てにドキドキと胸を高鳴らせてしまう。それまではカーテン越しに寝たり着替えたりしていた事が、凄く恥ずかしく思えてきた。

 彼が私を見詰めて、微笑んでくれる。それだけで頬が熱くなり、幸せ過ぎて気を失いそう。



 私達の体調が良くなる頃、街の人達の協力の元、街でお仕事を手伝いに行き、生活費をいただくことになった。
 色々経験して出来そうな事を、やってくれれば良いと言って貰えた。

 農家の収穫を手伝ったり、力仕事をして帰って来る彼。
 私は刺繍が出来るようだったので、雑貨なども扱う洋品店で手伝いをした。

 彼が仕事の後に、洋品店まで迎えに来てくれて一緒に帰る。他愛も無い今日あった出来事を2人で話しながら歩くだけだが、仕事の疲れを忘れてしまうくらい楽しく思えた。こんな風に誰かと笑い合い歩く。何だかこんな生活に憧れていた様な気がして嬉しい。

 家では当たり前の様に家事をしてくれ、よく働く彼に比べ、私の出来る事は少なかった。
 私は良い家のお嬢様だったのか、着ていたドレスはそれなりの高級な物だったし、家事は全く出来なかった。私は貴族だったのかもしれない。

 私も早く家事に慣れて、彼の為に出来る事を増やしたい。彼に喜んでもらえる様に料理も覚えたい。それを伝えると、私を気遣う言葉をかけてくれ「2人で一緒にやろう」と優しく微笑んでくれた。

 こんなにステキな人が『自分の夫』と思うだけで、私の心は大きく早鐘をうち、まるで世界中から祝福されたような幸福感に包まれてしまう。 優しい赤銅色の瞳を向けられると幸せで、それでいて恥ずかしくて彼を直視出来なくなってしまう。

 自分の姿を鏡で見ると、金の巻き毛に淡い紫の瞳。明るい色味ではあるが普通の少女だ。背は低めだし、やや細めで肉付き少ない体型に特別な美人ではない、可愛いとも言えなくも無い顔。
 鏡の前でにっこり笑ってみる。一応可愛い? 自分の欲目かもしれない。

 もっと魅力的な容姿をしていれば良いのに……溜息が出てしまう。
 困った事に私には、彼のようなステキな人が夫となってくれる魅力が無いのだ。

 もしかして私達って夫婦では無い……?

 そんな事が頭を過った。

 夫婦と決めつけてくれたおじさんの言葉は何の保証も無い。
 今だって、夫婦という体で一緒に暮らしているだけなので、ベッドも別だし本当の夫婦とは違うという事は、鈍い私にもちゃんと分かっている。名ばかりの『奥さん』なのだ。

 それでも現状が幸せ過ぎる私は、彼の記憶が戻るまでは、私は何かを思い出しても、黙っていようと心に決めた。
 だって彼ほど素敵な男性ならば、恋人がいたかもしれない。最悪本当の奥さんがいるかもしれない……

 もし私が彼の奥さんじゃ無かったとしても、今ここで生活をしている間は、私は彼の奥さんでいられる。
 お互いの過去が分からない不安もあるが、それよりも私は彼と一緒にいられる今が良い。このままずっと一緒に暮らしていけたら……記憶なんて戻らなくても良い、自分勝手かもしれないがそんな考えになってしまう。

 だから何を思い出しても、気がつかないふりをしよう。

 ーーー少しでも長く、彼と穏やかに暮らせる様に……
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