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第三章 エロール・ガーナー「ミスティ」

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 佐世保に来てはじめて参加した工業祭が終わり、翌日の午前中を使って後片付けと閉祭式が行われた。

 有栖川たち女子生徒が机やテーブルの片付けをして、俺たち男子生徒が機材の撤去と搬出をおこなった。

 搬入のときと同じく、東さんに出してもらった軽トラックにスピーカーやアンプを慎重に積んでいく作業は神経を使った。

 借りていた機材は大牟田先輩のクラスのものに勝るとも劣らないくらい高価なものなのだ。

 機材をすべて運び終わったのは、昼休みが終わりかけたころだった。

 おおかた運び終わったところでクラスメイトを教室に戻してひとりでやっていたのだが、結局こんな時間になってしまった。

 資料館の前にあるヤシの木の陰に腰掛け、さっき東さんにもらったペットボトルのスポーツドリンクを飲んだ。

 そこから見えるグラウンドでは、サッカー部が練習をしていた。

 空は高く、吹き抜ける風はすこし尖って感じる。

 有栖川が提案してはじめて採用されたジャズカフェは、なかなかの盛況ぶりだった。

 クラスメイトから「ジャズを聴いたのは初めてだったけど意外に良かったよね」という声も出てきた。

 もしや、これをきっかけにジャズを聴く人間が増えるのか!? 
 
 ──と期待したが、同時に「オヤジ臭い音楽だ」なんて感想を多くの生徒が口にしていたので、クラスでジャズが流行ることはないと思う。

 それでも有栖川は満足のいく結果だったらしい。

 喫茶店の繁盛っぷりに対してのものなのか、大牟田先輩の予想外の結末に対してのものなのかはわからないけど。

 あの騒動のすべての原因は、大牟田先輩の勘違いにあった。

 コヨミさんが想いを寄せていた相手は大牟田先輩だった。

 コヨミさんは工業祭でその想いを告げるつもりでやってきたのだ。

 彼女がよそよそしかったのは、ただ緊張していたからであって、はじめからひとりで来るつもりだった。

 それを先輩が勘違いしてレコードを持ち出さなければ、あんな騒ぎは起こらなかった。

 結局、大牟田先輩は俺たちに借りていたレコードを返そうと考えて紙袋を持ち出した……ということにした。

 大牟田先輩を疑っていたあの学級委員長は胡乱な目で先輩を見ていたが、俺や有栖川が説明したら渋々納得したようだった。

 妙な騒動に巻き込まれてしまったけど、結果的に大牟田先輩に貸しを作ることになったので良しとしよう。

 変な言いがかりをつけられることもなくなるかもしれないし。

 これで万事解決──と言いたいところだけれど、ひとつだけどうにも気になることが残っていた。

 巷に流れていた、ミスティの噂の件だ。

 結果的にコヨミさんと大牟田先輩もミスティを聴いて結ばれたことになるから、あの噂は本当なのかもしれない。

 だけど、発端のコヨミさんはあの噂をどこから聞いたんだろう?
 
 先程、東さんに聞いてみたけど知らないようだったし。

 ジャズに精通している人が知らないジャズの噂なんてあるんだろうか。

 ぼんやりとグラウンドを見ていたら、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。


「こんなところで何をしているんですか?」


 ひょいと顔を覗き込んできたのは、有栖川だった。


「ようやく搬出が終わったから、ちょっと休憩」

「そうでしたか。結構、時間がかかってしまいましたからね」


 有栖川がすぐとなりに腰を降ろす。


「教室の片付けはどうだ?」

「掃除まで終わりましたよ。いつもの味気ない教室に戻ってしまいました」

「それはよかった。もう店番する必要がないから安心だな」

「残念です。住吉さんの制服姿、結構似合っていたのに」

 
 苦笑いでその話は流すことにした。

 グラウンドから笛の音が風に乗って運ばれてきた。

 練習をしていたサッカー部がグラウンドの端に集まり、体をほぐし始めているのが見えた。


「ところで、大牟田先輩の件で聞きたいことがあるんだけど。例のミスティの噂、あれって本当だったのかな?」

「レコードを聴いた男女は、本当に結ばれるかってことですか?」

「いや、まあ、それも気になるんだけど……なんていうか、あの噂の出どころが気になってさ。東さんに聞いても、知らないっていってたし、コヨミさんは誰から聞いてきたのかなって」

「なるほど」


 風になびく髪を小指でかきあげながら、有栖川は笑顔で言った。


「ほんなこつ、音抜けの良か謎でした」


 いつものセリフ。

 有栖川は続ける。


「あの噂は、嘘ですよ」

「……え? 嘘?」

「はい。あんなジンクス自体、どこにも存在していません」

「で、でも、ミスティを聴いたら恋が成就した人間もいただろ? あの電気科の先輩とか」


 どうも胡散臭い感じだったが、ミスティを聴いてうまくいったと言っていた。


「あれも、嘘です。あの、軟派でしつこい先輩が、口裏合わせをしたんです」 

「口裏合わせって……誰と?」

「コヨミさんですよ」

「え」


 言われてしばし考える。

 だが、いまいち話がつながらない。


「噂の発信者は、コヨミさんだったということです。ミスティを聴けば恋がうまくいくという噂を作って、大牟田先輩の友人の間にひろめたんです」

「なんのために?」

「最初、大牟田先輩の口からミスティの噂をきいたとき、どう思いました?」

「どうって……そんな話、嘘だろうって思ったけど」

「ですよね。たぶん、大抵の人はそう思うはずです。でも、電気科の軟派でしつこい先輩から同じ話を聞いたとき、本当じゃないかって考えませんでしたか?」

「……まあ、そうだな」


 非常に胡散臭い感じだったが、先輩から話を聞いて、ミスティの噂は本当なんだと思ったのは事実だ。


「広めたのはそういう理由です。まったく別の人間から同じ話を聞いたとき、それが非現実的だったとしても、もしかして本当なのかもしれないと思うものなんです」

「……大牟田先輩もそんなこと言ってたな」


 最初、先輩はその話を半信半疑で聞いていたが、レコードの力で実際に彼女を作ったと友人たちから聞いて、ミスティの噂を信じた。


「つまり、コヨミさんは大牟田先輩に噂を信じてもらうために、電気科の先輩に協力してもらったってわけか」

「そういうことです。うまくいったと言っていた噂話のすべてが協力者によるものだと思います。軟派でしつこい先輩も『コヨミさんにお世話になっている』と言っていましたし、ほかの先輩の方たちもコヨミさんと親交があったと考えていいでしょう」

「でも、なんで大牟田先輩に噂を信じてもらう必要があったんだ?」

「理由はふたつあります。ひとつは、一種のプラシーボ効果ですね」

「プラシーボ効果?」

「暗示作用のことですよ。効果がない薬をあたかも効果があるように説明することで何らかの改善がみられることを言います」

「……あ、なるほど」


 ミスティのレコードに効力があると信じさせることで、一緒に聴いたときに好意的に受け入れてくれる確率がぐっと高くなるというわけだ。


「もうひとつは間接的に想いを伝えることができるからです。そういう効果があるレコードを一緒に聴くという状況を作るだけで、想いは伝わりますよね?」


 確かに噂を知っている人間がそんな状況を作れば言葉で伝えずとも想いは伝わる。

 現に、俺がミスティを一緒に聞こうと有栖川に言ったら勘違いしてたし。


「でも、コヨミさんって面と向かってはっきり言いそうなタイプに見えたけどな」


 歯に衣着せぬもの言い、とでもいうのだろうか。

 相手が幼馴染だったら余計に何の障害もなくズバッと言ってしまいそうだけれど。


「ふふ、住吉さんって、意外と女心をわかっていないんですねぇ」


 有栖川がいたずらっぽく笑う。

 ちょっとムッとしてしまったが、そのとおりなので、なにも言い返せない。


「長く付き合いがあるからこそ想いを告げることに抵抗があるんですよ。だから噂の力を借りて、間接的に想いを伝えることにしたんです。ほら、覚えていますか? この前聴いた、『アイ・ラブズ・ユー・ポーギー』」

「もちろん覚えてるよ。エヴァンスの曲だよな」


 井上の祖父、正男さんと澄子さんの一件で聴いた曲だ。


「あのタイトルも、ベスが抱えていたポーギーへの想いを客観的に表現していたじゃないですか。直接伝えることができないもどかしいものでも、少し立場をずらしてあげれば、一歩は踏み出せるものです」

「……ん~、そういうものなのか」

「ええ、そういうものです」


 俺にはよくわからない感覚だが、女子の有栖川がいうのなら、そうなのだろう。

 しかし、世の中にはわからないことがたくさんある。

 中でも一番わからないのは「人の心」なんじゃないだろうか。

 腹が鳴れば空腹かどうかはわかる。体を診断すれば病気かどうかもわかる。

 しかし、相手が何を考えているかをはっきりと知る術は存在しない。

 言葉や表情には、建前という嘘を紛れ込ませることができるからだ。

 ストレッチをしていたサッカー部の生徒たちがぞろぞろと校舎にもどってきた。

 もうすぐ午後の授業がはじまる時間なのだろう。

 ふと、有栖川はどうして俺のところに来たのだろうと不思議に思った。

 やはり、女子の考えていることはよくわからない。

 高校を卒業して大人になっていけば、やがてわかるようになるのだろうか。
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