時計台がある街の中で

山本 英生

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彼女は、本当は、あなたと同じ時間の流れの中にいちゃいけない存在なんだ

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 誰か一人に、一つだけ質問ができるという、特別なチケットがもらえるとしたら、私は、イヴに質問したい。イヴってのは、もちろん、アダムとイヴのイヴよ。そう、あのイヴ。そのチケットには、よく見るとね、《生死、また、現実・非現実問わず》ってあるの。だから、彼女もしっかり対象に入っているってわけ。

 物語の多くは、そういったif(イフ)を起源として形成されるのよね。だから、この話は、私の元にそのチケットが届くところから始まるの。始まりとチケット、なんとも絶妙な組み合わせ。サーカスに、映画に、コンサート。どれも、観客はみな、まずチケットを手に握る。それがなくちゃ、先には進めない。

 ほら、郵便配達員が私の家のポストに、そのチケットが入った封筒を入れて、次の家に自転車をこいでいく。それは、心地よい風が吹く晩夏の宵の口で、開けた窓からは、金星の勇猛な輝きが覗ける。草の影に隠れた虫たちは、まだじっと鳴き出すタイミングを見計らっている。郵便配達員の軽快な口笛も聞こえなくなり、束の間の静けさが、私に、自身の孤独さを痛感させる。自ずと食事のペースが速くなる。身体の中にできた空洞を、急いで埋めんばかりにあまり噛まずにどんどんと飲みこむ。喉に詰まれば、ワインで流し込む。私は、届いた手紙の存在をついつい忘れてしまう。少しお酒を飲み過ぎたせいで、ベッドに向かうのも、普段より早くなる。そのため、ポストを開くのは、その翌朝ということになる。

 チケット裏に書いてある、街はずれの空き地に建てられたプレハブ小屋の会場に行くと、外で、もりぎの男が、私に、「誰に問う?」と訊いてくる。男は、レモン色のポロシャツに、グレーのチノパンを履いており、いかにも寝不足のだるそうな目をしている。私は、そんな男の目を見つめて、「イヴよ。アダムとイヴの」と答えるの。男が、昨日の夕食の内容を思い返すように、少し考え込んでから、難しそうな表情を浮かべて頷く。それから、小屋の裏に回って、しばらくすると戻ってくる。そして、追加の料金が必要だって言うの。だから、私は、仕方なく払うの。だって、チケットの裏の彼の指さす先には、小さな文字で『イヴは、現代人に非常に人気のため、手配料金をいただきます』とあったんだもの。それが後から書き加えられた文字で、インクが完全に渇いていなくて、彼の指先に黒くついていたとしても、ね。彼女が人々に人気だってことは、知っていたことだし。

 小屋に入ると、そこには小さなテーブルと、椅子が二脚。まるで、刑務所の取り調べ室みたいなの。ただ、そんな殺風景な空間に、一つだけ、真っ赤な布のパーテーションがぽつんとある。筒状のそれは、中に誰かいるらしく、中の人の呼吸に合わせて、小さく揺れている。背後のもぎりの男の声掛けで、カーテンが開き、一人の女性が出てくるの。金髪で、裸で、下の大事なところを葉っぱで隠しているの。まさに、イヴよ。でも、イヴが、メタボリックシンドロームだったってことは、予想外。まあ、イヴにもいろいろあるのね。

「こんにちは、イヴ。元気?」

 そう言うと、もぎりの男が、「それが質問?」と眉根を寄せる。私は、慌てて首を振る。「いいえ、これは質問なんかじゃないわ。これはただの挨拶。コミュニケーションよ。そうよね? イヴ。なんて聞いたら、これも質問になっちゃうわけ?」と、焦りに焦る。男は、呆れに呆れる。正面に座った大きなお尻のイヴは、椅子が小さくて大変そうなの。それに笑顔が切なくて。なんていうの、その、何かしら恵みたくなる感じの子なの。だから、私は、帰り道に食べようと買ってあったチョコバーをあげるの。当然、「果実じゃなくて、ごめんなさい」って言いながらね。正直、私も食べたかったけれど、彼女が、おいしそうに一口で食べてくれたから、いいとするわ。

「何を問う?」

 もぎりの男が催促するの。私は、前日に私が考えに考え、できあがった質問、それが書かれた紙を、財布の中から取り出す。64つ折り(そうでもしないと財布に入らなかった)にした紙を広げていく。もぎりの男も、メタボのイヴも、怪訝そうに、私の一挙手一投足に目を見張る。そして、私の質問が、私の目前で明らかになる。そこには、こうあるの。『果実の味は?』

「あの果実は、どんな味がしたのかしら? ほら、あなたが食べたとされる、アレよ」

 そう問うと、彼女は、奥歯に挟まったチョコレートを舌先で取りながら、考え込む。本当に当時のことを思い出しているかのように、とても長い時間が過ぎる。そして、彼女は渇いた唇を、舌で舐めてから、ゆっくりと口を動かす。自信なさげに「苦くて、甘かった」と言う。「あなたがくれたチョコバーみたいに」と微笑みを浮かべる。それから、すぐに立ち上がる。

 苦くて、甘かった。——私は、心中で繰り返す。

「私も、同じ味を知っているわ。——だって、私も、そのチョコバー大好きだもの」

 そそくさとカーテンを閉じるイヴに、最後にそう伝える。それに対して、イヴは不憫な微笑みを浮かべる。それで、私とイヴの、最初で最後の遭遇が幕を閉じる。

 その後、もぎりの男に追加料金をせびられるの。どうしてって首を傾げると、彼は「彼女は、本当は、あなたと同じ時間の流れの中にいちゃいけない存在なんだ。でも、こうして、僕がなんとかつないだんだ。簡単なことじゃない。時間の規則を逆らっている。とても危険な行為さ。だから、それなりの対価を支払ってもらいたい」と言う。理解しがたいことだったが、いろいろと面倒は嫌だから、私は、彼の言いなりにする。自暴自棄気味の私は、もうお金なんていくらあっても無駄だわ、と彼の望む分以上の額を出すの。多いと多いで、罪悪感からか、彼はなかなかお金を受け取らない。最終的には、私は、怒鳴り、お金をばらまいて、空の財布を投げ捨て、その場を後にするの。

 帰り道に、雨が降り出す。生憎、お金がなかったから傘は買えない。近くのカフェの軒下で、雨宿りをすることになる。店員に、席を案内されそうになるも、私は首を振る。メニュー表を広げられるも、私は首を振る。温かいコーヒーでもいかがですか、と唆されるも、私は首を振る。「私は、コーヒーに用はないの。あるのは、あの雲の向こうの太陽よ」と言うと、店員は不満そうな顔を見せて、二度と私に声をかけなくなる。それから私は、灰色の雲が広がる奥の、遠のいていく青空と、地に降り注ぎ続ける雨を眺めながら、ふと、もぎりの男に言われた言葉を思い返す。

 彼女は、本当は、あなたと同じ時間の流れの中にいちゃいけない存在なんだ。
 
 奇しくも、それに似た言葉を、愛していた人に言われたことがあった。確実なこととして、その人は、あのもぎり男ではなかったし、その人は、私のために規則を犯し、時間を超えて合いに来てくれていたわけでもない。彼は、私と同じ時代を生きるただの人間だった。そして、その言葉は、私の30代後半の、人生のテーマのようなものでもあった。
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