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序章
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しおりを挟む大手出版社、向陽社。出版業界の低迷もどこ吹く風。電子書籍の同時対応という現代の風潮に即した対応を即座にどの分野でも取ったおかげで右肩上がりとはいかないまでも他の出版社に比べればそこそこの業績を治めている。
そんな向陽社に勤めている社畜、もとい一人の女性編集者である小山内美琴が鬼の形相でパソコンの画面を睨みつけていたかと思えば、次の瞬間には全ての感情をそぎ落としたかのような能面面をしていた。
「……ねっむ」
(もう無理。眠すぎる……)
椅子の背もたれにぐでんともたれ掛かると、見慣れた天井が視界一面に入ってくる。目蓋が自分の意思に反し欲求に忠実であろうと閉じかけ閉じまいとプルプルと震えている。きっと今の自分を誰かが見たら、妖怪・白目女とかひっどいあだ名をつけられそうだが、早朝のこの時間にココに残っている人影はまばらだ。一番近い人でも一つ向こうの列でウンウン唸りながらパソコンのキーボードを叩き込んでいる。だからようはあれだ、バレなきゃ万事オッケー。よし、それでいこう。
あぁ、それにしても、このまま眠ってしまえればどんなに楽か。でも、今手掛けている雑誌のデータ校了締め切りはもう今日になってしまった日の正午。しめてあと四時間。そんな中、完成しているのは全体の七割強。馬鹿でも分かる。これで眠ってしまったら最後だ。
少しでも眠気を覚ます手伝いをさせようと、椅子の背もたれにもたれかかっていた背を勢いよく起こした。
自分のデスクの上に置かれた栄養ドリンクはもう全部空。しめて七本。この生活がかれこれ四年は続いている。もうとっくの昔によく栄養ドリンクを買うコンビニの店員のおばちゃんには顔を覚えられた。今では新作の栄養ドリンク情報を教えてもらう仲だ。
たまーにある休肝日ならぬ休ドリンク日には
「今日はドリンクいらないの?」
と、買って帰らないのをかえって心配されることもある。
十秒ほど現実逃避するかのようにその空の栄養ドリンク達を見た後、パソコンの画面に並ぶ文字を目をこすりながらもう一度追いかけた。後もう少し、もう少し頑張ったらこの苦行も終わる。
「終わったら丸光のうどん、終わったら丸光のうどん」
ギュルルウゥゥギュグルゥ
初対面の人にはいつも決まって驚かれる腹の虫が、宿主は疲労困憊にもかかわらず、朝飯はまだかと元気な唸り声をフロア中に聞かせた。これが入稿後から次までの余裕がある時期なら皆も笑い声をあげるが、今のフロアはある意味戦の真っ最中。誰もクスッとさえしない。
(……あー失敗した。終わった後のこと考えたら途端にお腹空いてきちゃった)
いい加減この追い込み時期の自分へのご褒美を食べ物から別の物へ変えるべきだと分かっているはずなのに、何年経っても変えられない。最近女を捨てていると言われがちではあるものの、物欲がないわけでは決してない。人並にブランド物のバッグや洋服だって欲しいし、新作のコスメだってチェックしたい。
ただ、実際ご褒美にと言われるとパッと思い浮かぶのがどうしても食べ物になるのは手掛けているのが旅行関係や食べ物関係の雑誌や書籍だからだろう。こうなるともはや職業病だと他人にも自分にも言い聞かせている。
お腹の虫がさらにボイスアップする前に黙らせようとデスクの引き出しを開け、奥をガサゴソと探る。確か、後輩ちゃんがくれた栄養補助食品があったはずだ。
「……えー、ないんだけど」
どんなに探しても目当てのものは出てこず、代わりに出てくるのは試し刷りした印刷物につけるポストイットの束やペン、取材先で出会った人達の名刺なんかだ。
そういえば、と若干思い当たる横のごみ箱を見てみれば、きちんとその中に投げ込まれていた。くしゃくしゃに丸め込まれたゴミとなって。
「おぅ、まじか」
飯まだかソングを高らかに歌い上げる腹の虫達VS.自分に残された時間の仁義なき戦いの火蓋が切って落とされ……ることはなかった。
「待っとれ、虫達。今、餌を買いにいってやろうではないかー。あっはっはー」
人間の三大欲求のうちの一つ、睡眠欲。それをゴリゴリに削らされているのだ。ここで食欲を満たしてやろうと動いても罰は当たるまい。
テンションは完全に徹夜明けのソレだ。一周と半分回っておかしいフリでもしてないとやってられないというのもある。
「ちょっとそこのコンビニに行ってくるけど、何かいる人ー?」
「じかんー」
「ネター」
「おかあさんのひざまくらー」
「コーヒー」
一応フロア全員に声をかけた。手をフリフリと振っていらないアピールする人達と、コンビニで購入不可なものを要求してくる頭のネジが飛んでしまった人達、辛うじて正常な理性を保っている人達の三パターンに見事に分かれた。
「了解でーす。じゃあ、ぱぱっと行ってきますねー」
実現不可能な要求をしてきた人達のリクエストはさらっと流すことにして、コートと財布だけ持って職場を出た。
「うぅ。朝焼けが目に眩しい」
買い物を済ませて出版社へ戻る最中、ビルの合間から上ってくる太陽が目に入った。
かの天空の城の大佐の気持ちがよく分かる。強い光は目に毒だ。
「……危ないっ!」
誰かの叫び声が聞こえてきた時にはもうトラックはすぐ真横まで迫っていた。目を細めて街中を歩いていたのがいけなかったのかもしれない。ただ、自分のなけなしの名誉のために横断歩道の信号は青だったと言っておきたい。
それでも、スピードから察するにきっと平常時でも避けることはかなわなかっただろう。とうてい自慢できるものじゃないけれど、雑誌の編集で全国津々浦々観光地を巡り美味しいものを吟味したために贅肉がたっぷりとついてしまっている。
ドンっと身体に衝撃が走り、数十メートル先まで飛ばされたのが分かった。身体のあちこちに走るあまりの痛みに、意識を飛ばしてしまいたくなるけど、周りに集まった人達がそれを許してはくれない。
「大丈夫ですか!? あと少し……病院……が……る」
完全に意識を飛ばせたのは救急車が到着して、病院に搬送される途中のことだった。
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