第二ボタン

ウマノホネ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

第二ボタン

しおりを挟む
「鈴。お母さんね、卒業式で好きな人から第二ボタンをもらったのよ」

母はまだ話し足りないようだったけど、私はフウンと関心ないそぶりを見せ自分の部屋に戻った。
窓越しに丘の桜の木を見た。雪解けが進み、もうつぼみが一斉に花開く準備をしている。
足元にすり寄ってきた猫のトムを抱え頭をなでた。

あの桜が満開になる頃、私と先輩は離れ離れになる。


卒業式がもう間近になったある朝、親友の愛と一緒に学校に向かっていた。私は何気なく母の話をしてみた。
「第二ボタン? そんな話あるんだ」
愛の視線を感じ、少し後悔して私は目をそらした。

その時、茶髪でブレザーを着た長身の男子生徒が、すぐそばで歩いていることに気がついた。先輩だった。胸が急激に高鳴る。目が離せなくなる。
「ふーん、翔先輩か、優等生の鈴がねえ」
いつの間にか愛がそばによってきてイタズラっぽく笑っている。

翔先輩は不良で、色々と悪い噂が絶えない人だった。だから、優等生だった私が彼を密かに思っているのが愛には面白かったのだろう。
からかわれるのが嫌で、違うから、と言いかけて私は息を呑んだ。

1人の髪の長い女生徒が先輩に飛びついて腕を組んだのだ。その瞬間、淡い朝の光が真っ暗に反転した。
「あの子、翔先輩の彼女って噂の子ね」愛の声がすごく遠いところから響いた。


それは、春風みたいな恋だった。

一年前の春、私は子猫だったトムを連れて桜の木の下に来ていた。その時、トムが私の手をすり抜け、桜の木に駆け上がってしまった。
揺れる枝に驚いて身をすくめているトムを助けようと、私は必死に周りにいた大人たちに声をかけまわった。でも、誰も見て見ぬふりをしていた。私が絶望の中にいた時、彼が現れたのだ。

ブレザーを脱いで私に放り投げると、腕まくりをして木に登り始める。ハラハラしている私たちをよそに、彼はあっさりとトムを捕まえた。

でも、トムを助けてくれたのが翔先輩だと分かり、私は身をすくめてしまった。
翔先輩の怖い噂をたくさん聞いていたからだ。でも、身動きできず、ただ見上げている私に、彼は強面の顔を綻ばせて、「大切にしろよ」と言ってトムを渡してくれた。受け取ったトムはなんだかあったかくて、私の心の中に彼の優しさまで届いた気がした。

あの時、喉から出かかったお礼の一言が言えなかった。その後、何度か先輩に会ったけど、いつも言葉は形にならず私の中で消えていった。


卒業式の日、皆は一様に泣いたり、抱き合ったり写メを取り合っていた。私は周囲を見回して、翔先輩の姿を探す。
「もう最後なんだからね」
校庭で桜が満開の中、愛は私に強い口調でこう言った。
「居たっ」
愛が指差した先に、背の高い翔先輩の背中が見えた。彼はまっすぐこの場を立ち去ろうとしていた。

せめて、最後にお礼の一言だけ
それだけを思って、私は先輩に向かって一直線に走っていった。

「翔先輩」
思ったよりも大きな声が出た。翔先輩はびっくりしてこちらを向いた。気がつくと彼の隣には彼女がいた。
その途端、私の中からまた言葉が消えそうになった。息が苦しい、胸が締め付けられる。

でも私は勇気を振り絞りこう叫んだ。
「第二ボタンをください」
自分の中から思いがけない言葉が出た。失敗した。ちゃんとあの時のお礼を言うはずだったのに。

先輩は驚いた顔をしていたけど、第二ボタンを引きちぎり、私の手の中に置いた。
「大切にしろよ」
翔先輩は、あの時のような笑顔を見せて彼女と立ち去っていった。


その夜、私はボタンを持って桜の所に来た。
桜の木はあの日みたいに静かに佇んで、私を見下ろしている。
一陣の強い風が巻き上がり、私を攫う。

舞い散る桜の花びらは空一面に広がり、やがて、霞んで消えていった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...