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プロローグ

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 月明りが煌々と辺りを照らしている湖の畔に、小さく蹲って湖面を見つめる影がある。

 目元には深い皺が刻まれ、口元にはくっきりとしたほうれい線が浮き出ている。瞳や髪の色は元の黒眼黒髪ではなく、澄み渡る海のような青い瞳に、月の光を受けてなお一層輝きを増すプラチナブロンドの髪。背筋はほんの少しだけ曲がり、背も心なしか低くなっているように思う。


 ……フフ、ウフフフフ。


 口元から自然と漏れ出る小さくもはっきりとした笑い声は少々不気味にさえ映るが、今はそれを見届ける者も側にはいない。

 その声の主はひとしきり笑い終えて満足したのか、急に立ち上がった。


「どこの誰だか知らないけど、神様。ありがとう!!」


 天高く両手を上げ、声高に叫ぶ。

 見た目にそぐわず、その声にはハリがあり、終いにはその場でルンタッタとスキップまでし始める始末だ。


 この不審者もとい声の主は御門みかど琴葉ことは。今年で二十八になる。

 家の都合で決められていた結婚をもうそろそろと迫られ、必死こいて勉強してなった医師をやめろと言われた瞬間、彼女はキレた。相手が職場でよく顔を合わせる先輩医師だったからなおさらだ。


(相手の歳が十も上なのは別にこの際気にしない。家と家だし、うちの方が立場が低いっていうのも分かってたわ。でも、仕事を辞める前提で結婚迫られるってなに!? 冗談じゃないわよ、あの男! なーにが君はただ家にいてくれればいい、よ! 寝言は寝て言えって感じだわ)


 結納の席からすたこらさっさととんずらし、店の外に出て信号を渡ろうとした時だった。

 信号無視のトラックが赤信号を直進してきて、身体に強い衝撃を受けたのは。

 跳ね飛ばされたと気付いたのは、遠ざかる意識の中、誰かが救急車を呼ぶ声がして、目の前の地面に自分のものらしき血が広がった時だった。


 それから気付いたらこの湖の湖畔であおむけに倒れていた。

 起き上がって自分の身体を見ると、まず着ている服が違う。結納の席に相応しく、高価な着物を着せられていたのに、今着ているのは裾がふんわりと広がった淡い紫のドレスだ。

 そして冒頭の湖面を覗き込んでいる場面に戻ることになる。

 湖面に映りこんでいたのは、元の自分とは似ても似つかない顔貌の老婆だった。


(……フフッ、フフフフ、アーッハッハッハ! やってやったわ! なんだかよく分からないけど、この姿ならもう結婚とかに縛られることもなく自分の好きなことをやれるじゃないの!! めざせ、ここでも医者!)


 ここが一体どこなのか分からないし、果たして元の世界の医療が通用するのかも分からない。

 それでも、やるなと言われるより断然マシだったようだ。

 気分も上向きで、心配事などひとつもないという風に意気揚々と前だけ向いている。


「さて、今日のところはここで野宿ね。といっても、火もないし、肉食獣とかでてきたら怖いわよね」


 当たり前だが、近くにマッチなんて便利な物は落ちていないし、火を起こせそうなものもない。

 ほんの少し気分がスルスルと下り坂になっていく。


(……うん。今まで気絶してたんだし、一晩くらい寝なくとも何とかなるわ!)


 落ち込んでいたのも数瞬のこと。実にたくましい性根の持ち主らしく即座に気持ちを切り替え、琴葉は寝ずに夜明けを待つことにした。


 そうなると考えることは自ずと限られてくる。

 まず頭に浮かんだのは、琴葉の義理の両親のことだった。

 琴葉がまだ幼稚園に通っていた頃に実の両親が交通事故で他界し、児童養護施設で暮らしていた時に今の両親に引き取られた。新しく両親となった二人は地元の年老いた資産家夫婦であった。
 子供ができなかった二人は琴葉を子供というより実の孫のように可愛がり、琴葉は何不自由なく育ててくれた。それでも決して甘やかしすぎるわけではなく、きちんとした礼儀作法を叩き込み、どこへ出してもおかしくないお嬢様が出来上がったわけだ。

 ……本人の性格が完全な温室培養のお嬢様とはなれなかっただけで。


(お父さんとお母さんには申し訳ないことしちゃったかなぁ)


 結婚しろと言われたら間違いなくイヤだと突っぱねる自信しかないけれど、それでも二人の表情が曇る姿はあまり見たくない。

 にも関わらず、結納からは逃げ、挙句の果てにはトラックに轢かれて死ぬ始末だ。

 これ以上の親不孝があるものか。

 願わくば、自分のことは気にせず、二人で少しでも幸せな余生を過ごしてほしい。たとえ離れていても二人の幸せを祈ることが、今の自分にできる唯一にして最大の恩返しだ。

 琴葉は僅かに目元に浮かんだ涙をぬぐった。


 その時、背後の草むらがざわざわと音を立てて揺れた。


(え!? ちょっと、ウソでしょ!?)


 恐れていた事態が起きたのかと、琴葉は身構えた。

 身構えてどうこうなるようなものでなくても、身体が自然に反応してしまう。

 ドレス姿だし、この老体でどこまで走れるかは分からないけれど、やれるだけのことはやろうと腰を上げ、いつでも逃げられるような体勢をとってその音の正体が現れるのを待った。



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