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第5話 チバロの翁
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ゆかりがセダンの車内から、あるマンションの窓を見つめている。
時刻は夜の21時30分。
夜空には満月がこうこうと輝いている。
斎藤大地と人間の姿で出逢う夜。
「ゆかり。お前は、獣だ。今となっては身体は大人の女性のものと遜色ないが、それでも獣だ。獣は、人間を傷つけてはならない。わかっているな?」
外の街灯の明かりだけ差し込む薄暗い車内で、後部座席に白無垢姿で座っているゆかりに、運転席の男が低い声で話しかけた。
ゆかりには男の本当の名前もわからない。
周りの者から時折、チバロの翁と呼ばれているのを聞いただけだ。
2カ月にわたる人間社会で生きるための最低限の教育の中で、この男が公安という組織にいる人間だということは知った。
この翁と呼ばれる男の一派が、獣達の管理をしているようだった。
「存じております。翁、今まで優しくしてくださってありがとうございました」
「なに。お前が孫娘になんとなく似ていたから……ちょっと情が乗ってしまった。だからといって、人間を傷つければ容赦はしない。そうはならないことを願っている」
「はい」
「調べてみたが、あの男は随分と恋人がいないようだ。現実に押しつぶされそうになっていて、癒してくれる女に飢えている。きっと、可愛くて男に都合の良い女が現れれば、夢中になることだろう」
ゆかりは翁のその言葉には沈黙で返したので、翁はそのまま言葉をつづけた。
「お前がどんな気持ちで、あの男と相対するのかは知らない。しかしな。ここまできたら俺はお前に幸せになって欲しいと思っているよ」
「心配しないで翁。うまくやるわ」
「そうか。収まるところに収まったら連絡をくれ」
「はい」
しばしの静寂。そして。
「あっ」
ゆかりの見つめる先で、暗闇に閉ざされていた窓がぱっと明るくなった。
「ふむ。帰ってきたな。いいか。あの男は珍しく泥酔しているようだ。あとは、わかるな?」
「はい……」
ガチャっと車のドアが開いて、白無垢姿のゆかりが降りてくる。
張り詰めた表情をしていて、口は堅く横に結ばれている。
「ゆかり」
いつもは「お前」と呼ぶ翁が、初めて名前で呼んだことにびっくりして、ゆかりは目を丸くしながら運転席に振り返った。
まるで岩と錯覚するようなコート越しでも鍛え上げられていることがうかがいしれる体、髪型は角刈りで顔は深いしわが刻まれながらも、若い頃はさぞ女にもてたことが容易に想像できる整った顔立ち。その翁が、にやりと笑って言った。
「ゆかりは、笑っていれば良い女だ。お前に意中の男がいなければ、俺が口説きたかったくらいだ」
場を和ますため、そして、ゆかりを励ますために、精一杯考えを尽くしたであろう、普段はぶっきらぼうな老人の意外な言葉に、ゆかりは思わず、横一文字に固く結んでいた口端をわずかに歪めて微笑んだ。
「ふっ。まだ固いが。まぁいいだろう。行ってこい」
「はい」
ゆかりは静かにマンションに入っていくと、目当ての部屋を目指して階段を登っていく。
階段を登りながら、ぶつぶつと何かを呟き続けた。
「斎藤大地。31歳。身長180㎝。体重70㎏。正確は真面目だが、現実にうちのめされてからは仕事をうまくサボるくせが出てきた。大学の時の恋人と別れてからは、ずっと一人。周りから新しい出会いを勧められながらふんぎりがつかない。好みの女性は、癒し系でいながら時折押しの強さを見せる人。甘えてくる女性に弱い。毎日の激務で家の雑事は何一つ進んでいない……」
ゆかりは、ぶつぶつと大地のプロフィールをおさらいしていく。
おさらいしながら、目当ての部屋の前までたどり着くと、深く息を吐き出す。
白無垢は想像以上に歩きづらかった。
なぜ白無垢なのか? そう翁に問うたら「異類婚姻譚は白無垢じゃないと」と言われた。
だが、はて?
鶴の恩返しも、雪女も、白無垢姿で男の前に現れただろうか?
なんだか、翁の趣味に付き合わされている気がする。
ただ、泥酔している男の目の前にいきなり猫耳の白無垢女が現れたら、全てが夢だと思うかもしれない。
いや、思ってくれないと困る。
ゆかりは、意を決してインターホンのボタンを押す。
ドア越しにピンポーンと音が聞こえてくる。
「さぁ、ゆかり。セリフを思い出すのよ。噛まないようにね」
ゆかりは、猫だった時、そして人間の体になったこの2か月のうちの嬉しかったことを一生懸命思い出して、微笑みを作った。
ガチャリ
ドアノブがまわった。
さぁ、愛しの旦那様。
今宵は身も心も捧げましょう。
時刻は夜の21時30分。
夜空には満月がこうこうと輝いている。
斎藤大地と人間の姿で出逢う夜。
「ゆかり。お前は、獣だ。今となっては身体は大人の女性のものと遜色ないが、それでも獣だ。獣は、人間を傷つけてはならない。わかっているな?」
外の街灯の明かりだけ差し込む薄暗い車内で、後部座席に白無垢姿で座っているゆかりに、運転席の男が低い声で話しかけた。
ゆかりには男の本当の名前もわからない。
周りの者から時折、チバロの翁と呼ばれているのを聞いただけだ。
2カ月にわたる人間社会で生きるための最低限の教育の中で、この男が公安という組織にいる人間だということは知った。
この翁と呼ばれる男の一派が、獣達の管理をしているようだった。
「存じております。翁、今まで優しくしてくださってありがとうございました」
「なに。お前が孫娘になんとなく似ていたから……ちょっと情が乗ってしまった。だからといって、人間を傷つければ容赦はしない。そうはならないことを願っている」
「はい」
「調べてみたが、あの男は随分と恋人がいないようだ。現実に押しつぶされそうになっていて、癒してくれる女に飢えている。きっと、可愛くて男に都合の良い女が現れれば、夢中になることだろう」
ゆかりは翁のその言葉には沈黙で返したので、翁はそのまま言葉をつづけた。
「お前がどんな気持ちで、あの男と相対するのかは知らない。しかしな。ここまできたら俺はお前に幸せになって欲しいと思っているよ」
「心配しないで翁。うまくやるわ」
「そうか。収まるところに収まったら連絡をくれ」
「はい」
しばしの静寂。そして。
「あっ」
ゆかりの見つめる先で、暗闇に閉ざされていた窓がぱっと明るくなった。
「ふむ。帰ってきたな。いいか。あの男は珍しく泥酔しているようだ。あとは、わかるな?」
「はい……」
ガチャっと車のドアが開いて、白無垢姿のゆかりが降りてくる。
張り詰めた表情をしていて、口は堅く横に結ばれている。
「ゆかり」
いつもは「お前」と呼ぶ翁が、初めて名前で呼んだことにびっくりして、ゆかりは目を丸くしながら運転席に振り返った。
まるで岩と錯覚するようなコート越しでも鍛え上げられていることがうかがいしれる体、髪型は角刈りで顔は深いしわが刻まれながらも、若い頃はさぞ女にもてたことが容易に想像できる整った顔立ち。その翁が、にやりと笑って言った。
「ゆかりは、笑っていれば良い女だ。お前に意中の男がいなければ、俺が口説きたかったくらいだ」
場を和ますため、そして、ゆかりを励ますために、精一杯考えを尽くしたであろう、普段はぶっきらぼうな老人の意外な言葉に、ゆかりは思わず、横一文字に固く結んでいた口端をわずかに歪めて微笑んだ。
「ふっ。まだ固いが。まぁいいだろう。行ってこい」
「はい」
ゆかりは静かにマンションに入っていくと、目当ての部屋を目指して階段を登っていく。
階段を登りながら、ぶつぶつと何かを呟き続けた。
「斎藤大地。31歳。身長180㎝。体重70㎏。正確は真面目だが、現実にうちのめされてからは仕事をうまくサボるくせが出てきた。大学の時の恋人と別れてからは、ずっと一人。周りから新しい出会いを勧められながらふんぎりがつかない。好みの女性は、癒し系でいながら時折押しの強さを見せる人。甘えてくる女性に弱い。毎日の激務で家の雑事は何一つ進んでいない……」
ゆかりは、ぶつぶつと大地のプロフィールをおさらいしていく。
おさらいしながら、目当ての部屋の前までたどり着くと、深く息を吐き出す。
白無垢は想像以上に歩きづらかった。
なぜ白無垢なのか? そう翁に問うたら「異類婚姻譚は白無垢じゃないと」と言われた。
だが、はて?
鶴の恩返しも、雪女も、白無垢姿で男の前に現れただろうか?
なんだか、翁の趣味に付き合わされている気がする。
ただ、泥酔している男の目の前にいきなり猫耳の白無垢女が現れたら、全てが夢だと思うかもしれない。
いや、思ってくれないと困る。
ゆかりは、意を決してインターホンのボタンを押す。
ドア越しにピンポーンと音が聞こえてくる。
「さぁ、ゆかり。セリフを思い出すのよ。噛まないようにね」
ゆかりは、猫だった時、そして人間の体になったこの2か月のうちの嬉しかったことを一生懸命思い出して、微笑みを作った。
ガチャリ
ドアノブがまわった。
さぁ、愛しの旦那様。
今宵は身も心も捧げましょう。
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