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第一章 ジョン・コルトレーン「ブルートレイン」

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 どきりとしてしまったのは、急に俺の名前が出てきたからだ。


「俺がコルトレーンを好きって……何を言ってるんだ? 言っただろ。俺はジャズが嫌いなんだよ」

「ええ、知っています。教えてくれましたよね。『俺がジャズを嫌いになったのは、死んだ父のせいだ』って」


 昨日この場所で有栖川に話した。

 東さんにジャズはあまり好きじゃないということを話して、それを立ち聞きされたときだ。





 有栖川は言う。


「住吉さんは『嫌いだった』ではなく、『嫌いになった』とおっしゃっていました。つまり、お父様を嫌いになる前は、好きだったんです」

「そんなことありえない。だって、俺は父が聴いていた曲をなにひとつ覚えていないんだ。もし、本当に好きだったら、リズムに至るまで詳細に覚えているはずだろ?」


 タイトルやアーティストの名前は覚えているが、どんな曲だったのかは記憶にない。

 父が一番聴いていた、ブルートレインですら。


「では、実際に聴いてみましょうか?」


 簡単なことだといいたげに、有栖川は笑う。


「覚えているかどうか、聴けばわかります。そろそろ『タイム・アウト』が終わるので、丁度良いタイミングです」


 有栖川がターンテーブルへと向かう。

 驚いたことに彼女が傍に寄った途端、狙っていたかのように店内に流れていた曲が終わった。

 しんと静まり返る店内。

 東さんたちの声が、かすかに揺れている。

 しばしのときが流れ、サックスの音色がさざなみのように広がった。

 ゆったりとしたピアノのフレーズがサックスのビートを追いかける。

 何度か特徴的な同じフレーズが続き、サックスのソロが始まった。

 ギターの速弾きのような、敷き詰めた音の羅列──


「あ」


 瞬間、ぞくりとした寒気のようなものが全身に走った。

 コルトレーンのサックスに叩き起こされるように、頭の中にとある記憶が甦ったのだ。

 色あせた、遠い昔の記憶だった。

 父のあぐらの上に座って、この音楽を聞いていた。

 そんな俺を見下ろして、父は「コルトレーンは良いだろう?」と笑っていた。

 優しくて温かい父の笑顔。

 俺は、そんな父の笑顔が好きだった。

 だから、父の部屋に行って一緒にジャズを聴いていたのだ。 

 ──そうだ。

 俺は父に呼ばれて無理やりコルトレーンを聴かされていたんじゃない。

 この曲が聴きたくて……嬉しそうな父が見たくて、自分から父の部屋に行っていたんだ。

 しかし、中学に上がると同時に父の部屋を訪れることはなくなった。

 興味が他のものへと移ってしまったからだ。

 横須賀でやっていた空手もそのひとつだった。

 ジャズから離れると父との共通の話題がなくなった。

 会話がなくなり、少しづつ距離ができていった。

 それが決定的になってしまったのが、佐世保への引っ越しだった。

 父のことが嫌いになり、引きずられるようにジャズも嫌いになった。

 忘れてしまっていた遠い記憶。

 有栖川が言ったとおりだ。

 俺は父を恨むと同時にジャズが嫌いになった。

 嫌いじゃなければいけないと、自分に課していた。


「ここからは私の想像ですが、お父様はきっかけを探していたんじゃないかと思います」


 有栖川の声が繊細なピアノの音に乗って運ばれてきた。


「お父様は住吉さんが好きだったブルートレインを通じて、もう一度、話しをしたかったんじゃないでしょうか。だから、必死でオリジナル盤を探していた」


 ──隆弘、コルトレーンのオリジナル盤を見つけたんだが一緒に聴かないか?

 そんなふうに話しかけてくる父の姿が容易に想像できる。

 父は俺との間にできてしまった溝をどうにか出来ないかと考え、俺が好きだったコルトレーンをきっかけにしたかった。

 寡黙で不器用、レコードが好きで──ジャズが大好きだった父が思いついた方法が、それだった。

 呆れてしまうくらい父らしい。

 今まで思い出すことができなかったこと。

 思い出そうともしなかったこと。

 わかろうとも、してやれなかったこと。

 俺と有栖川の間に、コルトレーンのリズミカルなサックスが踊る。

 その音が心の中に染み込んでくるような感覚があった。


「……いい、曲だな」


 それが素直な感想だった。

 有栖川が嬉しそうに笑う。


「なぁ、有栖川。ブルートレインのオリジナル盤ってここにはないのか?」


 この店にはジャズレコードが沢山ある。

 もしかすると、父が探していたブルートレインのオリジナル盤がここにあるかもしれない。


「すみません、残念ながらここにはありません。ブルートレインのオリジナル盤はあまり市場に出回っていないんです。数億のプレミアレコードまでとはいきませんが、それでもオークションサイトで30万の値が付いたこともあります」

「さ、30……?」

「なので、めったにお目にかかれるものじゃないんです」


 探しても簡単に見つかるものではない。

 それもそうだろう。

 レコードコレクターの父がずっと探して見つからなかったのだから。


「でも、ここになら、いつか来るかもしれません」


 レコードが並べられた棚を見ながら、有栖川が続ける。


「実はここに並んでいるレコードは、半分ほどがお客さまにお預かりしているレコードなんです。例えば、先ほど流れていたデイヴ・ブルーベックの『タイム・アウト』はあちらのカウンターにいらっしゃるお客様のレコードです」


 丸メガネの客だ。

 東さんとレコードのジャケットを見ながら楽しそうに話している。


「彼はどうしてここにレコードを?」

「ご自宅で聴くことができなくなったからです」

「機材の問題とかか?」

「いいえ。どちらかと言うと環境の変化が理由です。結婚をして子供が出来たのを機にやめたとか、マンションの近隣住人からの苦情で聴けなくなったとか、そういう方は結構いらっしゃるんです」


 今のご時世、いろいろと苦労があるというわけだ。

 ひょっとすると俺の父も同じ悩みを抱えていたのかもしれない。

 防音効果のあるカーテンをつけていたが、それでも無音というわけにはいかなかっただろう。

 ここに預けて、聴きたくなったらコーヒー1杯で聴く。

 維持費もかからないし近隣に迷惑もかからない。

 店側としても預けた客が来てくれるし、かけるレコードにも困らない。


「だから、待っていればいつかブルートレインのオリジナル盤が来る可能性はあります」


 いつになるかわからないが、ネットのオークションサイトやレコード店で探すよりもずっと可能性は高い。


「あ、あの、住吉さん?」


 先程までの凛とした声とはうってかわり、震える有栖川の声が鼓膜を揺らした。


「お、お父様のレコードって、このあと、どうするつもり……なんですか?」

「え? レコード?」

「きっ、先日、聴けるかどうかわからないから一度かけてみるとおっしゃっていたので……その、ええと……かけてみたあと、どうするのかなと」

「あ~、有栖川には話してなかったけど、母がどこかの喫茶店に譲るらしい。それで、渡す前にレコードが聴けるか調べてみようって話になったんだ」

「……ああ……なるほど。そうだったんですね」


 しきりに髪の毛をいじる有栖川。これまでにないくらい挙動がおかしい。


「……何だ?」

「い、いえ、何も」

「何かしてほしいことがあるなら言ってくれ。俺にできることなら協力する」


 なにせ、有栖川は父への誤解をといてくれたのだ。


「ええっと……」


 有栖川はしばらく目を泳がせ、何かを言いかけては飲み込むという動作を繰りかえし、ようやく静かに口を開いた。


「あの、できれば……このお店に、お父様のレコードを……預けていただけませんか?」

「え?」

「もっ、もも、もし可能だったらで結構です。もう喫茶店の方と話を進めていたら、そちらを優先して大丈夫ですので」

「いや、多分、大丈夫だと思うけど……」


 母は電話をしただけだと言っていたし、別にその喫茶店にレコードを買い取ってもらう話をしているのではないのだ。

 譲れない事情ができたと謝れば済むはず。


「……だけど、なんで急に?」

「そっ」

「そ?」

「そっ、それは、あれです。レッ、レレ、レコードを良い状態で保つ一番の方法が、聴き続けることなので」

「……うん?」


 相槌を打ったが、イマイチ話の流れがつかめない。


「ええと、その喫茶店がジャズレコードを沢山持っているとしたら、お父様のレコードをかける機会はあまり無いと思うんです。だから、ここに預けてもらって、それで……たまに住吉さんがここにいらっしゃって……リクエストしてもらえれば……いいかな……なんて」


 最後あたりの言葉はスピーカーから流れるブルートレインの特徴的なフレーズに呑まれて消えていった。

 だが、言いたいことはなんとなく理解できた。

 その喫茶店に譲ってしまうと父のレコードが聴かれなくなる可能性があるので、ここに預けて定期的に足を運び、リクエストしろということなのだろう。

 そうすれば、父のレコードは綺麗なままの状態で維持される。


「ここはコーヒー1杯で何時間いても大丈夫なカフェです。追加注文を強制することも、追い出すこともありません。ですが、ここではジャズを楽しんで欲しいんです。その……なんていうか……す、住吉さんにも、ジャズをもう一度好きになって欲しいんです」


 有栖川はこの店を「ジャズを楽しみながら、ゆったりとくつろげる店だ」と言っていた。

 東さんは「来るもの拒まず、去るものを追わない店」と言っていた。

 自由で開放的。まさに……ジャズのような店だ。


「俺なんかがいても、いいのか?」


 訊ねた瞬間、有栖川がぱっと顔を上げた。

 今にも泣き出しそうな顔が、瞬く間にこぼれ落ちるような笑顔へと変わった。


「もちろんですよ」 


 ふと、自分の周りに張っていた壁が、少し崩れたような感覚があった。


「……そういうことなら、まあ、しかなたい。母に聞くまでなんともいえないけど、大丈夫だったら、ここに預けるよ」


 何かを期待しているような有栖川の視線に、咳払いを挟んで答える。


「で、できるだけジャズを楽しむように、努力する」


 胸中で舌打ちを添えたのは、自分でも嫌になるくらいの強がりだったからだ。

 有栖川にそんな意地を張って何の意味があるというのか。

 父への誤解が解けて、ジャズが好きだったことを思い出した。

 だったら、それでいいじゃないか。

 好きだったジャズをもう一度聴きたいから、このお店に通うと素直に言えばいい。

 ジャズを教えてもらうなんて大げさなものじゃない。

 知識が豊富な店主を先生と崇めるわけでもない。

 ここは、狂おしいほどにジャズが好きなクラスメイトがいる「ジャズを楽しむための店」なのだから。 


「ええっと、有栖川?」


 俺は喉の奥から、声を絞り出すようにして、言った。


「と、とりあえず今日のところは、有栖川がコルトレーンの中で一番好きなやつを聴かせてくれないか?」


 有栖川はキョトンと目を丸くする。


「ほら、昨日、教えてくれたやつだよ。タイトルは忘れたけど……それから聴かせて欲しい」


 わずかな静寂。

 すぐに俺の言葉の意味を理解した有栖川が、顔をほころばせた。


「『ジャイアント・ステップス』ですね。今すぐ持ってきます。ちょっと待っていてください」


 有栖川が嬉しそうにカウンターの奥へと消えていく。

 そんな彼女の後を、コルトレーンの軽快なサックスのビートが追いかけていった。
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