時計台がある街の中で

山本 英生

文字の大きさ
上 下
4 / 6

最後に残ったのは、

しおりを挟む

 そして、その3日後に、彼は、私の前から姿を消した。その夜、私は、私たちの記念時間の10時15分を祝うために作ったチーズたっぷりの野菜グラタンと、一羽丸ごとの七面鳥を、彼のいないダイニングテーブルで、普段の倍以上の時間をかけて食べ進めた。当然、食欲はなかった。食道が、小指より細くなった感じで、一飲み一飲みが苦しかった。しかし、この絶望を乗り越えるには、食べなくてはいけないような気がしてならなかった。そのため、私は、それらをワインで流し込んでいった。胃が、それらを、嘆くような音を立てて消化していった。

 食事中、テーブルに置かれた懐中時計は、10時15分を示し続けていた。いくら食べても、いくら嗚咽しても、いくら祈っても、時計は、10時15分のままだった。それが意味するのは、決して幸せなんかではなかった。私だけ、この時間に取り残されたような、そんな孤独感に、私は継続的に襲われていた。

 ファーブノルル・グエンスト、彼は、私が故郷を離れてできた、初めての恋人だった。私が働かせてもらっている、ヴィースおばあさんが経営している小さな本屋の常連だった。彼は、そこに仕事帰りによく立ち寄る、ハットとコートとステッキ(どれも少し緑がかっている)がとても似合う、華やかで、穏やかな男性だった。時間があれば、レジに座るおばあさんと立ち話をした。その中で、彼は徐々に私との距離を縮めてきた。あの子、寂しそうだから、仲良くしてあげて、とおばあさんが裏で糸を引いていたことは、間違いなかった。

「この絵本、君が描いたんだって?」

 私が戸惑っていると、彼が、「おばあさんから聞いたんだ。それにここの作者名、君のネームプレートの名前と、一緒だ」と私の胸元につけられた名札を指さした。これが、私と彼とのファーストコンタクトだった。店で働いている以上、彼を見かけることは多々あったが、彼の視線、声、意識を独占するのは、これが初めてだった。目は、想像以上に柔和な印象を含み、声は、想像以上にダンディだった。緊張で、私は、彼の顔をうまく見ることができなかった。

「とても興味深い物語だったよ。大人も、考えさせられる」

「とんでもございません。ありがとうございます」

「『時計台の中のネズミたち』。タイトルも素敵だ。あの、もしよかったらこの後、すぐそこのカフェで少しお話でも」

「とてもうれしいお誘いなんですけれど、その、私にはまだ仕事が残っていて……」

「そうか」

 落ち込む彼の後方から、おばあさんが、「アイリンちゃん、あんたの今日の残りの仕事は、この常連さんの接待だよ。さっさと、行ってきな」と眼鏡のレンズを磨いていた。そんなの申し訳ないです、と抗議しようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれず、延々と眼鏡の手入れをしていた。

 そのようにして彼は、私を近くのカフェに誘い、ランチに誘い、ディナーに誘った。そして、そこから私たちは交際に発展していった。

 その後、私は、彼と5年ほど時間を共にした。しかし、最後に残ったのは、絶大な孤独感と、止まったままの懐中時計と、私をここへ弾き出したあの街と私との間にあった形容し難い反発力の余韻のようなものだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

元婚約者様の勘違い

希猫 ゆうみ
恋愛
ある日突然、婚約者の伯爵令息アーノルドから「浮気者」と罵られた伯爵令嬢カイラ。 そのまま罵詈雑言を浴びせられ婚約破棄されてしまう。 しかしアーノルドは酷い勘違いをしているのだ。 アーノルドが見たというホッブス伯爵とキスしていたのは別人。 カイラの双子の妹で数年前親戚である伯爵家の養子となったハリエットだった。 「知らない方がいらっしゃるなんて驚きよ」 「そんな変な男は忘れましょう」 一件落着かに思えたが元婚約者アーノルドは更なる言掛りをつけてくる。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

家に帰ると夫が不倫していたので、両家の家族を呼んで大復讐をしたいと思います。

春木ハル
恋愛
私は夫と共働きで生活している人間なのですが、出張から帰ると夫が不倫の痕跡を残したまま寝ていました。 それに腹が立った私は法律で定められている罰なんかじゃ物足りず、自分自身でも復讐をすることにしました。その結果、思っていた通りの修羅場に…。その時のお話を聞いてください。 にちゃんねる風創作小説をお楽しみください。

処理中です...