勇者と狼の王女の新婚生活

神夜帳

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第1部 勇者と狼の王女

第9話 女の勘

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何もない空間――。

僕は、大学の1限の授業を受けようと…眠気まなこをこすりながら、1人暮らしのマンションのワンルームの部屋から出ようと、玄関のドアを開けた。

夏の強い日差しがドアの隙間から差し込んできて、ドアを開けきると、しばらく視界が真っ白になった。

そう思っていた。

何もない空間――。

本当に何もない。真っ白な空間。

おーい、誰かいませんかぁ。

すると、目の前の空間が歪み始め、やがて――。

風も吹いていないのに、ゆらゆらと金色の長い髪をなびかせて、男を誘惑するに十分な美しいプロポーションの身体と綺麗な顔を持ちながら、どこか芸術品のようで、性的魅力は微塵も感じない女が現れた。
目はややたれ目で優し気でいながら、その瞳は情熱に燃えるがごとくルビーのように赤く輝いていた。
口元は、穏やかに微笑んでいるが…どこか、人工的な香りがする。

「ソラ…勇者ソラ…。私は女神エルセフィーネ。あなたのような存在をずっと待っていました。今、この世界イグフィニシアが魔王の脅威に晒されています。貴方の力をもって、どうか、多くの仲間たちを見つけ、縁を結び…この世界を魔王の脅威から救ってください」

「え?」

「いきなりこんなことを言われても、困惑するのは無理もありません」

「どういうこと?夢?」

「夢ではありません」

「僕が勇者?あぁ、異世界転移ものってことかな?それとも僕知らないうちに死んじゃったの?異世界転生もの?」

「あなたが親しむ文化に置き換えるならば、異世界転移と言うべきでしょうね」

「は?拒否権は?」

「もう既に転移は終わりました。本来ならば、私があなたにこうやって姿を現して語りかけることも、他の神々から怒りを買う行為…。それをこうして姿を晒したことが、私なりの誠意です」

「いやいや。剣と魔法の世界ってこと?」

「はい」

「ははは。それは凄い。本当に異世界転移ってあったんだ。剣と魔法の世界を冒険するか…ちょっと興味は湧くけれど…えーっと、いつでも元の世界に帰れるのかな?最近はそういう作品もあるみたいだけど」

「帰れません。転移は既に終わっています」

「はぁ?魔王を倒しても帰れないの?」

「はい。残念ながらあなたの世界からこちらに転移させることはできても、こちらの世界からあなたの世界へ転移させることはできません。なぜなら、あなたの世界は魔力の濃度が薄く、世界を跨ぐ転移魔法の座標を固定することすらできないからです」

「座標を固定できないなら、どうやって僕を捉えたのさ?」

「あなたは特別なのです。勇者の素質を持つものよ」

「いや、嘘だね。座標を固定できないというのなら、誰でも良かったんだろ?適当に拾ったんだ。手が届いた誰かを」

「違います。あなたが必要だったからです」

「なら、帰れる方法もあるだろ」

「残念ながらありません」

「はぁ…」

「時間がありません。あなたには本当に申し訳ないことをしたと思います。私を恨んでくれてかまいません。ですが、私はこの世界を消したくなかったのです。どうか…勇者よ…どうか」

女神の姿が段々と薄くなり、白い空間もだんだんと、知らない建物や道、見たこともない中世ヨーロッパ風の城を映し出すようになり…。

気がついたら、ある王国の首都のど真ん中に放り出されていた。




女神の姿を再び見たとき、出会ったときの記憶が蘇えった。
今思い出しても、理不尽すぎる。あれから、急に無一文で放り出されて、どれだけ苦労したと思っているのか。
言葉がわかり、文字も読み書きはできるようにされていたが…。
平和な日本で生きてきた若者に、いきなり戦えと言われても、はいそうですかと戦えるものではない。

「女神…。魔王を倒した時にすら姿を見せなかったお前が、今さらどうしてこんなところで?」

僕の殺気に満ちた睨みを受けても、女神の表情は変わらず穏やかに、口元は微笑みをたたえている。
真っ赤なルビーのような瞳が、僕を見ているのか、マリーを見ているのか、はたまたどこか遠くを見ているのか…全く、神ってやつは…。

「本来、神が直接世界に干渉するのは禁忌なのです。魔王を倒してくれたあなたに感謝の言葉を述べることすら難しい状況なのです。あなたの怒りはもっともです。申し訳ないことをしていると思っています」

「…一体、今回はどんな用件なんだ?」

「まずは祝福を。あなたがたの結婚に祝福を」

「はぁ。ありがたくて涙が出ます。女神様」

女神が手をこちらにかざすと、黄金のキラキラとした光が2つ、こちらにやってくる。
あまりに眩い光に、思わず手をかざし目を細めてしまう。

「私なりの感謝の気持ちです」

女神がそう言うと、光り輝く2つが指輪の形となり、僕の手に収まった。

「あなた方二人が、今後何かをするにしろ、有名になりすぎたその姿では何も踏み出せないこともあるでしょう。そんな時は、その指輪をはめて魔力をこめなさい。あなたがたを、あなたがたとは認識できない姿に変異させるでしょう」

「変装道具ってことか。結婚祝いにこんなものくれるとは、僕達に何をさせようっていうんだ?」

「まだ、この世界には様々な不安定要素が存在します。私達はあなたの力を欲しています。これからも、世界の均衡を保つ働きを期待します」

「まだ、僕に戦えっていうのか?もう、いい加減次の勇者に交代してもいいだろう?魔王を倒したんだ。交代するには十分な働きだと思わないか?」

「新たな芽吹きは感じます…。ですが、まだ育つには時間がかかります…勇者ソラよ…どうかこの世界をこれからも救ってください」

「なぁ、本当に僕は元の世界には帰れないのか?」

「帰れません。帰る術がないのです。結婚した今、元の世界への帰還を望むのですか?」

「…聞いてみただけだ。僕はマリーとこの世界で生きる。あんたにこんなことを言うのは、なんだか癪だけどな」

「ありがとう…ありがとう」

そう言うと、女神はきらきらと輝く涙を一滴流すと…徐々に姿が透けていき、やがて消えていった。

残された地下空間では、怪しい紫色の輝きも消え、僕達が持っている照明魔道具の光だけが辺りを照らしていて、鏡ようなものは半分に割れていた。

「今のが女神様?旦那様をこの世界に連れてきた?」

マリーが兜を脱いで、僕を心配するような表情で見つめながら言った。

「そうだ。随分勝手なものだ。神々からしたら僕達の存在なぞ、本当に蟻んこのようなものなんだろう」

「…なんだか、圧倒されてしまって…何も言えませんでした…」

「まぁ、腐っても女神だしな。僕は異世界人だからそうでもないが、マリーからしたら自分の世界の管理者なわけだから、何か感じるものは僕とは違うだろう」

「…いえ、そういうものとは違うというか…うーん」

マリーが首をひねって考えているが、任務は完了だ。
こんなところには長居したくない。帰るとしよう。




私の初めての冒険は無事終わり、冒険者ギルドにその成果を…女神のことは除いて報告した後、いつものように旦那様と夕食をとった。
旦那様は、ずっと表情が硬くて…。

「ごめん。マリー。なんだか疲れた。先に休ませてもらうよ」

そう言って、いつもよりずっと早くベッドに潜られてしまった。

今までの色々な想いがきっと噴出して、それが旦那様の心をすり減らしてしまったのだろう。

私はなんて臆病な人間なのだろう。
勇猛果敢な黒狼族の王女であるというのに、女神の姿を見て、旦那様の疲れ切った顔を見たとき…今こそ甘やかす時なのに…私は、旦那様が寝室へ向かう足取りを黙って見守ることしかできなかった。

彼が背負わされた重さと、今までに積もりに積もった想いを想像すると、迂闊に心に踏み込むことが躊躇われて…。

今、私は、照明魔道具の明かりが照らすリビングのソファに一人で座って、あの神殿の地下の出来事を思い出している。

女神エルセフィーネ。
この世界を管理する女神。
誰もが知るこの世界でもっとも有名な女神。

その女神の表情は、常に穏やかで…、また、その口から紡がれる声は優しくて心地よく…。
一筋の涙を流した時は、その透明感溢れるその涙と…神聖でありながら、全ての存在を慈しむ母性を感じた。

だが、それと共に、私も腐っても女だ。

女の勘が告げている。

あの女神は嘘をついている。

あの時流れた涙は、計算された涙だ。
しかも、粗雑に…この場で涙を流しておけば、そこまで踏み込んではこないだろうという、私達の存在を舐め切った計算による涙に感じた。

相手は、神なのだから、私達の想像もつかない理屈で動いているのだろう。
私達も想像もつかない決断をいくつも強いられているに違いない。
だが、相手が「女」神であるならば…その女の部分がなにかおかしいのは私にもわかる。

私は、あの女神が涙と共に徐々にその姿を消そうとした…その一瞬。

旦那様には、理不尽ながらこの世界を憂う女神に見えているようだけど…。

私には、この世の理を乱すもののけに見えた。

なぜそう見えたのか?

それは、私の粗末な女の勘だとしか言えない…。

だが、間違いない。

あの女は嘘をついている。

どの部分が嘘なのか?

涙を流したタイミングからして…旦那様が元の世界に帰れない…その部分が嘘な気がする。
だが、そうは言っても、あの女神は魔王が倒されたときにすら現れなかったという。
それは、世界に直接干渉することが禁止されているから、そして禁を犯さないか他の神々に監視されているから…。
ならば、もう私達が生きている間には、現われないかもしれない。
もう現われないのならば、この件をいくら考えても仕方がない…。私達がどう幸せに暮らしていくかを考える方が現実的だろう。

そう私が思っていると、ドアが小さくノックされた。
本当に小さく。狼の耳でようやく聞こえる程度の小さなノック。

しかし、なんとなく…私はそこに誰がいるのか分かった気がした。

汗が一筋、額から頬をつたわっていくのを感じながら、それでも堂々とゆっくりとドアに歩み寄り、そっとそれを開いた。

目の前には、神聖な空気こそ纏わず、服装も至ってこの地のちょっと豊かな人々が着る服を身にまとっているが、だが、見間違えるはずもない。
昼間に出会ったばかりの…。

女神エルセフィーネがそこにいた。

ほらみろ。

やっぱり嘘じゃないか。

私は、心の底から少しずつ湧いてくる怒りを冷静に処しながら、にこやかな微笑みを顔に張り付かせて言った。

「女神様、こんな夜中に何の御用でしょうか?」

女神は、それはそれは優しく微笑んでから小さく頭を下げた。
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