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第三章 エロール・ガーナー「ミスティ」
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最近、夜が早くなったなと思うことが多くなった。
といっても「寝るのが早くなった」という意味ではなく、「陽が落ちるのが早くなってきた」という意味だ。
半袖のシャツを着るには少しきつくなってきたし、そろそろ冬服の学生服に衣替えするのが待ち遠しくなってきた。
学校が終わって四◯三アーケードを歩いていると、町並みがすっかり秋色に染まっていた。
落ち着いた色彩に変わりつつあるアパレルショップに、梨や柿、それに焼き栗の販売を始めた果実店。
中にはハロウィンを見越して、仮装グッズを売り始めている店もあった。
佐世保の街は秋がとても似合うと思う。
海が近い佐世保には食欲をそそられる食べ物がたくさんあるからだ。
その代表と言えるのが、戦後ジャズとともに広く知れ渡った「ハンバーガー」だろう。
今ではご当地グルメの「佐世保バーガー」として認知されている。
井上に教えてもらったのだが、佐世保バーガーは特定の種類のハンバーガーのことを指すものではないらしい。
店舗で手作りをしていて作り置きをせず、さらには佐世保市内の店舗で提供されているものが佐世保バーガーなのだという。
近年は「佐世保バーガー認定制度」なるものも作られ、それをクリアした店だけが佐世保バーガーを名乗ることを許されるとか。
そこまで厳しくする必要があるのか疑問だけど、あの旨さを維持するためには必要なことなのかもしれない。
「……ん?」
そんなことを考えながら、四◯三アーケードの入り口にある「佐世保C&Bバーガー」の前を通りかかったとき、ガラス越しによく知る生徒の姿があった。
つややかな黒髪が特徴的な学生服の女性。
クラスメイトの有栖川ちひろ。
どうやら向こうも俺に気づいたらしい。
あんぐりと口をひらいたまま凍りついたように固まってしまっている。
見かけによらず豪快な食べ方だなぁ……なんて思っていたら、ハンバーガーを一旦置いてしとやかに食べ始めた。
いまさらかよ。
なんだか悪いことをしてしまったな。
邪魔をしないようにこのまま立ち去ろうかと考えたが、俺の腹が立ち去ることを拒むように唸り声をあげた。
ドアを開けた瞬間、食欲をそそる良い香りが鼻腔をくすぐる。
「……こ、こんにちは」
こんなところで会うなんて奇遇ですねとでも言いたげに、有栖川は言う。
「カ、カフェに行く前に、ちょっと小腹を満たそうとおもって……」
「実は俺も」
有栖川の隣の席にカバンを降ろして、カウンターで注文することにした。
何を頼もうかしばらく悩んだが、オーソドックスな佐世保バーガーC&Bを頼んだ。
バンズからはみ出すほど大きなベーコンに巨大なパティが特徴で食べごたえ抜群の一品らしい。
出来上がるまで時間がかかるらしく、受付番号を受け取ってを席に戻った。
「意外と学生も多いんだな」
店内には俺たち以外にも学生服姿の客がいた。
アーケードの入り口という立地の良さもあって、入りやすいのだろうか。
「そ、そうですね……私も、ときどき来ています」
「へぇ。佐世保バーガー、好きなのか?」
「……はい、好いとります」
恥ずかしそうにうつむく有栖川。
「住吉さんはどうですか? 佐世保バーガー」
「まだ数えるくらいしか食べてないんだけど、俺も結構好きだな。ボリュームもあるし、出来たてだし。昔から食べていた有栖川がちょっと羨ましいよ」
佐世保バーガーがご当地グルメとして有名になったのは十数年前くらいだと聞いたけど、佐世保に住んでいる有栖川は子供の頃から食べていたに違いない。
有栖川の子供時代はどんな感じだったのだろうか。
今と一緒で、ジャズに夢中だったのだろうか。
「私もそんなに昔から食べているわけではないですよ」
有栖川が店の前を行き交う学生たちを見ながら、物憂げに言った。
「そうなんだ。親が許してくれなかったとか?」
「あ、いえ。そういうわけではないのですが……」
少し言葉を選ぶ素振りを見せて、続ける。
「実は、私も数年前に佐世保に引っ越してきたんです」
「……え、マジで?」
「家庭の事情で中学生の頃に」
初めて聞く有栖川の過去。
もっと詳しく聞きたいところだったが、「家庭の事情」というフレーズに引っかかったので、それ以上は聞かないことにした。
プライベートのことに土足で立ち入るのは良くない。
「なんだか意外だな。たまに方言が出てくるから佐世保が地元かとおもってた」
「あっ、あれは、その、引っ越してきてから祖父と一緒にいることが多くて、それで佐世保弁が移ってしまったというか……」
「祖父って……もしかして東さん?」
「ち、違います」
次第に尻窄みになる有栖川の声。
「私にジャズを教えてくれたのが祖父なんです。祖父は、自宅に多くのコレクションを持っていて、今ではあまりお目にかかることができない希少なレコードも沢山ありました」
「希少レコード?」
「はい。ブルーノートの1500番台のオリジナル盤です」
急にスイッチが入ったかのように、声がしっかりとしてくる有栖川。
確か、ブルーノートは世界一のジャズ・レーベルの名前だった。でも1500番台というのはなんだろう。
「1500番台というのは、ブルーノートで生産されたレコードの番号のことです。カタログ・ナンバーとも呼ばれていて、中でも1500番台と4000番台は傑作が多く、ライブ音源を使ったオリジナル盤は、今でも高額で取引されています」
口に出さずとも、有栖川は空気を察して答えてくれた。
「例えば、リー・モーガンの『インディード』や、ユタ・ヒップの『ズート・シムズ』、ビルエヴァンズの『ポートレイト・イン・ジャズ』などが1500番台ですね。すべて数万から数十万で取引されるほどの人気盤です」
ユタ・ヒップという名前は初耳だが、あとのふたりは有栖川に聴かせてもらったことがある。
オリジナル盤ではないが、父のレコードコレクションの中にもあった。
しかし、数十万というのはすごいな。
オリジナル盤は音質が良いと言っていたけれど、そんな大金を出すほど良いのだろうか。
「それに……祖父のコレクションにはコルトレーンの『ブルートレイン』もありました」
へぇ、と俺は頷いて有栖川の言葉を流しかけた。
すぐに何か変なことを言った気がして、聞き返す。
「ちょっと待って。今、『ブルートレイン』のオリジナル盤って言った?」
「ええ」
有栖川が頷く。
ブルーレインのオリジナル盤は父が探していたレコードだ。
有栖川の店に行っている理由のひとつが、ブルートレインのオリジナル盤を聴くためだった。
「そ、そのレコードコレクションはどうなったんだ?」
「……祖父が亡くなってすぐ、私が引き取りました」
おもわず有栖川の顔を見てしまった。
てっきり祖父はまだ健在だと思っていた。
「気にしないでください。もうずっと前の話ですから」
そう返してくれた有栖川だったが、その表情は晴れやかとは言いづらかった。
中学の頃に引っ越してきて祖父にジャズを教えてもらっていたのなら、少なくとも2年くらい前まで祖父は健在だったことになる。
思い出として記憶の中に仕舞うには短すぎる時間だ。
と、そのとき店員が俺の番号を呼んだ。
頼んだ「佐世保バーガーC&B」が出来上がったらしい。
有栖川の祖父やレコードの話が気になったが、何度か番号を復唱されたので渋々カウンターへと向かう。
受け取ったハンバーガーのデカさに度肝を抜かれつつ、席へと戻る。
有栖川は思い耽るように窓の外をぼんやりと眺めていた。
彼女にジャズを教えていた祖父はどんな人だったのだろう。
佐世保がジャズの聖地と呼ばれていた時代を実際に目の当たりにしていたのだろうか。
そして──彼が持っていたブルートレインのオリジナル盤はどこにいったのか。
触れたくても触れられないその疑問は、小腹を満たすには大きすぎるハンバーガーと共に飲み込んだ。
「……そういえば、もうすぐ工業祭だな」
気まずい空気を変えたくて、何気ない話題を振った。
工業祭というのは、一般的にいうところの文化祭のことだ。
毎年この時期に開催されていて、各クラスでの催し物はもちろん、工業高校ならではの「ものづくり」に特化したイベントも用意されている。
「そう言えばそうですね。そっか。もうそんな時期なんだ」
有栖川の空気が少し和らいだような気がした。
「俺は初めて参加するんだけど、今年は何をやるんだろうな?」
俺のクラスである建築科は、去年、製図を元に製作した作品の展示と屋台を開いて焼きトウモロコシを販売したらしい。
「実は、今年こそはやりたいものがあるんです」
「やりたいこと?」
一体なんだろう。
有栖川のことだから、ジャズ喫茶だったりするのだろうか。
「もちろん、ジャズ喫茶です!」
考えるまでもなかったか。
「去年、ジャズ喫茶をやろうと提案したんですけど、却下されてしまったんです。だから、今年こそ……!」
「俺は良いと思うけど、工業祭にジャズ喫茶ってあんまり合わなくないか?」
「そ、そんなことありませんよ! お店の設計からやれば建築科の授業で培った知識を最大限発揮できますし、工業祭の趣旨にピッタリじゃないですか!」
「……一応聞いとくけど、上棟して一から作るつもりじゃないよな?」
「え? そのつもりですけど?」
それがどうしたんですかと言いたげに、首をかしげる有栖川。
上棟というのは、下小屋で加工された材料を現場で建ち上げることを指す。
実際の建築現場では下小屋から建築の骨格である柱、桁、梁などの部材を運び出して重機を使って組み立てるのだが、授業の実習では加工までしかやっていない。
ミニチュアであれば可能だと思うけれど、実寸台の店を作るとなると、なんていうか……通らなくて当然だろうな。
うん、多分今年も無理だろう。
「というか、カフェでバイトしているのに店を作ってまでやらなくてよくないか?」
「バイトとは違いますよ。ある意味、予行練習のようなものですし」
「予行練習?」
「私、自分の店を持つのが夢なんです。建築科に入ったのは、設計やデザインを自分でできるようにするためです」
「それは壮大な夢だな。てか、すごいな。そんな夢を持ってるなんて」
「そ、そんなことありませんよ。す、す、住吉さんは、どうして建築科に?」
頬をほんのり紅潮させて、有栖川が訊ねる。
「ん~、特に理由はないかな。有栖川みたいに夢があるわけじゃないし。しいていうなら、建築科って響きがかっこよかったからかな」
「ふふ、なんですか、それ」
有栖川がクスクスと肩を震わせ始めた。
「でも、なんていうか住吉さんらしい気がします」
「あんまり深く考えてない?」
「はい」
「よくわかっていらっしゃる」
俺も笑ってしまった。
「しかし、有栖川にそんな大きな夢があったんだな。俺はてっきり、将来はあのカフェを継ぐもんだと思ってた」
有栖川と東さんの関係はよくわからないけど、ただのアルバイトと店長という関係ではない気がする。
他に店員もいないようだし、東さんが退いたあとは有栖川が継ぐという形が一番しっくりくると思う。
「……私が継ぐことはできませんよ」
だが、有栖川ははっきりと、まるで自分に言い聞かせるようにそういった。
「あのお店は、ゆくゆくは息子さんが継ぐはずです」
「息子? 東さんに息子がいるのか?」
「ええ。でも、住吉さんが知らなくて当然です。もう何年もお店に来ていませんし」
仕事か、結婚か。
事情があって家を出て行ったんだろうか。
「何年も離れているのに、店を継ぐのか?」
「以前に世界的な不況のあおりを受けて、お店が傾きかけたことがあったのですが、そのときに息子さんが相当な資金をお店に入れたみたいなんです。権利の譲渡までは行われなかったと聞きますが、経営権に関して発言力はあるはずです」
「そうなのか……」
う~ん、そういう話はいまいちよくわからないな。
東さんが有栖川に店を継がせたいと思っていても、息子さんの了承を得ないと難しいということだろうか?
というか、息子さんは本当に店をやりたいと思っているか甚だ疑問だ。
有栖川が「店を継ぎたい」と言えば息子さんも首肯しそうだけど。
「よくわからないけど、俺は有栖川のほうがあの店にふさわしいと思うけどな」
ジャズの知識も深いし、店のことや客のことも熟知している。
それに、なにより有栖川はあの店を愛している。
「……わっ」
少し裏返った声が、跳ねた。
「わっ、私は……おのお店に、ふさわしい人間なんかでは、なかです。すっ、すす、少しジャズをかじっているだけだし、それに……卑怯か人間なんです」
「いや、そんなことはないと思うぞ。少なくとも有栖川にこそふさわしいって思ってる客がここにひとりいるわけだからさ。それに、なんていうか……有栖川が店を継いでくれれば、こんな関係がずっと続くし」
「こ、こんな関係が、ずっ、ずず、ずっと?」
「ああ。学校を卒業してもあの店で有栖川からジャズの話を聞けたらいいなって──」
と、そこで言葉を飲み込んだ。
ちょっと待て。
それじゃあ、なんだか告白をしているみたいじゃないか。
恐る恐る隣を見る。
案の定、有栖川は熟れたトマトのように頬を紅潮させていた。
このままでは爆発してしまいそうな雰囲気すらある。
「……と、とりあえず、ジャズ喫茶の件は、井上に相談してみようぜ?」
なので、強引に話題を戻した。
「い、井上さんに、ですか?」
「ああ。あいつを味方につけたら、ジャズ喫茶案を推してくれるかもしれないだろ? そうしたら、皆も賛同してくれるかもしれない」
学級委員長・井上の影響力は相当なものなのだ。
しばし考えて、有栖川は静かに言った。
「……そうですね。そうなると、よかですねぇ。えへへ」
有栖川は嬉しそうに笑う。
ずるいくらいの魅力的な笑顔で。
今度は俺が顔を赤くする番だった。
といっても「寝るのが早くなった」という意味ではなく、「陽が落ちるのが早くなってきた」という意味だ。
半袖のシャツを着るには少しきつくなってきたし、そろそろ冬服の学生服に衣替えするのが待ち遠しくなってきた。
学校が終わって四◯三アーケードを歩いていると、町並みがすっかり秋色に染まっていた。
落ち着いた色彩に変わりつつあるアパレルショップに、梨や柿、それに焼き栗の販売を始めた果実店。
中にはハロウィンを見越して、仮装グッズを売り始めている店もあった。
佐世保の街は秋がとても似合うと思う。
海が近い佐世保には食欲をそそられる食べ物がたくさんあるからだ。
その代表と言えるのが、戦後ジャズとともに広く知れ渡った「ハンバーガー」だろう。
今ではご当地グルメの「佐世保バーガー」として認知されている。
井上に教えてもらったのだが、佐世保バーガーは特定の種類のハンバーガーのことを指すものではないらしい。
店舗で手作りをしていて作り置きをせず、さらには佐世保市内の店舗で提供されているものが佐世保バーガーなのだという。
近年は「佐世保バーガー認定制度」なるものも作られ、それをクリアした店だけが佐世保バーガーを名乗ることを許されるとか。
そこまで厳しくする必要があるのか疑問だけど、あの旨さを維持するためには必要なことなのかもしれない。
「……ん?」
そんなことを考えながら、四◯三アーケードの入り口にある「佐世保C&Bバーガー」の前を通りかかったとき、ガラス越しによく知る生徒の姿があった。
つややかな黒髪が特徴的な学生服の女性。
クラスメイトの有栖川ちひろ。
どうやら向こうも俺に気づいたらしい。
あんぐりと口をひらいたまま凍りついたように固まってしまっている。
見かけによらず豪快な食べ方だなぁ……なんて思っていたら、ハンバーガーを一旦置いてしとやかに食べ始めた。
いまさらかよ。
なんだか悪いことをしてしまったな。
邪魔をしないようにこのまま立ち去ろうかと考えたが、俺の腹が立ち去ることを拒むように唸り声をあげた。
ドアを開けた瞬間、食欲をそそる良い香りが鼻腔をくすぐる。
「……こ、こんにちは」
こんなところで会うなんて奇遇ですねとでも言いたげに、有栖川は言う。
「カ、カフェに行く前に、ちょっと小腹を満たそうとおもって……」
「実は俺も」
有栖川の隣の席にカバンを降ろして、カウンターで注文することにした。
何を頼もうかしばらく悩んだが、オーソドックスな佐世保バーガーC&Bを頼んだ。
バンズからはみ出すほど大きなベーコンに巨大なパティが特徴で食べごたえ抜群の一品らしい。
出来上がるまで時間がかかるらしく、受付番号を受け取ってを席に戻った。
「意外と学生も多いんだな」
店内には俺たち以外にも学生服姿の客がいた。
アーケードの入り口という立地の良さもあって、入りやすいのだろうか。
「そ、そうですね……私も、ときどき来ています」
「へぇ。佐世保バーガー、好きなのか?」
「……はい、好いとります」
恥ずかしそうにうつむく有栖川。
「住吉さんはどうですか? 佐世保バーガー」
「まだ数えるくらいしか食べてないんだけど、俺も結構好きだな。ボリュームもあるし、出来たてだし。昔から食べていた有栖川がちょっと羨ましいよ」
佐世保バーガーがご当地グルメとして有名になったのは十数年前くらいだと聞いたけど、佐世保に住んでいる有栖川は子供の頃から食べていたに違いない。
有栖川の子供時代はどんな感じだったのだろうか。
今と一緒で、ジャズに夢中だったのだろうか。
「私もそんなに昔から食べているわけではないですよ」
有栖川が店の前を行き交う学生たちを見ながら、物憂げに言った。
「そうなんだ。親が許してくれなかったとか?」
「あ、いえ。そういうわけではないのですが……」
少し言葉を選ぶ素振りを見せて、続ける。
「実は、私も数年前に佐世保に引っ越してきたんです」
「……え、マジで?」
「家庭の事情で中学生の頃に」
初めて聞く有栖川の過去。
もっと詳しく聞きたいところだったが、「家庭の事情」というフレーズに引っかかったので、それ以上は聞かないことにした。
プライベートのことに土足で立ち入るのは良くない。
「なんだか意外だな。たまに方言が出てくるから佐世保が地元かとおもってた」
「あっ、あれは、その、引っ越してきてから祖父と一緒にいることが多くて、それで佐世保弁が移ってしまったというか……」
「祖父って……もしかして東さん?」
「ち、違います」
次第に尻窄みになる有栖川の声。
「私にジャズを教えてくれたのが祖父なんです。祖父は、自宅に多くのコレクションを持っていて、今ではあまりお目にかかることができない希少なレコードも沢山ありました」
「希少レコード?」
「はい。ブルーノートの1500番台のオリジナル盤です」
急にスイッチが入ったかのように、声がしっかりとしてくる有栖川。
確か、ブルーノートは世界一のジャズ・レーベルの名前だった。でも1500番台というのはなんだろう。
「1500番台というのは、ブルーノートで生産されたレコードの番号のことです。カタログ・ナンバーとも呼ばれていて、中でも1500番台と4000番台は傑作が多く、ライブ音源を使ったオリジナル盤は、今でも高額で取引されています」
口に出さずとも、有栖川は空気を察して答えてくれた。
「例えば、リー・モーガンの『インディード』や、ユタ・ヒップの『ズート・シムズ』、ビルエヴァンズの『ポートレイト・イン・ジャズ』などが1500番台ですね。すべて数万から数十万で取引されるほどの人気盤です」
ユタ・ヒップという名前は初耳だが、あとのふたりは有栖川に聴かせてもらったことがある。
オリジナル盤ではないが、父のレコードコレクションの中にもあった。
しかし、数十万というのはすごいな。
オリジナル盤は音質が良いと言っていたけれど、そんな大金を出すほど良いのだろうか。
「それに……祖父のコレクションにはコルトレーンの『ブルートレイン』もありました」
へぇ、と俺は頷いて有栖川の言葉を流しかけた。
すぐに何か変なことを言った気がして、聞き返す。
「ちょっと待って。今、『ブルートレイン』のオリジナル盤って言った?」
「ええ」
有栖川が頷く。
ブルーレインのオリジナル盤は父が探していたレコードだ。
有栖川の店に行っている理由のひとつが、ブルートレインのオリジナル盤を聴くためだった。
「そ、そのレコードコレクションはどうなったんだ?」
「……祖父が亡くなってすぐ、私が引き取りました」
おもわず有栖川の顔を見てしまった。
てっきり祖父はまだ健在だと思っていた。
「気にしないでください。もうずっと前の話ですから」
そう返してくれた有栖川だったが、その表情は晴れやかとは言いづらかった。
中学の頃に引っ越してきて祖父にジャズを教えてもらっていたのなら、少なくとも2年くらい前まで祖父は健在だったことになる。
思い出として記憶の中に仕舞うには短すぎる時間だ。
と、そのとき店員が俺の番号を呼んだ。
頼んだ「佐世保バーガーC&B」が出来上がったらしい。
有栖川の祖父やレコードの話が気になったが、何度か番号を復唱されたので渋々カウンターへと向かう。
受け取ったハンバーガーのデカさに度肝を抜かれつつ、席へと戻る。
有栖川は思い耽るように窓の外をぼんやりと眺めていた。
彼女にジャズを教えていた祖父はどんな人だったのだろう。
佐世保がジャズの聖地と呼ばれていた時代を実際に目の当たりにしていたのだろうか。
そして──彼が持っていたブルートレインのオリジナル盤はどこにいったのか。
触れたくても触れられないその疑問は、小腹を満たすには大きすぎるハンバーガーと共に飲み込んだ。
「……そういえば、もうすぐ工業祭だな」
気まずい空気を変えたくて、何気ない話題を振った。
工業祭というのは、一般的にいうところの文化祭のことだ。
毎年この時期に開催されていて、各クラスでの催し物はもちろん、工業高校ならではの「ものづくり」に特化したイベントも用意されている。
「そう言えばそうですね。そっか。もうそんな時期なんだ」
有栖川の空気が少し和らいだような気がした。
「俺は初めて参加するんだけど、今年は何をやるんだろうな?」
俺のクラスである建築科は、去年、製図を元に製作した作品の展示と屋台を開いて焼きトウモロコシを販売したらしい。
「実は、今年こそはやりたいものがあるんです」
「やりたいこと?」
一体なんだろう。
有栖川のことだから、ジャズ喫茶だったりするのだろうか。
「もちろん、ジャズ喫茶です!」
考えるまでもなかったか。
「去年、ジャズ喫茶をやろうと提案したんですけど、却下されてしまったんです。だから、今年こそ……!」
「俺は良いと思うけど、工業祭にジャズ喫茶ってあんまり合わなくないか?」
「そ、そんなことありませんよ! お店の設計からやれば建築科の授業で培った知識を最大限発揮できますし、工業祭の趣旨にピッタリじゃないですか!」
「……一応聞いとくけど、上棟して一から作るつもりじゃないよな?」
「え? そのつもりですけど?」
それがどうしたんですかと言いたげに、首をかしげる有栖川。
上棟というのは、下小屋で加工された材料を現場で建ち上げることを指す。
実際の建築現場では下小屋から建築の骨格である柱、桁、梁などの部材を運び出して重機を使って組み立てるのだが、授業の実習では加工までしかやっていない。
ミニチュアであれば可能だと思うけれど、実寸台の店を作るとなると、なんていうか……通らなくて当然だろうな。
うん、多分今年も無理だろう。
「というか、カフェでバイトしているのに店を作ってまでやらなくてよくないか?」
「バイトとは違いますよ。ある意味、予行練習のようなものですし」
「予行練習?」
「私、自分の店を持つのが夢なんです。建築科に入ったのは、設計やデザインを自分でできるようにするためです」
「それは壮大な夢だな。てか、すごいな。そんな夢を持ってるなんて」
「そ、そんなことありませんよ。す、す、住吉さんは、どうして建築科に?」
頬をほんのり紅潮させて、有栖川が訊ねる。
「ん~、特に理由はないかな。有栖川みたいに夢があるわけじゃないし。しいていうなら、建築科って響きがかっこよかったからかな」
「ふふ、なんですか、それ」
有栖川がクスクスと肩を震わせ始めた。
「でも、なんていうか住吉さんらしい気がします」
「あんまり深く考えてない?」
「はい」
「よくわかっていらっしゃる」
俺も笑ってしまった。
「しかし、有栖川にそんな大きな夢があったんだな。俺はてっきり、将来はあのカフェを継ぐもんだと思ってた」
有栖川と東さんの関係はよくわからないけど、ただのアルバイトと店長という関係ではない気がする。
他に店員もいないようだし、東さんが退いたあとは有栖川が継ぐという形が一番しっくりくると思う。
「……私が継ぐことはできませんよ」
だが、有栖川ははっきりと、まるで自分に言い聞かせるようにそういった。
「あのお店は、ゆくゆくは息子さんが継ぐはずです」
「息子? 東さんに息子がいるのか?」
「ええ。でも、住吉さんが知らなくて当然です。もう何年もお店に来ていませんし」
仕事か、結婚か。
事情があって家を出て行ったんだろうか。
「何年も離れているのに、店を継ぐのか?」
「以前に世界的な不況のあおりを受けて、お店が傾きかけたことがあったのですが、そのときに息子さんが相当な資金をお店に入れたみたいなんです。権利の譲渡までは行われなかったと聞きますが、経営権に関して発言力はあるはずです」
「そうなのか……」
う~ん、そういう話はいまいちよくわからないな。
東さんが有栖川に店を継がせたいと思っていても、息子さんの了承を得ないと難しいということだろうか?
というか、息子さんは本当に店をやりたいと思っているか甚だ疑問だ。
有栖川が「店を継ぎたい」と言えば息子さんも首肯しそうだけど。
「よくわからないけど、俺は有栖川のほうがあの店にふさわしいと思うけどな」
ジャズの知識も深いし、店のことや客のことも熟知している。
それに、なにより有栖川はあの店を愛している。
「……わっ」
少し裏返った声が、跳ねた。
「わっ、私は……おのお店に、ふさわしい人間なんかでは、なかです。すっ、すす、少しジャズをかじっているだけだし、それに……卑怯か人間なんです」
「いや、そんなことはないと思うぞ。少なくとも有栖川にこそふさわしいって思ってる客がここにひとりいるわけだからさ。それに、なんていうか……有栖川が店を継いでくれれば、こんな関係がずっと続くし」
「こ、こんな関係が、ずっ、ずず、ずっと?」
「ああ。学校を卒業してもあの店で有栖川からジャズの話を聞けたらいいなって──」
と、そこで言葉を飲み込んだ。
ちょっと待て。
それじゃあ、なんだか告白をしているみたいじゃないか。
恐る恐る隣を見る。
案の定、有栖川は熟れたトマトのように頬を紅潮させていた。
このままでは爆発してしまいそうな雰囲気すらある。
「……と、とりあえず、ジャズ喫茶の件は、井上に相談してみようぜ?」
なので、強引に話題を戻した。
「い、井上さんに、ですか?」
「ああ。あいつを味方につけたら、ジャズ喫茶案を推してくれるかもしれないだろ? そうしたら、皆も賛同してくれるかもしれない」
学級委員長・井上の影響力は相当なものなのだ。
しばし考えて、有栖川は静かに言った。
「……そうですね。そうなると、よかですねぇ。えへへ」
有栖川は嬉しそうに笑う。
ずるいくらいの魅力的な笑顔で。
今度は俺が顔を赤くする番だった。
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中学生徒会を主役に、行方不明の生徒会長を探し回るミステリー短編小説。
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※別サイトの企画に出していた作品を転載したものです※
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